2018年11月29日木曜日

36.TVドラマ「赤い靴」の影響でバレエを習い始める

バレエの発表会。後列左が私。
兵隊さんの役を演じている。

 弟が入園した墨田二葉幼稚園の2階には、「森利子バレエ研究所」というバレエスタジオがあった。毎週土曜日にレッスンが行われていて、バレエの格好をしたきれいなお姉さんたちが出入りしていた。
 私は弟の幼稚園へ何かの機会で行くことがあったのか、そのバレエ教室の存在を知り、がぜんバレエを習いたくなってしまった。その頃テレビでも「赤い靴」というバレエドラマが放映されていた影響もあった。小田切美保という少女が主役で、「♪踊ろう赤い靴~」という主題歌を覚えている人もいると思う。
 それから私は母に「バレエを習いたい!」と毎日言い続けた。うちは生活に余裕があったわけではなかったので、母はすぐには了承してくれなかったが、最後には許してくれて、晴れて私はバレリーナの卵になることができた。
 レッスンは毎週土曜日の午後1時30分から。学校を終えた後、毎週スタジオに通っていた。淡いピンクのレッスン着とタイツ、そして柔らかいトウシューズを身につけて、楽しくレッスンを受けていた。
 森利子先生は当時30歳前後だったと思う。目がぱっちりと大きく小顔で美しい人だった。ウエストが細く、足や手がとても長かった。太ももはボリュームがあって力強かった。プロのバレリーナを見たことのある人は知っていると思うけれど、間近で見ると本当に迫力があった。
 先生は私と同じ「としこ」なので、いつも私のことを「俊子さん、俊子さん」と優しく呼んでかわいがってくれた。ご主人はたしか力士で、教え子のバレリーナさんたちも力士と結婚している人が数名いたように記憶している。両国にも近かったし、今でいう合コンのようなものがあったのかもしれない。
 レッスンを始めて半年程度が経ち、私も発表会で踊りを披露した。2つの場面に登場し、踊りも2種類練習した記憶がある。森利子バレエ研究所には高校生以上のバレリーナさんたちも多く所属していた。私たち子どもはお姉さんたちの周りで踊る、その他大勢の役だったが、当日はかなり緊張して踊ったことを覚えている。
 発表会などは楽しかったけれど、習い始めて1年程度経つと、だんだんと最初の頃の情熱を失っていく私だった。私はとても体が硬く、いつもウォーミングアップの屈伸運動から実はうまくいっていなかった。踊りも下手だったと思う。ドラマの小田切美保のようになりたかったのに、現実は厳しかった。
 結局2年生から3年生になるまで習い、4年生に上がる時に横須賀に引っ越すことが決まり、バレエレッスンは錦糸町だけで終わりにしてしまった。
 大きくなってから母とその話をすることがある。母は私に「横須賀でもバレエ習う?」と聞いたら、私はさっぱりと「ううん、もう習わない」と返事をしたとのこと。家計のやりくりで苦労していた母は、私の返事を聞いて心底ほっとしたらしい。

森利子バレエ研究所の募集チラシ。
月謝1500円と書いてある。


 


2018年11月26日月曜日

35.弟が登園拒否&歯を10階から投げる

 
 歯が抜けている私。
弟は乗馬に緊張して固まっている。

 私が小学校2年生になった年、弟は二葉幼稚園に入園した。やんちゃで愛嬌があって人が大好きな弟は、入園してから数日は楽しそうに幼稚園に行っていた。
 しかしある日の朝から突然、「行きたくない」と泣き出すようになった。母が無理やりスクールバスに乗せようとすると、弟は道の電柱にしがみついて「行かない~」とずっと泣いていたそうである。
 弟が急に登園拒否になった理由は、母によると「一番番長になれなかったから」らしい。弟よりも強くて威張っている男の子がいて、弟はそれが面白くなかったのだ。それでも登園拒否は続かなかったので、きっと二番番長の座で満足することにしたのだろう。だんだんと人間社会の現実を覚えていくのも大切なことだと思う。
 しかし弟もそのうちに、クラスのかわいい女の子と仲良くなったり、楽しいことも増えていったようである。同じビルに住むマリコちゃんの家にはよく遊びに行っていたように記憶している。
 ところで私は小学校1年生から2年生の頃に、乳歯が生え変わっている。上の写真は歯が抜けているのがわかる。「上の歯は縁の下に投げて、下の歯は屋根に投げるといい歯が生えてくる」という言い伝えを信じていた私だが、一軒家ではなくビルに住んでいたので仕方なく、上の歯が抜けた時は10階のベランダから下に投げて、下の歯は屋上に向かって投げていた。今考えるととても恐ろしいことを平気でしていたと思う。下を歩いている人にぶつかったら大変なことになってしまう。
 あの頃はちょっとでも歯がグラグラしてくると、無理やり力を入れて抜いてしまった。今小さい子がいるお母さんに聞くと「永久歯がちゃんと生えてくるように、自分では抜かないで、歯医者さんに行く」らしい。やはり自分は大昔の人間なんだなぁとつくづく思う。
 
