2019年10月10日木曜日

36.【最終回】小学校を卒業、そして・・・


 日光修学旅行が終わった頃、卒業制作の話が高梨先生からあった。
「何か6年1組として記念になるものを作って、小学校の中に残しましょう」
 花壇を作るとか、遊び道具を作るとか、いくつか案があったと思うが、話し合いの結果、「トーテムポール」を作ることになった。1組として一本、2組として一本。計二本のトーテムポールを制作することになった。
「1組は、どんな柄にしたらいいと思いますか?」
その時私は手をあげて発言した。
「高梨先生の顔を、一番下に大きく付けるのがいいと思います!」
その案は採用され、とても嬉しかったことを覚えている。高梨先生のあだ名は「おにぎり」だった。おにぎりの形をした先生の顔が、1組のトーテムポールの下に鎮座することになった。

 あれから42年。あのトーテムポールは今でも残っているのだろうか。
 高梨麗子先生は、その後、50代で早世をされたと最近になって聞いた。あのキュートな体型に、もう一度会いたかったと思う。悲しい。さびしい。
 私たちが5年生の時に生まれた赤ちゃんが、いくつの時に先生は他界されたのだろう。その赤ちゃんも今は40代になっているはずである。元気に暮らしているだろうか。

そして卒業式を無事に済ませ…


4月には中学へ入学。
矢印が私。
(写真は加工しています)

 中学1年のクラスの担任の先生は、24歳、男性の国語の先生だった。
 初日の先生の自己紹介のことはよく覚えている。
「好きな歌手は井上陽水です」
ちょっと頼りなさげな、その先生はうれしそうに言ったけれど、私は心の中で
(えー、逮捕された歌手なのに。学校の先生たるもの、犯罪者を好きって言っていいのかな)
などと思っていた。
 その数年前、井上陽水は麻薬で逮捕されていた。今だったら「罪と人格は別」とか「学校の先生だって一人の人間」と考えられるけれど、その頃の私は純粋だった。今は大人になったと思う。というよりか、汚れてしまったのかもしれない(笑)。


中一のクラスの仲良しメンバーと。
犬を抱いているのが私。

 中学になってからも、小学校の時のようにいろいろな失敗があった。入学早々、制服のブレザーを空き地の有刺鉄線に引っ掛けて、かぎ裂きを作ってしまったり。
 一応縫って補修はしたけれど、きれいには直らなかった。仕方なく3年間、その恥ずかしい制服を着続けた。
 中学に入ってからも、一番の親友はちっちゃんだった。だんだんと成長していくちっちゃんは急にきれいになって、男子から告白されることもあった。
 一方、普通の私には、あまり浮いた話はなく、ちょっと格差を感じたけれど、ちっちゃんは小学校から変わらず天然キャラだったので、二人の関係性はずっと変わらなかった。

 その後、高校も一緒で、高3の時には同じクラスにもなった。


高校を卒業した頃。ディズニーランドで。
昭和な女の子テイストが懐かしい。
右から3番目が私。
右から2番目がちっちゃん。
見違えるように大きくなりました。
今でも元気で仲良しです。

 1年ばかりこのブログで、自分の子どもの頃を思い出してきました。昭和の時代が、いつの間にか遠い遠い昔になってしまったことに愕然とします。
 私の話をきっかけに、それぞれの子どもの頃を思い出してくれたら嬉しいです。
 
 私の話は今回で終わります。長い間おつきあいいただきありがとうございました。
 この続きは、もうしばらく書けないと思います。中学からはほぼ大人になって、もう「今の自分」と同一人物なので恥ずかしくて書けません。(小学生までは、子どもすぎて、自分ではない誰かのことを書いていた気がします)
 
 もっともっとおばあさんになったら中学以降の話も書けるかなぁ。いつになるかわかりませんが、ずっと先に、もしかしたら。
 では、いつの日かまたここでお会いしましょう。
 とりあえず、さようなら!        (終)

 




2019年9月28日土曜日

35.修学旅行で日光へ

今回は、写真を数枚掲載する形で、修学旅行の思い出をつづりたいと思う。

日光東照宮の前で記念撮影。

華厳の滝の前で。
ちっちゃん小さい(笑)。
今は160㎝で私より大きくなりました。
後ろにはサワも。

旅館に到着。
高梨先生が、いきなり畳の上にゴロン。
「ああ、いい畳ねえ」と感触を味わっています。

宿泊して朝食の時間。
オチャ、マコちゃんの仲良しコンビ。
私は奥にいる赤いカーディガン。

卒業文集の私の作品。
何だか今の文章タッチと既に同じです。

日光修学旅行
私は、まだ二年か三年だったころから、早く六年生になって修学旅行に行きたい、と思っていました。
そして修学旅行の日、その時はもう、とびはねたり、さけんだりしてばかりいました。
旅館でねる時は、修学旅行の中でも一番印象に残っています。みんなとねるのは初めてだし、どうしても目がとじてくれません。
他の部屋の人たちから何回か注意があったのですが、ききめなどありません。
とうとう角井先生からしかられてしまいました。
「静かにしろ!」
それからは、もうだあれも口をきこうとはしません。そのかわり、せきばらいばかり、してしまいます。
いつの間にか私はねむってしまったみたいです。
起きてみるとまだ三時半でした。けれどねむたくなんかありません。女の子みんなで遊びました。
その日、電車に乗ってから考えました。
「ああ、もう楽しみにしていた修学旅行も終わってしまうし、小学校生活も、あと少ししかないのだなあ」と。


2019年9月23日月曜日

34.痛い黒歴史:市の音楽会でお琴を弾く

左はじ、お琴の前に座っているのが私。

 6年生の11月に、「横須賀市立小学校音楽会」が横須賀文化会館で開催されることになった。
 市内の全部の小学校が集まって、合奏を行う大きな大会である。
 私たちの望洋小学校は、軽快な「ぼくらの木馬は世界を回る」と、渋い「荒城の月」という対照的な2曲を演奏することが決まった。
 大会の1か月ぐらい前から、パート決めが行われた。写真を見ると、笛、ピアノ、オルガン、エレクトーン、ピアニカなどを演奏する生徒たちがいる。
 クラリネットを吹くオチャの姿や、フルートを吹く香澄ちゃん、ベースギターを演奏するヨネの姿も写っている。ヨネはベースを演奏するのは初めてだったらしい。オチャや香澄ちゃんも初めてだったのではないか。先生はあえて子どもたちにチャレンジをさせたのだと思う。
 私はなぜか「琴」を担当することになった。お琴は習ってもいなかったし、なぜ私が担当になったのかは謎だが、たぶんその頃からこけしのような「和の雰囲気」を醸し出していたのだろう。あまり気分は進まなかったが、一応抜擢をされたということで頑張ろうと心に誓っていた。
 数日後、学内の先生の知り合いで、お琴の先生をやっている松沢光枝先生(仮名)が、私の指導のために小学校に来てくれた。やさしいおっとりとした松沢先生の指導のもと、素人ながらもどうにか「荒城の月」のサビのフレーズが弾けるようになった。
 曲の中で、私が演奏するのはそのサビの部分だけだったが、ソロで弾かなければいけないので目立つし、責任は重大だった。

 そして当日。望洋小学校の出番が来る10分前くらいに、私はお琴のチューニングをしに舞台の袖の所へ行かなければならなかった。その時、担任の高梨麗子先生が
「一緒に行ってあげようか?」
と言ってくれたのだが、何となく手間をかけるのが申し訳ないような気がして
「いいです、大丈夫です」
と言ってしまい、一人でチューニングをすることになった。
 袖の暗い所で、いつも通りのチューニングは難しかったけれど、
(だいたいこんな感じかな?)
と適当に合わせて済ませた。その時、望洋小の2つ前の小学校が演奏中だったので、お琴の高い音を出すと、聞こえてしまうような気がして、音を出して確認することができなかった。でも大丈夫だろうと高をくくっていた。
出番前、待機している私。
この後、悲劇が!

