昭和50年代は、ラジオ文化も盛んだった。小学6年生の頃、私はよく日曜日の午後、1時から5時まで「歌謡曲電リクベスト10」を聴いていた。リスナーの電話リクエストで順位が決まり、最後の1時間で「今週のベスト10」を流す番組である。
昭和52年の秋のある日、第10位の中島みゆきの「わかれうた」がかかった後に、第9位として「てぃーんずぶるーす」という曲がかかり、私は雷に打たれたような衝撃を受けてしまった。原田真二君との初めての出会いだった。
生まれて初めて聞いた、とてもハッピーでおしゃれなコード進行、英語で歌っているようなリズミカルな歌い方、失恋した男の子の歌詞(松本隆・作)にもキュンキュンしてしまうし、作曲は自身で行っている「シンガーソングライター」だと言う。その後、テレビで歌っている真二君を見てすっかり大ファンになってしまった。
真二君はその頃、青山学院大学経済学部の1年生だった。それまでは青山学院大学のことはたぶん知らなかったと思う。「渋谷にあるおしゃれな大学」と知ってからは、非常に憧れていた。
その頃「平凡」「明星」「近代映画」などの芸能グラビア雑誌があり、私たちティーンの情報源となっていた。友達同士で切り抜きの交換もした。
クラスに川崎麻世のファンの安斉菜穂子さん(仮名)がいて、「近代映画」を毎月買っていた。彼女はよく私に真二君のページの切り抜きをくれた。私は毎月「明星」を買っていたので、安斉さんに川崎麻世のページをあげていた。
私たちはその切り抜きをA4サイズのカードケースに挟んで、下敷きとして使っていた。
真二君からは様々なことを学んだ。「好きな女優はオードリー・ヘップバーン」とインタビューに答えていることがあった。私はその後TVで放映された「ローマの休日」を見て、同じようにオードリー・ヘップバーンのファンになった。
ボズ・スキャッグス、エルトン・ジョン、ポール・マッカートニーなど、真二君の好きなアーティストを知って、それから私も洋楽を聞くようになっていった。
かなりの大ファンだったが、コンサートなどには行くことはなかった。まだ小学生だったので、本物の真二君に会いたいとは思いつつも、行動を起こす勇気はなかった。
そして36年後の2013年。逗子のコンサートで初めて本物の真二君に会うことができた。
私は48歳、真二君は54歳になっていた。
実はこの時、並んだ写真を撮ろうとして、勝手に真二君の後ろに入り込んだ私であった。係りの人に取り押さえられている姿までもがカメラに収まっていた。非常に迷惑なファンである(笑)。
ごめんなさい。でも真二君は私の永遠のあこがれの人なのです。どうぞお許しください。
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