 

2018年11月23日金曜日

34.上野動物園にパンダを見に行く

パンダのボールを膨らませている父と私。
父はくだらない冗談を言ったり、おどけたりするのが好きだった。

 1972年には上野動物園にパンダが来て、日本でもパンダブームが巻き起こった。私たち子どもも「ねえ、上野動物園に連れて行ってよぉ、ランランとカンカン見たいよぉ」と毎日のように親にせがんでいた。
 すると父が「うえの動物園の他に、したの動物園っていうのがあるんだよ。上野動物園の下にあって…」と、話をはぐらかしたことがあった。私はそれをしばらく信じていて「どんな所だろう、いつか行ってみたい」と思っていた。そんな父の他愛のない冗談を信じてしまう頃もあったなんて懐かしい。
 ところで本当の上野動物園にパンダを見に行ったのは、日本にパンダが来てから半年程度経った春休みの頃だった。家族4人ではなく、赤西家・宇崎家のおばさんと子供たちで一緒に行った。うちの母と私、弟、赤西のおばさんとさくらちゃん、宇崎のおばさんとじゅんくん、そして1971年に生まれたじゅんくんの妹、ひとみちゃん。総勢8名で錦糸町から上野までの小旅行だった。
 上野動物園はとにかく大勢の人たちでごった返していた。パンダの檻の前には、長い長い行列ができていたけれど、やっとパンダが見れるという嬉しさで、そんなことは全然気にならなかった。
「あともう少しでパンダが見れる」という時はドキドキしたけれど、実際に見れたのはほんの一瞬だった。ガラスで仕切られた部屋の奥の方に、じっと動かないランランとカンカンがいた。というよりも「たぶんあれがランランとカンカンじゃないか」という程度にぼやけた姿だった。
 何しろ人間たちの熱気で、ガラスは曇ってしまっているし、係員の人が「はーい、止まらないで、そのまま歩いて進んでくださーい」と大声で叫んでいるので、しっかり見る間もなく、前をさらっと通り過ぎただけだった。可愛かったかどうかなんて全くわからない。今でも初めてのパンダの印象は「曇ったガラス」しか思い出せない。
 それでも建物の外に出てきた時は「実際にこの目でパンダを見たんだ」という気持ちで子どもながらに興奮していた。
 さくらちゃんはこの頃まだ3歳くらい。この日のことを覚えているらしい。「迷子になって、迷子預かり所で待っていたら、うちのお母さんじゃなくって、じゅんくんのお母さんが迎えに来てくれたことがすごく悲しかった」とのこと。やはりパンダのことはあまり覚えていないらしい。
 それでも私たち子どもは、日本にパンダが来た時に上野動物園に見に行ったんだということ、そして思い出を語れるのはありがたいことだと思っている。お母さんたちは小さい子どもたちを連れて大変だったと思う。感謝している。