 そして本番。いいかげんなチューニングのせいで、とんでもなく音の外れた「荒城の月」がソロで会場全体に鳴り響いた。最初に1,2音、弦をはじいた時に
(あっ、これはまずい!)
と思ったが、中断するわけにはいかず、外れた音のまま最後までフレーズを弾き続けた。もう、針のむしろの上に座っているような気分だった。

 演奏が終わった後、誰かが気軽に
「ちょっと音が外れてたねっ」
などと笑って話しかけてくれることを期待していた。そうすれば
「えへへっ、失敗しちゃった」
と舌を出して笑い飛ばすことができたと思う。
 しかし、期待に反して、先生も友達も、誰一人として私のお琴に関してコメントしてくれる人はいなかった。どうしようもなく落ち込んでしまった私だった。
 私を抜擢してくれた先生方、お稽古をしてくれた松沢先生には本当に申し訳なかったと思う。そしてせっかくがんばって練習してきたのに、ぶちこわしてしまったことを、同級生のみんなにも大変申し訳なく思った。

 かなり落ち込んでしまったけれど、基本的に脳天気なので、数日経つと元通りになって、またサワと真二君の話で盛り上がったり、ちっちゃんと元気に走り回ったりしていたように思う。
 かなり痛い黒歴史。しかし「何事もいいかげんでは上手くいかない」という教訓も学んで、良い経験だったのではないだろうか。

 


 



2019年9月16日月曜日

33.卒業写真に一緒に写っちゃった原田真二君

 

修学旅行で。
左端の赤いカーディガンが私。

前回、私がどれほど真二君の大ファンだったかという話をしたが、同じクラスの中には私よりももっと激しい真二君ファンだった女の子がいた。
 サワこと沢井美紀子さん(仮名)は、5年生の時に引っ越してきた女の子で、6年生に上がる時はクラス替えがなかったので、2年間同じクラスで過ごした一人だった。
 彼女はクラスで一番背が高く、雰囲気も大人な感じの「頼れるお姉さん」というタイプだった(上の写真で中心にいるのがサワ)。
 私とサワ、どちらが先に真二君のファンになったかは覚えていないが、私たちは小学校6年の秋ごろから、しょっちゅう真二君の話ばかりしているミーハーな女子になっていた。
「サワ、昨日のザ・ベストテン、見たあ?」
「見た見た! 黒柳徹子さんったら真二君のこと、かわいいかわいいって言いすぎだよねぇ、もう」
 などど、どうでもいいことを朝からペチャクチャしゃべっている毎日だった。
 
 サワは私よりも激しい真二君ファンだったかもしれない、そう思う根拠が小学校の卒業写真に残っている。

 この写真のちょうど真ん中、後から2列目に赤いネクタイの背の高い女の子が写っている。これがサワなのだが、写真を拡大すると、サワの胸ポケットのあたりに、何やら黒いものが写っている。
実はこれ、真二君のブロマイドなのである。カーリーヘアが四角い写真いっぱいに写っている。
 この写真を撮る前、サワは左ポケットに真二君のブロマイドを隠し持っているのを私に見せてくれた。
「シャッターが降りる瞬間に、この写真をポケットから出す作戦なの」
とサワはいたずらっぽく笑っていた。
「わぁー、面白い! やってやって!」
 私たちははしゃぎながら撮影に臨み、そして真二君はしっかりと私たちの卒業写真に写り込んでくれた。
 ブログにはあえて精度を落として掲載しているが、実物の写真ではかなり鮮明に真二君の顔がわかる仕上がりになっている。サワと私は大喜びだった。

 中学1年生でも、偶然サワと私は同じクラスになり、真二君ファン活動は続いた。途中から二人とも松山千春のファンにもなり、「オールナイトニッポン」を聴いて、翌朝感想を言い合ったりして楽しんでいた。
 たぶん誰か芸能人のファンになったことがある人にはわかると思うけれど、私たちは、友達同士で共通の話題で騒いだり、仲良くしたりすることが楽しかったのではないかと思う。もちろん真二君や松山千春のことは好きだったけれど…。
 まだ実物の男の子に恋をする前の、12~3歳の女の子にありがちな日々であった。

 卒業写真が登場しましたが、あと4~5回くらいくらい、このエッセイは続く予定です。 
 
 

2019年9月7日土曜日

32.ラジオで原田真二くんを知る


 昭和50年代は、ラジオ文化も盛んだった。小学6年生の頃、私はよく日曜日の午後、1時から5時まで「歌謡曲電リクベスト10」を聴いていた。リスナーの電話リクエストで順位が決まり、最後の1時間で「今週のベスト10」を流す番組である。
 昭和52年の秋のある日、第10位の中島みゆきの「わかれうた」がかかった後に、第9位として「てぃーんずぶるーす」という曲がかかり、私は雷に打たれたような衝撃を受けてしまった。原田真二君との初めての出会いだった。
 生まれて初めて聞いた、とてもハッピーでおしゃれなコード進行、英語で歌っているようなリズミカルな歌い方、失恋した男の子の歌詞(松本隆・作)にもキュンキュンしてしまうし、作曲は自身で行っている「シンガーソングライター」だと言う。その後、テレビで歌っている真二君を見てすっかり大ファンになってしまった。

 真二君はその頃、青山学院大学経済学部の1年生だった。それまでは青山学院大学のことはたぶん知らなかったと思う。「渋谷にあるおしゃれな大学」と知ってからは、非常に憧れていた。

 その頃「平凡」「明星」「近代映画」などの芸能グラビア雑誌があり、私たちティーンの情報源となっていた。友達同士で切り抜きの交換もした。
 クラスに川崎麻世のファンの安斉菜穂子さん(仮名)がいて、「近代映画」を毎月買っていた。彼女はよく私に真二君のページの切り抜きをくれた。私は毎月「明星」を買っていたので、安斉さんに川崎麻世のページをあげていた。
 私たちはその切り抜きをA4サイズのカードケースに挟んで、下敷きとして使っていた。
 真二君からは様々なことを学んだ。「好きな女優はオードリー・ヘップバーン」とインタビューに答えていることがあった。私はその後TVで放映された「ローマの休日」を見て、同じようにオードリー・ヘップバーンのファンになった。
 ボズ・スキャッグス、エルトン・ジョン、ポール・マッカートニーなど、真二君の好きなアーティストを知って、それから私も洋楽を聞くようになっていった。
 かなりの大ファンだったが、コンサートなどには行くことはなかった。まだ小学生だったので、本物の真二君に会いたいとは思いつつも、行動を起こす勇気はなかった。

 そして36年後の2013年。逗子のコンサートで初めて本物の真二君に会うことができた。
私は48歳、真二君は54歳になっていた。

 実はこの時、並んだ写真を撮ろうとして、勝手に真二君の後ろに入り込んだ私であった。係りの人に取り押さえられている姿までもがカメラに収まっていた。非常に迷惑なファンである(笑)。
 ごめんなさい。でも真二君は私の永遠のあこがれの人なのです。どうぞお許しください。
 

