2018年11月29日木曜日

36.TVドラマ「赤い靴」の影響でバレエを習い始める

バレエの発表会。後列左が私。
兵隊さんの役を演じている。

 弟が入園した墨田二葉幼稚園の2階には、「森利子バレエ研究所」というバレエスタジオがあった。毎週土曜日にレッスンが行われていて、バレエの格好をしたきれいなお姉さんたちが出入りしていた。
 私は弟の幼稚園へ何かの機会で行くことがあったのか、そのバレエ教室の存在を知り、がぜんバレエを習いたくなってしまった。その頃テレビでも「赤い靴」というバレエドラマが放映されていた影響もあった。小田切美保という少女が主役で、「♪踊ろう赤い靴~」という主題歌を覚えている人もいると思う。
 それから私は母に「バレエを習いたい!」と毎日言い続けた。うちは生活に余裕があったわけではなかったので、母はすぐには了承してくれなかったが、最後には許してくれて、晴れて私はバレリーナの卵になることができた。
 レッスンは毎週土曜日の午後1時30分から。学校を終えた後、毎週スタジオに通っていた。淡いピンクのレッスン着とタイツ、そして柔らかいトウシューズを身につけて、楽しくレッスンを受けていた。
 森利子先生は当時30歳前後だったと思う。目がぱっちりと大きく小顔で美しい人だった。ウエストが細く、足や手がとても長かった。太ももはボリュームがあって力強かった。プロのバレリーナを見たことのある人は知っていると思うけれど、間近で見ると本当に迫力があった。
 先生は私と同じ「としこ」なので、いつも私のことを「俊子さん、俊子さん」と優しく呼んでかわいがってくれた。ご主人はたしか力士で、教え子のバレリーナさんたちも力士と結婚している人が数名いたように記憶している。両国にも近かったし、今でいう合コンのようなものがあったのかもしれない。
 レッスンを始めて半年程度が経ち、私も発表会で踊りを披露した。2つの場面に登場し、踊りも2種類練習した記憶がある。森利子バレエ研究所には高校生以上のバレリーナさんたちも多く所属していた。私たち子どもはお姉さんたちの周りで踊る、その他大勢の役だったが、当日はかなり緊張して踊ったことを覚えている。
 発表会などは楽しかったけれど、習い始めて1年程度経つと、だんだんと最初の頃の情熱を失っていく私だった。私はとても体が硬く、いつもウォーミングアップの屈伸運動から実はうまくいっていなかった。踊りも下手だったと思う。ドラマの小田切美保のようになりたかったのに、現実は厳しかった。
 結局2年生から3年生になるまで習い、4年生に上がる時に横須賀に引っ越すことが決まり、バレエレッスンは錦糸町だけで終わりにしてしまった。
 大きくなってから母とその話をすることがある。母は私に「横須賀でもバレエ習う?」と聞いたら、私はさっぱりと「ううん、もう習わない」と返事をしたとのこと。家計のやりくりで苦労していた母は、私の返事を聞いて心底ほっとしたらしい。

森利子バレエ研究所の募集チラシ。
月謝1500円と書いてある。


 


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