2019年6月19日水曜日

22.走り幅跳び、まぐれで銀メダル

陸上大会の写真は残っていないので、「跳び」つながりで跳び箱の写真を。体が固く、それほど運動神経が良いほうではありませんでした。

 今もあるのかわからないが、私が小学校の頃は、オール横須賀市の小学生による選抜の陸上競技大会があった。
 不入斗(いりやまず)にある大きな陸上競技場で開催され、それに選抜されることは大変な名誉だった。
 たしか小学5年生と6年生が対象だったと思う。私が4年生の時には、5年生6年生の、体格が立派でスポーツが得意な先輩が選抜され、尊敬のまなざしで見ていたことを思い出す。
 
 翌年、私たちが5年生になり、夏休みが終わった頃だったと思う。先生から
「不入斗の陸上大会に出場する選手を決めるので、放課後に残ってください」
と連絡があった。
 それは全員ではなく、ある程度足が速いと思われているメンバーたちだった。男子は誰が選抜されたのかあまり覚えていないのだが、たぶん勉強もスポーツも得意だった大河内君は選ばれていたのではないか。それから足が速かったミソこと峰田洋貴君(仮名)や、クックンこと久木野栄一君(仮名)、タニはんと呼ばれていた谷橋慎一郎君(仮名)などがいたのではないかと思う。
 女子は、ちっちゃん、私、それから5年生の最初に転校してきた工藤敦子さん(仮名)など、数名が残るように言われた。
 隣の2組からは朝美さんやマコちゃん、そして5年生の時に転校してきた、オチャこと大浜由紀さん(仮名)などがいたと思う。オチャは運動神経が抜群でボーイッシュなかっこいい女子だった。同じボーイッシュなマコちゃんとは気が合うようで、二人はいつも一緒に行動していた。
 初日に全員でまず短距離競争をさせられ、たしかちっちゃんがトップで、短距離走に出場することが決まった。走り高跳びは朝美さんが選手に決まり、ほかにも幅跳び、ソフトボール投げ等の競技があって、それぞれ選手が選ばれたと思う。私は短距離の補欠になった。
 それから数日、大会の日まで放課後で練習があった。補欠の私も毎日やらなくてはならなかったけれど、いつも一緒のちっちゃんもいることだし、お気楽に遊びながらふらふらやっている感じだった。

 そして大会の数日前になり、幅跳びの選手がけがでもしたのだろうか、詳細は覚えていないが、急に「補欠メンバーから走り幅跳びの選手を選ぶ」という話になって、3~4人の女子が砂場で幅跳びをやらされた。
 全員あまり距離は出なかったけれど、一応私が一番いい記録(たしか3m3cm)が出たということで、選手になることが決まった。その頃の私は、同級生の中でも成長が早く、背も高かったのが良かったのかもしれない。
 家に帰ると、ちょうど用賀のおばあちゃんが来ていた。選手になったことを報告するととても喜んでくれて「じゃあ、いい運動靴を買ってあげる」と言って、一緒に近所の小さな靴屋さんに行った。買ってもらったのは白地に赤と青の線が入ったひも靴だった。靴底にギザギザがある、ちゃんとした運動用のシューズを買ってもらったのは生まれて初めてだった。
 それまでは運動会でリレーの選手として走った時も、普段履いている子供用の運動靴を履いていた。昭和のあの頃、小学生たちはまだスポーツメーカーのシューズなど持っている子はいなかった。
 私が買ってもらったのもブランドメーカー品ではなかったし、今考えれば昭和っぽいシューズだったけれど、おばあちゃんに買ってもらったことがとてもうれしく、当日は頑張れそうな気がしてきた。

 そして当日。不入斗の大会には、全市内から多くのアグレッシブな感じの小学生が集まってきた。望洋小学校にはいないタイプの、ちょっと不良っぽい女の子も沢山いた。
「ベイシティ ローラーズのファン」
「私も!」
などと会話している女子たちがいたのを覚えている。その時初めてベイシティローラーズという名前を知り、その後ベイシティローラーズを聴くたびにあの日のことを思い出す。
 私は気後れはしたけれど、緊張することはなく、いつも通り走り幅跳びを行った。
 すると跳躍の2回目に、自分でもスカッとするような、空を舞う感じの距離を跳んだ気がした。測定の先生が
「3m88cm」
と大きな声で言った。今までの最高は3m30cmくらいだったから、測り間違えかな?とも思ったけれど、まあいいや、良かった、いい記録が出たんだと思った。
 結局私は第2位、銀メダルを取ることになって表彰台に上がった。優勝した子の記録は3m92cmで、4cmの差だった。
 うちに帰って母に報告すると、とてもうれしそうに
「すごい、やったわね!としこは本番に強い子なのよ!」
と言った。母が喜んでくれたのはとても嬉しかったけれど、私は淡々としていた。それほど努力もしなかったし、入賞しようとして必死にもならなかった。もっと頑張っていれば嬉しかったのかもしれないが。
 結局「本番に強い子」という母の言葉を、素直な私は信じてしまい、その後も勉強やスポーツで努力することもなく「本番でどうにかなるだろう」という生活を送ってしまった。あの不入斗の大会のまぐれ入賞が、私にとって本当に良いことだったのかどうかはわからない。

 用賀のおばあちゃんの写真も載せておきます。
優しくて大好きでした。
私が3歳くらいのころ。

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