2019年8月31日土曜日

31.錦糸小のスパルタ水泳指導と、ローラースケートもできるプールの話

  横須賀の望洋小学校の授業で。
    左が私。

 小学校3年の話にさかのぼるが、通っていた錦糸小学校は、都会の真ん中にありながら、水泳の指導にかなり力を入れていた。
 たしか1級から30級くらいまで細かくあって、30級の「顔を水に付けられる」から始まっていたと思う。しょっちゅう昇級テストがあり、1つ級が取れると、水泳帽に縫い付けるひもを1本もらうことができた。だから水泳が得意な子の帽子には沢山の線が縫い付けてあった。
(これは当時の都内の小学校の共通の指導方法だったのかもしれない。似たような記憶がある人は教えてください)
 私はどちらかと言うと、水泳はあまり好きではなかったが、スパルタ教育のおかげで、10メートルの平泳ぎくらいはできるようになっていた。それは錦糸小学校の同級生の中ではかなり泳げない児童の部類だった。
 水泳帽にもほとんど線を縫い付けることができず、水泳の授業の際には、恥ずかしい、肩身の狭い気持ちで臨んでいたことを思い出す。皆に成績がわかってしまう指導法というのは、頑張る原動力になるかもしれないが、苦手意識をさらに増幅させてしまう原因でもあるように思う。

 小学校4年で横須賀の望洋小学校に引っ越してきて驚いたのは、海がすぐ近くにあるのにかなづちの子がけっこういたことである。だから新しい小学校の中では、水泳が得意な子の部類に入ってしまった。やっと楽しく水泳ができるようになった私だった。
 望洋小学校は、創立当初、プールがなかったので、馬堀海岸にある市営のプールまで出かけて授業を行っていたことを思い出す。
 そのプールは、まわりがローラースケート場になっていて、夏はプール、それ以外の季節はローラースケートという感じで、季節を問わず、授業以外でもよく遊びに行った思い出がある。夏休みの多くの時間を、あの馬堀プールで過ごしたのではないだろうか。
 プールの後は売店でジュースやアイスクリーム、お菓子などを買って食べたことも楽しかった。フリトレーの「チートス」に出会ったのもあのプールの売店だった。今ではどこでも目にするが、昭和50年頃は珍しく、あのチーズ味が特別においしく感じられたものだった。
 馬堀から少し先には、走水(はしりみず)海岸もあって、そこでもよく海水浴を楽しんでいた。横須賀に住んでいた時は、海や海岸、水泳などの夏らしさが身近にあった気がする。
 
 今日は8月31日。夏ももう終わる。今年は水着を一回も着なかった。昨年水着を着たのは泳ぐためではなく、海外旅行の海岸でちょっとだけ水を触るためだった。
 どっぷり水泳を楽しむことをしなくなってもう何年になるのだろう。
 
 

 

2019年8月24日土曜日

30.演劇クラブに入る

 6年生になった時、授業とは別に全員が何か好きなクラブに属して活動する、ということがあった。 
 私は演劇クラブに入会した。その頃、思春期の女子の例にもれず、テレビドラマや芸能界にとても興味を持っている女の子だった。
 4年生の時は「将来は幼稚園の先生」などと書いていたが、高学年になると「どこかの劇団の舞台女優になって、その後はテレビで活躍」なんてことまでイメージしていた。人前で話したり、人に何かを伝えたり、感動させたりすることに興味があったのだと思う。
 ただ「美人女優」になれないことは幼い私でもわかっていた。だから大竹しのぶや樹木希林のような演技派に漠然と憧れていたのだった。
 上の写真の左の方に、シナリオらしきものを2人で持っている女子の1人が私である。一緒にシナリオを持っているのが5年生の時に転校してきたムラチこと村木宏美さん(仮名)である。ムラチは、おとなしいけれどしっかりしていて優しい感じの女の子だった。とても手先が器用で、その頃女子の間で流行っていたマスコット作りなども得意だった。
 右端に立っているサングラスをかけた上下黒の男性が顧問だった。6年2組の担任だった角田昭雄先生(仮名)である。
 角田先生は、ちょっとアングラ劇団の男優のようにも見えるが、特に厳しい指導があったわけでもなく、みんなで和気あいあいと「演劇ごっこ」をしていた感じである。頻度も隔週か、月に一度程度だったと思う。実際に何か劇を発表したとか、そういう記憶はない。
 中高の部活とは違って、他のクラブもゆるい感じで行われていた。たぶん中学に向けて、授業とは別の趣味活動への順応といった目的があったのではないだろうか。
 アルバムには、写真新聞クラブ、手芸クラブ、マンガクラブ、将棋クラブ、音楽クラブ、ポートボールクラブなど、多彩なクラブが載っていて、皆授業時間とは別な、楽しそうな笑顔を見せている。
「遊び研究クラブ」というのもあった。いつでも一緒だったちっちゃんは、遊び研究クラブに属していた。写真の一番手前に写っているのがちっちゃんである。両ひざに置いた手と笑顔がかわいらしい。
 遊びを研究するクラブ、とはいったいどんなことをやっていたのだろう。ちっちゃんに聞いたら「校庭で手つなぎ鬼をやったり、室内ではカルタや百人一首をやっていたような。いろいろな遊びをしていたよ。研究は特にしていなかったと思う」とのことだった。  
 たぶんクラブ活動の目的は、自発的に何か自分の好きなものを選んで取り組むこと、お友達づくり、みんなと協力したり、楽しんだりすることだったのだと思う。クラブ活動を通じて、数年後の中高の部活動などもイメージできたと思う。
 クラブ活動があったこと、アルバムを見るまでは実はすっかり忘れていたのだが、振り返ると意外と大事な経験だったのかもしれない。

2019年8月10日土曜日

29.キャンディ♡キャンディ、「なかよし」を本屋さんで買っていた頃

 
キャンディ♡キャンディのLPレコード

 昭和51年5月から、私は少女向けまんが雑誌「なかよし」を買っていた。同じ少女まんが雑誌で「りぼん」もあったのだが、きっと本屋さんで表紙を見て「なかよし」の方を気に入ったのだと思う。
「なかよし」といえば「キャンディ♡キャンディ」である。私が買い始めた頃、すでにお話は佳境に入っていた。初恋の人アンソニーは事故で他界していて、キャンディはテリィのことを愛し始めていた頃だった。舞台はアメリカとスコットランド。タータンチェックやバグパイプなどを生まれて初めて知ったのも、この物語の中だった。
 私はお話しに夢中になり、毎月発売日には近所の本屋さん「大津書房」に急いで行って買っていた。その頃は300円だった。レターセットなどの付録も沢山付いていて、錦糸町の友達との文通などに大切に使っていた。
 昭和51年の10月からは、テレビでの放映もスタートした。放映の初日はドキドキしながらテレビの前で楽しみに待っていた。しかし「なかよし」の原画とはどこか違うタッチ、雑な感じの絵に心底がっかりした記憶がある。大ファンだっただけにその落胆は大きかった。
 とは言いながらも毎週しっかりテレビはみていた。それに主題歌などが入ったLPレコードも買って何度も何度も聴いたり歌ったりしていた。よほどはまっていたのだと思う。
 今はあんなふうに、発売日を楽しみにするとか、好きな曲を何度も聴くとか、そういうことは一切なくなってしまったなと、あの頃を懐かしく思う。年齢もあるのだろうけれど、物に対する有難みが時代と共に薄れてしまったと思う。
 あの頃通った「大津書房」も、数年前に京急大津を訪れた時、すでに無くなっていた。店主のオバサンがいつも立ち読みの客に目を光らせていて怖かった。そんなことも懐かしい。
 今は大きな駅の本屋さんもなくなりつつあって寂しい。横須賀中央にあった「平坂書房」もなくなっていたのには驚いた。
 変化は早い。でもそれだけもう長く生きているということなのかもしれない。
 