上野動物園で。左からさくらちゃん、じゅん君、ひとみちゃん、弟、後ろに私。










2018年11月20日火曜日

33.夏のおまつり、盆踊り



 写真は夏の盆踊りの風景である。紅白の幕のところをよく見ると、「昭和四十七年八月吉日 江東橋四丁目町会」と書いてある。左から弟、じゅんくん、さくらちゃん、私、そして同じ階に住んでいて2歳私よりも年上だった雅子ちゃんの5人である。手にはヨーヨー釣りの風船を持っている。弟は水あめか何かを食べている。
 錦糸堀公園で毎年夏に開催されていたこの盆踊り大会は、大勢の人が集まって本当に盛大で、やぐらの上で太鼓をたたくおじさんの腕も一流だった。
 定番の「東京音頭」「炭坑節」などの他に「錦糸町ブルース」なんていう曲もやっていた。それから佐良直美の「21世紀音頭」もよくかかっていた。「♪これから~31年経てば、この世は21世紀~」という歌詞だったと思う。21世紀なんて遠い遠い未来だと思っていた、あの頃が懐かしい。盆踊りの踊りも、かなり小さい頃から一人前に踊っていたように思う。
 私達子どもは、毎年このようにゆかたを着てお祭りに参加していた。お小遣いをもらって、ヨーヨー釣り、ハッカ飴に水飴、金魚すくい、わたあめなどを楽しんでいた。
 お祭りの間、昼間に錦糸堀公園に遊びにいくのも楽しみだった。おみこしが置いてあり、その周りをはっぴを着たおじさんたちが下町言葉で威勢よく動き回ったりしていて、活気にあふれる様子を感じるのが嬉しかった。もう少し大人になってから、よくドラマやドキュメンタリー番組で「下町の風景」が映ると、「あ、あの時の雰囲気と同じだ」と懐かしく思う。
 この盆踊り大会は、母の話によると3日間程度だったらしいが、子ども心に2週間ぐらい続いていたようなイメージがある。それほど印象が強かったのだと思う。子どもの私はお祭りの期間、楽しくて仕方がなかったが、母や大人たちは「暑いし、遅くまでうるさいし、眠れないし。けっこう辛かった」と言う。そういえば家にはまだクーラーがなかったか、やっと付いたくらいの時期だったと思う。今では考えられない時代だった。
 

2018年11月16日金曜日

32.ケガばかりしていた弟


 私たち世代は、月光仮面のテレビ番組をリアルタイムで見ていない。たぶん10歳くらい上の世代の人たちの番組だと思う。この写真は子どもの国かどこかで撮影したと思う。遊びに行ったら、たまたま月光仮面と一緒に無料で記念撮影ができるということで、沢山の子どもたちが列をなして並んでいたことを覚えている。
 弟は月光仮面と一緒で少し緊張気味。弟の胸についているワッペンは、札幌オリンピックのジャンプの絵柄が入っている。1972年に撮影されたものだと思う。この年に、うちではやっとカラーテレビを買っている。

 この頃、弟はまだ幼稚園に入る前で4歳くらいだと思う。男の子ならみんなそうだと思うけれど、本当にやんちゃでケガばかりして母を心配させていた。
 ある日のこと、私が小学校から帰ってきたら、いつもはお昼寝しない弟が布団の上で寝ていた。顔をのぞきこんだら、鼻の下が別人のように腫れあがってむらさき色になっていた。母に聞くと「錦糸堀公園でブランコを漕ぎすぎて後ろに落ちてしまい、柵に上あごの部分を打ち付けた」ということだった。月光仮面だか仮面ライダーにでもなったつもりでジャンプしたのかもしれない。ブランコの一番上から落ちたそうで、相当の衝撃だったと思う。
 落ちた瞬間、弟はしばらく動かなかったため、母もパニックになってしまったらしい。親切な人が「救急車を呼びましょうか」と声をかけてくれた。弟と同じくらいの女の子を連れたそのお母さんは、タオルを水で冷やして持ってきてくれた。母は声をかけてもらったおかげで「そうだ、すぐ宇野先生に連れて行こう」と我に返った。
 宇野先生というのは、うちのビルの3階にある「宇野内科」のことである。10階建てのビルは、3階まで会社のオフィス、病院などが入っている、いわゆる「下駄ばき」ビルだった。3階に「宇野内科」があって、風邪をひいたときなどはいつもお世話になっていた。その日もすぐに宇野先生に連れて行って手当をしてもらった。先生は「上あごで本当によかった。少しずれていて、喉か鼻を打っていたら(命が)危なかったかもしれない」と言ったそうである。母は「本当に良かった」と泣きながら私に説明した。
 しかし弟は直後も意外と元気だった。私が帰って来る前、宇野先生で診察をしてもらった後に、母は買い物に行かなくてはならなかったので、弟を寝かせてから30分程度外に出て帰ってきたら、弟は家にいなかったらしい。あわてて探してみたらビルの屋上で、ゆかたの裾をヒラヒラさせながら隣のじゅんくんと駆け回っていたそうである。結局数日後には顔の腫れも取れて、いつもの顔に戻った。
 弟はもう少し小さい頃にも、ケガとは少し違うけれど、病院のお世話になった出来事があった。ある日、父が弟を「高い、高ーい」と抱き上げたところ、鼻の中で何かがキラッと光った。よく見ると私のおもちゃのネックレスに使われていたピンク色のパール玉だった。いつの間にか鼻の中に詰めてしまったらしい。中にあるのは見えるのだけれど、それを取り出そうとしてもかなり奥の方にあって取ることができない。
 仕方なく耳鼻科に行って取り出してもらった。先生によると「ずいぶん長い間、入っていたようです」とのことだった。パールの玉が少々変質していたらしい。しかし弟は一切自分からは何も言わず、毎日いつもどおり過ごしていたのだから笑ってしまう。
 けっこう子どもは、鼻や耳にピーナッツやレゴなどの異物を詰めてしまうことはあると聞く。これを読んで「そんなこと、うちにもあったなぁ」と懐かしく思い出したりしている人がいるかもしれない。

