2019年7月12日金曜日

25.そろばん教室に通い始める

親戚のおばさん、いとこたちと。
用賀のおばあちゃんの家の前で。
後列左が私。

 錦糸町に住んでいた頃、バレエが習いたくて教室に通っていた私だったが、横須賀に引っ越す時に辞めてしまい、4年生の時は習い事をしていなかった。


 5年生の秋ごろ、突然母が弟と私に「そろばんを習いなさい」と言った。「計算が得意になるから。お母さんも小さい頃、学校でそろばんを習ったのよ。そろばんは出来た方がいいわよ」とのことだった。
 たしかに母は毎日家計簿をつける時にそろばんを使っていた。その光景は私にとってなじみ深かった。幼児の頃は母がそろばんを使う姿をかっこよく思い、出来もしないのに指で弾いて真似して遊んだりしたこともあった。
 昭和50年頃、電卓はすでに登場していたけれど、まだ高価な時代で、日本人が計算する時はそろばんが主流だった。
 2年生だった弟は、その頃、毎日学校から帰って来ると、友達と野球をするのに忙しかった。自分の部屋にランドセルを置く時間ももったいないらしく、いつも玄関の所から部屋に向かって勢いよくランドセルを投げていた。だから「そろばんなんて習いたくないよ」と言って、母の言葉をスルーした。
 私は「そろばん、ちょっと習ってみるのも面白いかも」と思って、一人で通い始めることにした。上の写真に写っている世田谷の親戚のまみちゃんもそろばんを習っていて段位まで取っていると聞いた。まみちゃんは私よりも1歳下だったので、「私だって」と、少々刺激されたこともあったのかもしれない。
 その頃、私たちが住んでいたマンションのすぐ近くに「岡花珠算教室」というのがあった。通っている子供たちは教室名と交通標識がプリントされた黄色のビニールバッグを持ち歩いていたので、ずいぶん前から教室の存在は知っていた。
 教室の岡花先生は、とても優しい50代の夫婦だった。ダンナさんの先生はNHKアナウンサーの鈴木健二に似ていた。声にも張りがあってきびきびした先生だった。奥さんの先生はちょっと女優の小林ちとせに似ていると思っていた。
 たまに20代と思われる娘さんが手伝いで現れて、ストップウォッチで時間を計ったり、読み上げ算の時に「願いましては~」と生徒を教えることもあった。
 珠算教室には私よりも学年が下の生徒が多かった。教室には3人掛けの机と椅子が並べられ、50人以上は入れる広さだったように記憶している。子どもたちは始まる前はいつもガヤガヤと騒がしかったけれど、ストップウォッチで時間が計られ始めると、みんな集中して練習に励んでいた。
 私もやっているうちに、そろばんの面白さにはまって、意外と真面目に教室に通っていた。中学に入る頃まで通っていたかもしれない。最終的には2級まで進んだ。3桁か4桁の暗算などもできたのではないかと思う。暗算ができることはけっこう日常的に便利だった。
 しかし高校を卒業して簿記学校に通い始めてからは、暗算が全くできなくなってしまった。簿記学校では「暗算はダメ。全部電卓で計算すること」と言われていて、そうしているうちにいつのまにか暗算ができなくなってしまったのだ。
 現代はもう、そろばんを習う子どもはほとんどいないのではないだろうか。子どもの習い事の種類も増え、お受験の塾で忙しい子も多くなった。日本人も日常でそろばんを使う機会はほとんどなくなってしまったし、街のそろばん教室も、教えられる先生も減ったと思う。電卓でさえ、今ではずいぶん安価になってしまった。
 黄色いバッグを持った、沢山のこどもたちが近所を歩いている姿は、昭和のあの頃の懐かしい光景の一つだと思う。


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