2019年7月31日水曜日

28.ピンクレディーを踊った男子を見て衝撃を受ける

一番右が私。私の隣がいいちゃん。
真ん中に立っているのがマエさん。
一番左がちっちゃん。

 あれは5年生が終わる時の、お楽しみ会か何かの時だったのだろうか。細かくは覚えていないのだが、いいちゃんこと飯坂哲太君と、マエさんこと前園隆志君の2人が、クラスの皆の前でピンクレディーの「S.O.S」を歌いながら踊ったことがあった。
 その頃、ピンクレディーは人気が出始めて、テレビでよく見るようになっていたが、まだ誰もが真似をして踊る時代は到来していなかったし、その後の大ブレークは誰も予測していなかったと思う。まだ「ちょっと色っぽい、変わった踊りをする新人歌手」というイメージだった。
 なので、いいちゃんとマエさんが皆の前で踊る姿を見た私はかなりの衝撃を受けた。
「大人の色っぽい踊りを、小学生の男の子が皆の前で踊るなんて!」と。
 しかしそれと同時に
「小学生も踊っていいんだ! 私も覚えて踊りたい」
という気持ちが沸き上がって来た。
 さっそく私は親友のちっちゃんと一緒に、ピンクレディーの踊りを覚えることにした。私はミーちゃん、ちっちゃんはケイちゃんの担当になった。
 その頃は毎日のようにテレビ番組で歌番組が放映されていたので、番組をチェックしながら踊りを覚えた。まだ家庭用の録画機は登場していなかったので、ひたすら放映に集中して踊りを覚えるようにした。その頃から、雑誌には、よくピンクレディ―の振り付けが写真でコマ送りになって解説されたページが掲載されていたので、私たちはそういった雑誌を買って一生懸命覚えたりもした。
 「S.O.S」のヒットの後は、「カルメン’77」や「渚のシンドバッド」など連続のヒットがあった。もうその頃には日本全国の小学生から中学生、それ以上の大人たちもピンクレディーに夢中だった。
 「渚のシンドバッド」では、途中の
「♪くちびる 盗む 早業は 噂通りだわ あなた シンドバット」
という所で、ハモったりもする。私はミーちゃん、ちっちゃんはケイちゃんのパートを受け持ってハモりも練習して歌えるようになった。
 私たちが何かの催しで歌と踊りを披露するということはなかったけれど、ただ純粋に歌や踊りが楽しかった。テレビを見ていたら歌って踊らずにはいられない、そんな気持ちだったと思う。
 あの頃の小学生は、誰もが同じ気持ちだったと思う。そして誰もがピンクレディーを歌って踊ることができたのではないかと思う。
 大人になって社会人になり、職場の皆と一緒にカラオケに行く機会があった。同じ人事部に配属になった同期の女子と、何の打ち合わせもせずに、「渚のシンドバッド」をハモって踊ることができた。部長さんや課長さんたちは非常に驚いていたけれど、私たち世代にとってはそれほど珍しいことではないような気がする。
 ちなみに、その女子とはあみんの「待つわ」も完璧にハモることができた(笑)。


2019年7月27日土曜日

27.昭和な卒業アルバムを実家で発見

 実家にて望洋小学校の「卒業アルバム」なるものを見つけ、すっかり忘れていた写真をいくつか発見したので、今回はそれを掲載したいと思う。

 不入斗(いりやまず)の陸上大会において、走り幅跳びで銀メダルを取った日の写真は現存していないと思っていたが、集合写真を見つけた。それが上の一枚である。
 後列の真ん中あたり、男性の先生の左肩で一番笑っているのが私である。41番というのは、たぶん望洋小学校の番号だと思う。母によると、このゼッケンを前日の夜にあわてて縫い付けた記憶があるという。
 私の前に座っているのが2組のマコちゃんで、首にメダルをぶら下げている。たぶんソフトボール投げで入賞したのだろう。
 男子は、みそ、くっくん、谷はん、女子はオチャなども写っているので、私の記憶は正しかったようである。
不入斗陸上大会の話はこちらです⇒


1組の歴史年表もあった。6年に上がる時にはクラス替えはなかったので、そのまま6-1になった。「農家旋風」は5年の5月ごろに始まり、6年の6月頃に衰えたらしい(笑)。

 高梨先生(仮名)の産休のこともあった。翌年の1月に戻ったとあるので、やはり3~4か月だったようである。代用教員のアパッチ先生(ニックネーム)が来たことも書いてある。



 アパッチ先生の写真は残っていないと思っていたけれど、卒業アルバムには残っていた。昭和51年10月に箱根に行った時の写真である。
 最後列の右端に写っているのがアパッチ先生である。記憶の中では「70代に見えた」などと書いたが、実物は意外と若くてきれいだったので驚いた。
 ここに載せたのは2組の方の写真である。これと同じ構図で私たち1組の写真もあるのだが、(私のスマホの撮り方が)不鮮明だったのでこちらを掲載した。

 2組の顔ぶれを見て思い出したことがある。1組に比べると、しっかり勉強している児童が多い2組であった。望洋小学校は新興住宅地なので成績の良い子が多かったこともあり、2組では父兄から
「テストで良い点を取っているのに、通知表の評価が悪い」
と苦情があったらしい。相対評価なので成績の良い子が多いとそうなってしまう。
 2組担任の角田先生(仮名)も、しっかり学習を習慣づける指導をしていたらしい。「ホームランノート」なるものを作り、家庭学習をするように指導していたとのことである。
 1組はあまりそのような記憶がない。農家旋風が吹き荒れている1組と2組とは大違いだったのが笑える。




2019年7月18日木曜日

26.初めてのバレンタインデー

ちっちゃんと私。
修学旅行の時。
だいたいいつも二人一緒でした。

5年生の時は、ちっちゃんも私もまだ好きな男の子はいなかったけれど、いつも仲良くしているクラスの男の子たちが4人いた。
 同じマンションに住んでいたその男の子たちの家には放課後よくみんなで遊びに行った。一人の男の子のお父さんはベース(横須賀米軍基地)に勤めていたので、開放日にはお父さんが6人をベースに連れて行ってくれたりもした。
 その6人の中では「〇〇が△△のこと好きだって」という話は一切出なかったし、恋愛感情もなかったと思う。しかし何となくグループ交際をしている気分にはなっていたかもしれない。

 年が明けて昭和52年の2月のこと。私たちはテレビのコマーシャルで「バレンタインデー」なるものを知った。
 そしてある日、学校の帰り道でちっちゃんから
「ねぇねぇ、今度バレンタインデーに、あの4人にチョコレートあげない? 私たち2人からってことで」
と提案があった。
 ちっちゃんは小さくてまだ色気も何もなかったけれど、写真でもわかるようにとてもかわいらしく、活発で積極的な女の子だった。私と同じように楽しいことが大好きだった。
「うん、面白そう、あげようあげよう!」
 私はすぐに賛成をした。
 数日後の2月14日月曜日の放課後、私たちはお小遣いを出し合ってお菓子屋で「不二家ハートチョコレート」を4つ買った。当時は1つ50円だったので、それぞれ100円ずつを出し合った。
 プレゼント用のラッピングをしてもらったかどうかは全く覚えていない。もしかしたらラッピングは一切なかったかもしれない。
 それに一人一人にどうやって手渡したのかも覚えていない。たぶん4人の家に直接2人で訪ねて行って、ただ「はいっ」と手渡しをしたような気がする。男の子の方も普通に「ありがとう」ともらってくれたように思う。
 特に好きだとか告白するという目的はなかったので、ドキドキもしなかった。けれど私たちは何となくウキウキ楽しかった。あれはまぎれもなく「人生最初の」バレンタインデーだった。そして人生で一番純粋でかわいらしいバレンタインデーだったと思う。

 今回この話を掲載するにあたって、ちっちゃんに「載せてもいい?」と一応許可をもらったのだが、ちっちゃんは「え、そんなことあった?」とすっかり忘れていた。「不二家のハートチョコレート」の名前を出したら「そういえばそんなことあったかも。うっすらと思い出してきた」とのことだった。
 何しろ42年も前のことだから忘れていても不思議ではない。渡した4人の男子も忘れているかもしれない。いや、私のこの記憶自体が正しいのかどうか。本当にあったことなのかもあやしい。
 そんなわけで、いつもは本名に基づいた仮名でお話を書いているけれど、今回はその4人が誰だったのか、同級生にも判らないよう仮名も出さないようにしておこうと思う。
 

2019年7月12日金曜日

25.そろばん教室に通い始める

親戚のおばさん、いとこたちと。
用賀のおばあちゃんの家の前で。
後列左が私。

 錦糸町に住んでいた頃、バレエが習いたくて教室に通っていた私だったが、横須賀に引っ越す時に辞めてしまい、4年生の時は習い事をしていなかった。


 5年生の秋ごろ、突然母が弟と私に「そろばんを習いなさい」と言った。「計算が得意になるから。お母さんも小さい頃、学校でそろばんを習ったのよ。そろばんは出来た方がいいわよ」とのことだった。
 たしかに母は毎日家計簿をつける時にそろばんを使っていた。その光景は私にとってなじみ深かった。幼児の頃は母がそろばんを使う姿をかっこよく思い、出来もしないのに指で弾いて真似して遊んだりしたこともあった。
 昭和50年頃、電卓はすでに登場していたけれど、まだ高価な時代で、日本人が計算する時はそろばんが主流だった。
 2年生だった弟は、その頃、毎日学校から帰って来ると、友達と野球をするのに忙しかった。自分の部屋にランドセルを置く時間ももったいないらしく、いつも玄関の所から部屋に向かって勢いよくランドセルを投げていた。だから「そろばんなんて習いたくないよ」と言って、母の言葉をスルーした。
 私は「そろばん、ちょっと習ってみるのも面白いかも」と思って、一人で通い始めることにした。上の写真に写っている世田谷の親戚のまみちゃんもそろばんを習っていて段位まで取っていると聞いた。まみちゃんは私よりも1歳下だったので、「私だって」と、少々刺激されたこともあったのかもしれない。
 その頃、私たちが住んでいたマンションのすぐ近くに「岡花珠算教室」というのがあった。通っている子供たちは教室名と交通標識がプリントされた黄色のビニールバッグを持ち歩いていたので、ずいぶん前から教室の存在は知っていた。
 教室の岡花先生は、とても優しい50代の夫婦だった。ダンナさんの先生はNHKアナウンサーの鈴木健二に似ていた。声にも張りがあってきびきびした先生だった。奥さんの先生はちょっと女優の小林ちとせに似ていると思っていた。
 たまに20代と思われる娘さんが手伝いで現れて、ストップウォッチで時間を計ったり、読み上げ算の時に「願いましては~」と生徒を教えることもあった。
 珠算教室には私よりも学年が下の生徒が多かった。教室には3人掛けの机と椅子が並べられ、50人以上は入れる広さだったように記憶している。子どもたちは始まる前はいつもガヤガヤと騒がしかったけれど、ストップウォッチで時間が計られ始めると、みんな集中して練習に励んでいた。
 私もやっているうちに、そろばんの面白さにはまって、意外と真面目に教室に通っていた。中学に入る頃まで通っていたかもしれない。最終的には2級まで進んだ。3桁か4桁の暗算などもできたのではないかと思う。暗算ができることはけっこう日常的に便利だった。
 しかし高校を卒業して簿記学校に通い始めてからは、暗算が全くできなくなってしまった。簿記学校では「暗算はダメ。全部電卓で計算すること」と言われていて、そうしているうちにいつのまにか暗算ができなくなってしまったのだ。
 現代はもう、そろばんを習う子どもはほとんどいないのではないだろうか。子どもの習い事の種類も増え、お受験の塾で忙しい子も多くなった。日本人も日常でそろばんを使う機会はほとんどなくなってしまったし、街のそろばん教室も、教えられる先生も減ったと思う。電卓でさえ、今ではずいぶん安価になってしまった。
 黄色いバッグを持った、沢山のこどもたちが近所を歩いている姿は、昭和のあの頃の懐かしい光景の一つだと思う。


2019年7月4日木曜日

24.高梨先生の産休と、アパッチ先生登場

ふくよかな体型だった高梨麗子先生(右端)。

 あれはたしか、5年生の秋、9月の25日くらいだったと思う。下校の前の時間に担任の高梨先生から重大発表があった。
「実は二人目の赤ちゃんが生まれることになったので、10月からしばらく産休に入ります」。
「ええっ?」
 私たち5年1組の生徒はびっくり仰天して一斉に大声を上げた。
 あの時、高梨先生は妊娠何か月だったのだろう。そしてどのくらいの期間、休んだのだろう。細かいことは覚えていないし、徐々にお腹が大きくなっていく高梨先生の姿もあまり記憶がない。先生はふくよかな体型だったため、お腹があまり目立たなかったのではないかと思う。
「来月から、代理の先生が来ます」
「えーっ、どんな先生ですか?」
「女性の先生で、梅沢サダ先生(仮名)といいます。産休の補助を専門にされて、様々な学校を担当されてきたベテランの先生です」。

 そして10月の初日から、私たちの担任は梅沢サダ先生になった。梅沢先生はあの頃、何歳だったのだろう。私の記憶の中では70代だったように思えるのだが、まさか定年が55歳か60歳の時代に70代の先生がいるはずがない。しかし顔には多くのしわが刻まれ、まさに「おばあさん」という感じの女性だった。
 5年1組の悪ガキたちは早速、梅沢先生に「アパッチ」というあだ名をつけた。その頃にテレビで放映された『アパッチ』というネイティブアメリカンの映画に出てきた俳優に、しわの感じがそっくりだったからである。
 アパッチと言うあだ名は、梅沢先生にはもちろん内緒だったが、男子達は梅沢先生が教室に到着すると、みんなで一斉に、しかし気付かれないくらいの小さな声で「アパッチ、アパッチ、アパッチ、アパッチ・・・」と合唱するのだった。私たち女子は笑いをこらえるのに必死だった。
 高梨先生が産休に入る前、生徒たちは自由奔放に毎日を送っていたけれど、梅沢先生はとても厳しく、きっちりとした先生だったので、私たちはそのギャップに少々ついていけない感じだった。相変わらず全体的にいつも騒いだり、時間にルーズだったりしていたので、梅沢先生が来てから毎日しょっちゅう叱られるようになってしまった。
 梅沢先生は、よく給食が終わると、教室の後ろにある水道のところで歯磨きをした。それが歯ブラシを使って磨くのではなく、自分の人差し指で歯を磨くのだった。たしか歯磨き粉も使わず、塩を使っていたように記憶している。
 なぜそんなことを覚えているのかはわからない。それ以外のことはあまり覚えていないし、梅沢先生の写真も残っていない。決して冷たい先生ではなかったと思うし、むしろ教育熱心で生徒思いだったかもしれないと、今になると思ったりもする。
 しかしあの頃は生徒たちに全く好かれていなかったし、梅沢先生自身も好かれようとして愛想よくすることもなかったように思う。
 様々な学校を転々として、産休代理という大事な仕事をこなし、毅然とした態度で教鞭をとっていた梅沢先生だった。あの頃もしかしたら50代だったのだろうか。今の私と同じくらいだったということになる。
 今、私も学校で教えるという仕事をしているが、学生には嫌われたくないと思ってしまうし、愛想を振りまいてしまうこともある。今になると、梅沢先生のあの毅然とした態度を尊敬してしまう。
 高梨先生はたぶん3~4か月くらい休んだのではないだろうか。出産後は無事に復帰されたので、梅沢先生はまた他の学校に異動になった。その後どうされているかは全く聞いていない。



笛を吹いているのが私。
その後ろに水道と鏡が写っている。
この位置で梅沢先生はいつも歯を磨いていた。
写真は4年生の時。





2019年6月27日木曜日

23.女子だけに見せられた秘密の映画

写真はイメージです。内容とはあまり関係ありません。
校庭で。矢印が私。

 5年生のときの出来事で書き忘れてはならないことがあった。それは、たぶん他の小学校でも共通の出来事だと思う。私たち望洋小学校では、昭和51年のたしか夏ごろにあの出来事はあった。

 ある日、担任の高梨麗子先生が
「今日はこれから、女子だけ、部屋を移って映画を見ます。男子はその時間、校庭で自由に遊ぶ時間になります」
というような内容のことをクラスの皆に伝えた。その時、私たち女子たちは何故だか(あ、あの内容を見るのかな?)という想像がついたように記憶している。
 男子たちは「やったぁー」などと叫びながら、校庭に出て行った。隣の2組の担任の先生は角田昭雄先生(仮名)という当時40代の男の先生だったので、1組2組両方の男子を引き連れて校庭に出て行った。
 私たち女子は、その後別な教室へ移った。教室は黒いカーテンで遮光され真っ暗だった。カーテンの端をちょっとつまんで外を見ると、男子たちが元気にドッジボールをやっている光景が見えた。
 遮光された暗い部屋には、1組の女子の他に、2組の女子たちも全員いた。奥田さん、朝美さん、マコちゃん、オチャ、香澄ちゃんたちも座っていた。そして高梨先生の他に、保健室の山本節子先生(仮名)がいた
 最初にたしか山本先生から何か説明があって、その映画は始まった。30分程度の内容だったと思う。女の子がだんだんと大人になってくると体に起こる変化のことや、妊娠、出産のこともあったように記憶している。知っていたこともあったし、知らないこともあった。
 教育的映画だから、あまり楽しいものではなかったけれど、私たちは興味津々で静かに最後まで見ていた。
 映画が終わると、高梨先生から補足説明などがあった。「もし何かわからないことがあったら、遠慮なく私や山本先生に相談してください」というようなことだったと思う。
 5年1組の教室に帰って、しばらくすると男子たちが校庭から帰ってきた。男子たちと顔を合わせるのが何となく恥ずかしかった。私たち女子が何の映画を見たのか、男子たちは知っていたのだろうか。

 学校が終わり、下校はいつもと同じようにちっちゃんと一緒だった。
「なんか、びっくりしたねぇ」
「うん、ちょっとドキドキしたねぇ」
などと感想を述べ合いながら並んで歩いた。

 昭和のあの頃、日本のどこの小学校でも同じような時間があったと思う。今は内容もずいぶん変わった。もっと低学年でDV防止や人権も含めた教育があったり、男子も一緒に見るようになったとも聞く。
 時代や内容は変わっても、大事な教育の時間であり、私にとっても忘れがたい記憶の1つである。

2019年6月19日水曜日

22.走り幅跳び、まぐれで銀メダル

陸上大会の写真は残っていないので、「跳び」つながりで跳び箱の写真を。体が固く、それほど運動神経が良いほうではありませんでした。

 今もあるのかわからないが、私が小学校の頃は、オール横須賀市の小学生による選抜の陸上競技大会があった。
 不入斗(いりやまず)にある大きな陸上競技場で開催され、それに選抜されることは大変な名誉だった。
 たしか小学5年生と6年生が対象だったと思う。私が4年生の時には、5年生6年生の、体格が立派でスポーツが得意な先輩が選抜され、尊敬のまなざしで見ていたことを思い出す。
 
 翌年、私たちが5年生になり、夏休みが終わった頃だったと思う。先生から
「不入斗の陸上大会に出場する選手を決めるので、放課後に残ってください」
と連絡があった。
 それは全員ではなく、ある程度足が速いと思われているメンバーたちだった。男子は誰が選抜されたのかあまり覚えていないのだが、たぶん勉強もスポーツも得意だった大河内君は選ばれていたのではないか。それから足が速かったミソこと峰田洋貴君(仮名)や、クックンこと久木野栄一君(仮名)、タニはんと呼ばれていた谷橋慎一郎君(仮名)などがいたのではないかと思う。
 女子は、ちっちゃん、私、それから5年生の最初に転校してきた工藤敦子さん(仮名)など、数名が残るように言われた。
 隣の2組からは朝美さんやマコちゃん、そして5年生の時に転校してきた、オチャこと大浜由紀さん(仮名)などがいたと思う。オチャは運動神経が抜群でボーイッシュなかっこいい女子だった。同じボーイッシュなマコちゃんとは気が合うようで、二人はいつも一緒に行動していた。
 初日に全員でまず短距離競争をさせられ、たしかちっちゃんがトップで、短距離走に出場することが決まった。走り高跳びは朝美さんが選手に決まり、ほかにも幅跳び、ソフトボール投げ等の競技があって、それぞれ選手が選ばれたと思う。私は短距離の補欠になった。
 それから数日、大会の日まで放課後で練習があった。補欠の私も毎日やらなくてはならなかったけれど、いつも一緒のちっちゃんもいることだし、お気楽に遊びながらふらふらやっている感じだった。

 そして大会の数日前になり、幅跳びの選手がけがでもしたのだろうか、詳細は覚えていないが、急に「補欠メンバーから走り幅跳びの選手を選ぶ」という話になって、3~4人の女子が砂場で幅跳びをやらされた。
 全員あまり距離は出なかったけれど、一応私が一番いい記録(たしか3m3cm)が出たということで、選手になることが決まった。その頃の私は、同級生の中でも成長が早く、背も高かったのが良かったのかもしれない。
 家に帰ると、ちょうど用賀のおばあちゃんが来ていた。選手になったことを報告するととても喜んでくれて「じゃあ、いい運動靴を買ってあげる」と言って、一緒に近所の小さな靴屋さんに行った。買ってもらったのは白地に赤と青の線が入ったひも靴だった。靴底にギザギザがある、ちゃんとした運動用のシューズを買ってもらったのは生まれて初めてだった。
 それまでは運動会でリレーの選手として走った時も、普段履いている子供用の運動靴を履いていた。昭和のあの頃、小学生たちはまだスポーツメーカーのシューズなど持っている子はいなかった。
 私が買ってもらったのもブランドメーカー品ではなかったし、今考えれば昭和っぽいシューズだったけれど、おばあちゃんに買ってもらったことがとてもうれしく、当日は頑張れそうな気がしてきた。

 そして当日。不入斗の大会には、全市内から多くのアグレッシブな感じの小学生が集まってきた。望洋小学校にはいないタイプの、ちょっと不良っぽい女の子も沢山いた。
「ベイシティ ローラーズのファン」
「私も!」
などと会話している女子たちがいたのを覚えている。その時初めてベイシティローラーズという名前を知り、その後ベイシティローラーズを聴くたびにあの日のことを思い出す。
 私は気後れはしたけれど、緊張することはなく、いつも通り走り幅跳びを行った。
 すると跳躍の2回目に、自分でもスカッとするような、空を舞う感じの距離を跳んだ気がした。測定の先生が
「3m88cm」
と大きな声で言った。今までの最高は3m30cmくらいだったから、測り間違えかな?とも思ったけれど、まあいいや、良かった、いい記録が出たんだと思った。
 結局私は第2位、銀メダルを取ることになって表彰台に上がった。優勝した子の記録は3m92cmで、4cmの差だった。
 うちに帰って母に報告すると、とてもうれしそうに
「すごい、やったわね!としこは本番に強い子なのよ!」
と言った。母が喜んでくれたのはとても嬉しかったけれど、私は淡々としていた。それほど努力もしなかったし、入賞しようとして必死にもならなかった。もっと頑張っていれば嬉しかったのかもしれないが。
 結局「本番に強い子」という母の言葉を、素直な私は信じてしまい、その後も勉強やスポーツで努力することもなく「本番でどうにかなるだろう」という生活を送ってしまった。あの不入斗の大会のまぐれ入賞が、私にとって本当に良いことだったのかどうかはわからない。

 用賀のおばあちゃんの写真も載せておきます。
優しくて大好きでした。
私が3歳くらいのころ。

2019年6月14日金曜日

21.ドロケイ?ケイドロ?ドロジュン?

運動会の時に撮影。
放課後も男子達に混じって駆け回っていました。
矢印が私。

 私たちはドロケイとか、ドロジュンと呼んでいたけれど、地域によって様々な呼び名がある遊びを、子どもの頃、誰もが一度はやったことがあると思う。メンバーを「泥棒」と「警察」の半分に分けてやる、鬼ごっこの一種である。 私がこの遊びを放課後に盛んにやったのは、小学校5年生の時だった。
 前にも書いたように、5年生になった時、うちのマンション群の中に、新しく11階建てと7階建てのマンションが建設された。この2つのマンションが逃走の場で、牢屋はマンションの前にあるゴミ置き場だった。
 毎回メンバーは全部で15人くらいだっただろうか。私とちっちゃん以外は全部男子だった。今までの話にも登場したカノキャン、ヨネ、永岡君、いいちゃんなどと一緒に駆け回っていた。
 2つのマンションにはそれぞれ窓のあるエレベーターが付いていた。全ての階に停まるのではなく、3階おきくらいで、電車の急行のように通り過ぎてしまう階もあった。私が泥棒組でエレベーターを使って逃走している時、通り過ぎてしまう階に、誰か警察組の男子がいたりするのが窓から見えた。
「あ、としこみっけ!!」
「つかまらないよー、バイバーイ」
 男子は必死に階段を使って追いかけてきたが、エレベーターには勝てなかった。とても悔しそうにしている様子が楽しくてしょうがなかった。男子達は運動の得意な、すばしっこい子が多かった。そんな彼らを出し抜くのは快感だった。
 マエさんと呼ばれていた前園隆志君(仮名)は、後にバスケットボールの名選手になった。現在は某医学系の大学職員として活躍している。私も大学の仕事関係で前園君にはお世話になったことがある。
 前園君は、昔から人の面倒見が良く、小学校の時から友達を大切にする男の子だった。以前書いたエピソード、4年生の時の話で、遠足の朝にヨネがふざけて「さようなら」と言ったら、S先生に「さようならと言うなら帰れ!」と叱られてしまったという話があったと思う。それには続きがあって、落ち込んでしまったヨネに寄り添い、なぐさめて元気を出させてくれたのがマエさんだった。
 他にも今はANAの整備士になったセイちゃんこと藤原誠治君(仮名)や、グッチョこと溝口義人君(仮名)などがいた。セイちゃんは久しぶりに同窓会で会った時、ANAの整備士の制服が似合いそうな、素敵な人に成長していた。ドラマに出てきそうな雰囲気だった。
 グッチョは、私たち家族が住んでいた家の、下の階に住んでいた男子で、いろいろとうちの家族のプロフィールと偶然が重なっていた。理恵ちゃんという3歳下の妹がいて、私と同じ誕生日だった。それにグッチョの誕生日は、私の弟と同じ日だったのだ。さらにうちの母とグッチョのお母さんは同じ名前、漢字まで同じだった。
 彼は東工大の大学院から某ウォシュ〇ットの会社に就職した。同窓会では和式ウォシュ〇ットの開発の話を教えてくれてみんなが大爆笑だった。
「お尻の位置決めが定まらないから、水がピューッと頭上から降ってきてねぇ」
 試行錯誤を重ね、無事に和式用も商品化されたらしいが、あまり買う人もいなかったのか、90年代には販売終了になってしまったらしい。
 こうやって書いていたら、また同窓会をしたくなってきたなぁ。他にも楽しいメンバーはいっぱいいるのだけれど、またの機会に書いていきたいと思う。

2019年6月6日木曜日

20.女性に成長するほのぼのかわいいお年頃

クラスメイトたちと。
後列右が私。
何となく男子たちのことも意識し始めた頃。

 5年生の頃、私はクラスの女子たちに比べると成長が早く、背も大きかった。上の写真を見てもわかる通り、私は同級生よりも少し大人びている。
 11歳になったある日のこと、母は「明日からこれを付けて学校に行きなさい」と、プレゼントのようなかわいらしい紙包みを私にくれた。中を開けてみると、みずいろのお花のレースが付いたブラジャーが入っていた。
「わぁ、かわいい」
 生まれて初めてのブラジャーだった。ちょっと恥ずかしかったけれど、翌日からはそれを付けて学校に行った。たぶんまだ他の同級生女子はブラジャーを付けていなかったと思う。
 その頃、体育の時の着替えは、男子と女子、別々だったのだろうか。詳細には覚えていない。しかし、誰か女子が気付いて
「あっブラジャーしてるの? 見せて、見せて!」
という感じで、一気にみんなが知ることになったような記憶がある。
 それに親友のちっちゃんとは、登校も下校もいつも一緒で、隠し事も一切なく、いつも互いのことを全て話していたので、きっとブラジャーのことも話したと思う。

 上の写真で私の隣に写っている新藤りか子さん(仮名)は、5年生になって新しい桜が丘の団地に引っ越してきた面白い女の子だった。新藤さんはなぜか私のことをとても気に入ってくれて、いつも私にスリスリしてきた。写真撮影の時も、私は新藤さんにスリスリされ、爆笑させられている。
 新藤さんは私のブラジャーにも興味津々だった。新藤さん自身は、まだ背も小さく痩せている女の子だったので、未知の世界へのあこがれがあったのかもしれない。だんだん大人になって、そういうお年頃になってきた私たちであった。
 
 隣のクラス、5年2組には諸田香澄さん(仮名)という女の子がいた。5年生の時に引っ越してきたので、小学校の時にはあまり話したことはなかったけれど、お互いに存在は知っていた。そして諸田香澄さんとは、中学・高校と一緒で、特に高3の時には同じクラスになってとても仲良くなった。
「としこのことは、小学校の時からよく知ってるよ。5年生の時、としこがブラジャー着けたってこと、2組でもすごい話題になったんだよ」。
 彼女は高3の時に、そんな意外な話も教えてくれた。隣のクラスにまで話が届いていたなんて。それを聞いた私は爆笑してしまった。
 ブラジャーに興味津々だったかわいらしい時代、子どもから大人に変わっていくあの時代の一コマは、ほのぼのとしていいなぁと思う。

 
 


2019年5月29日水曜日

19.ほぼ学級崩壊?ー農家への課外授業

   
写真はイメージです(横須賀写真ライブラリー)

 昭和51年頃、望洋小学校の周りには、少しずつ家が立ち並び始めていたが、久里浜方面へ抜ける吉井のあたりは、まだ山や田んぼや畑、農家が立ち並んでいた。
 ある春の日、歩いて数十分の「吉井の田んぼ」で課外授業があった。池のめだかを観察したり、農家の立ち並ぶ山道を走り回ったり。5年生の私たちにとって、それは本当に楽しい楽しい夢のような時間だった。
 その日のことが忘れられない私たちは、高梨先生に
「また吉井の田んぼ、農家に行きたい!」
「農家!農家!」
と何度もお願いした。
 しかし通常の授業もやらなくてはいけないから、そんなにしょっちゅう農家に出かけてもいられない。高梨先生は困った顔をしながら、私たちの懇願を受け流していた。
 どうしてもまた農家に行きたかった私たちは、みんなで頭をひねって作戦を練った。
「朝、先生が来たら、みんなで農家!農家!と大声で叫ぼうよ」
「そうだ、黒板いっぱいに農家の絵を描こうよ」

 数日後、その作戦は実行に移された。私たちは早めに学校に行って、農家の絵やら文字やらを黒板にめいっぱい殴り書きし、自分たちの情熱を表現した。
 事前の練習ではクラスのリーダー的存在だった、いいちゃんこと飯坂哲太君(仮名)が音頭を取った。
「じゃあ、みんなで声を合わせて。せーの!」
「農家!農家!農家!農家!」
 男子も女子もみんな一緒になって、出来る限りの大声を出した。
「いいね、その調子。じゃあ本番でも僕が、せーの、って言ったらスタートだよ。それまでは静かに着席だからね」
「OK!」
 私たちは高梨先生が教室にやって来るのが待ちきれなかった。どんな反応をするのか、そして農家に再度行くことは叶うのか。ドキドキしながら先生の到着を待った。
 しばらくすると、戸がガラガラと開いて、高梨先生の丸い顔が現れた。
「あらっ、今朝は静かねぇ」
 私たちはいつも教室内でうるさく騒いでいたのに、その日は静かに着席していたから、先生はとてもうれしそうだった。そして黒板に目を移した瞬間、リーダーの飯坂君が
「せーの!」
と合図を送った。その瞬間、一斉に
「農家!農家!農家!農家!」
という私たちの声が教室いっぱいに鳴り響いた。先生は大爆笑しながら、両手を上げて(ストップ!)のジェスチャーをした。しかしその声はいつまでも止むことがなく続いた。
「農家!農家!農家!農家!」
 高梨先生はとうとう根負けして
「わかった、わかったから。農家に連れて行くから」
と言ってくれた。私たちの勝利だった。

 数日経ってから、先生はあの吉井の田んぼの近くにある農家へ遊びに連れて行ってくれた。それは楽しかったけれど、実は私たちが一番楽しかったのは、教室で「農家!農家!」と叫んでいる瞬間だったのかもしれない。教室の退屈な授業から抜け出すこと、先生を根負けさせて自分たちの主張を通すこと、そのようなことが楽しさの本質だったのかもしれない。
 5年生の時の思い出は他にも沢山あるけれど、やはり一番印象に残っているのは、この「農家事件」である。授業ができない状態になって、ある意味「学級崩壊」と言えたかもしれない。あの自由すぎる5年1組の雰囲気は、大人になってからも心の宝物である。自由で優しかった高梨麗子先生には大変感謝している。



2019年5月23日木曜日

18.担任の先生とマージャンをした思い出

 
担任の高梨先生(前列右端)と女子たち。
私は前列左端。

 高梨麗子先生の家には、数名のクラスメイトたちと一緒に何回か遊びに行ったことがあった。
先生の家は、京急の堀ノ内駅が最寄だった。私が住んでいた京浜大津駅(現在は京急大津駅という名称に変わっている)の1つ隣が堀ノ内駅である。たしか先生の家までは歩いて行ったように記憶している。先生はご主人と娘さん一人の3人家族だった。ご主人はとてもスリムで、神津善行(中村メイコの夫)のような風貌の人だった。麗子先生と並ぶと対照的なキャラクターだった。
 娘さんはその頃、幼稚園の年長組くらいだったと思う。顔も体型も麗子先生と瓜二つの丸々と太ったかわいらしい女の子だった。私たちはその娘になぜか「ズバゴン」という愛称をつけた。
 ある時は先生の家で、先生も一緒にマージャンをした記憶がある。私はマージャンを知らなかったけれど、先生に教わって少しやったと思う。残念ながらその後すっかり忘れてしまって今はできない。
 「小学校の時、担任の先生とマージャンをやった」と言うと、だいたいの友人には驚かれる。高梨先生のお人柄がとても気さくで、私たち生徒にとても近しい存在だったからこそだったのだと思う。
 しかしあまりにも気さくで近しいと、子どもたちというのは先生をなめてしまい、時には暴走してしまうこともある。その話は次回詳しく書く予定である。

 ところで4年生の時の担任だった、とても厳しいS先生は、今度は2年生の弟の担任になった。2年生になった当日、弟はふさぎこんで家に帰って来た。いつもは大食いで私の残したゴハンまで食べてしまう弟だったけれど、その日は「食欲がない」と言って大好きなハンバーグを残してしまった。母によると「1年間あまり元気がなかった」らしい。

 私はそんな弟の様子には全く気付かず、S先生と離れて気さくな高梨先生の下、毎日学校で男子に混じって大騒ぎをしている体であった。(つづく)

2019年5月15日水曜日

17.5年生に進級!!

 
5年1組のメンバー
私は最後列の左から2番目

 昭和51年の4月、私は望洋小学校の5年生に進級した。1年前、望洋小の周りは、ほとんど何もなかったけれど、1年の間に建設ラッシュがあり、沢山の家が立ち並んだ。
 特に「桜が丘団地」(通称)という大きな団地が望洋小学校のすぐ前に建設されたことで、急に多くの転校生が増え、学校内も様変わりした。
 私たちの学年は1クラスだけだったのが、2クラスになった。私は5年1組に割り振られ、同じクラスにはちっちゃんがいた。ヨネやカノキャン、永岡君、奥田さん、朝美さん、マコちゃんたちは5年2組になって分かれてしまった。
 ちょっと寂しかった。しかし新しい出会いもあった。
 4年1組のメンバーは、どちらかというとおぼっちゃんっぽい男子が多かったけれど、桜が丘団地に引っ越してきたメンバーは、すごく元気ですばしっこく、スポーツが得意な男子が多かった印象がある。女子も個性的な楽しい子が多かった。
 5年1組の担任は、高梨麗子先生(仮名)という新しく転任してきた30代の先生だった(後ろから2列目の左端)。名前は麗しいのだけれど、写真でもわかる通り、見た目はコロコロとして、とてもかわいらしい先生だった。私たちは早速、先生に「おにぎり」というあだ名を付けた。
 高梨先生はヘビースモーカーで、ちょっとしゃがれた声をしていた。いつも愛車の軽をワイルドに運転していた。コロコロっとした車のデザインは先生にぴったりだった。
 いわゆる「学校の先生」タイプではなかったし、私たちのお母さんとも全然違ったタイプだった。
 そんな高梨先生は、教育方針も自由だった。いや、特に「方針」というものは持ってなかったのだと思う。
 私たちはそんな高梨先生のもとで、とても自由奔放な、楽しい1年間を送ることができた。(つづく)
 

36.【最終回】小学校を卒業、そして・・・

 日光修学旅行が終わった頃、卒業制作の話が高梨先生からあった。 「何か6年1組として記念になるものを作って、小学校の中に残しましょう」  花壇を作るとか、遊び道具を作るとか、いくつか案があったと思うが、話し合いの結果、「トーテムポール」を作ることになった。1組と...