2018年11月13日火曜日

31.トコちゃん、郷ひろみに会う

「大人のミュージックカレンダー」より
http://music-calendar.jp/2018080101

 私が小学校に入学した昭和47年、1972年には、郷ひろみがデビューしている。錦糸小学校で同じクラスだった向後由美子さん(仮名)が、郷ひろみの大ファンで、よく郷ひろみの魅力について語っていたことを思い出す。
 向後さんはたしか5歳上のお姉さんがいて、そのお姉さんが最初に郷ひろみのファンになって影響されたと言っていた。向後さんは話し方もはきはきとしていて大人っぽかった。やはりお姉さんがいる同級生は、私と違って大人だなあと思った。その頃の私は、アグネス・チャンのファンで、男性歌手には全く興味がなかった。
 向後さんは、休み時間に郷ひろみの「男の子女の子」や「花とミツバチ」を歌って聞かせてくれたりした。しかし私は郷ひろみのどこがいいのか、よくわからなかった。(今になってデビュー当時の写真を見ると、とてもかわいいし、スタイルも良くて魅力的だと思う)。
 そんなある日、私は錦糸小学校からの帰り道、いつものようにランドセルをしょって楽天地の前を歩いていた。すると広場に10人程度の人だかりがあることに気づいた。近づいてみると、何とそこに郷ひろみが立っていたのである。
 郷ひろみは白くてキラキラ光るスーツを着て笑顔を振りまいていた。前には、金色のポールで支えられた赤い綱があって、私たち観客との間に仕切りがされていた。テレビにも出て人気のある大スターなのに、観客は意外と少なかった。たぶん郷ひろみが楽天地に来ることをファンは事前に知らされていなかったのだろう。女性はほとんどいなかった。私のようにたまたま通りかかったような人たち、主にサラリーマン風の中年のおじさんが群がっていただけだった。
 私はおじさんたちをかき分けて、郷ひろみの目の前まで行ってじっと見てしまった。郷ひろみは優しく笑顔を返してくれた。足がとても長いなあと思ったけれど、ファンにはならなかった。ただ生まれて初めて実物の歌手を生で見たことに興奮していた。
 翌日、向後さんに「昨日、楽天地で郷ひろみに会ったんだよ」と伝えると、とてもびっくりした顔をして「えーっ、私も会いたかったー」と、とても悔しがっていた。
 その頃、楽天地には他にも多くの芸能人がよく来ていたらしい。美空ひばりも、正月公演は必ず楽天地からスタートする、という話を聞いたことがある。
 美空ひばりも、もう他界してからかなり経つし、郷ひろみも還暦を過ぎたし。あの日から46年も経っていることに愕然としてしまう。

2018年11月9日金曜日

30.ハードスケジュールだった七五三

用賀のおばあちゃんの家の前で。
いとこのまみちゃん、晴くんと一緒に。

 生きて健康でいること。それを普段は当たり前のようにして暮らしているけれど、本当に有難いこと、感謝すべきことだと思う。小学校1年生で天国に行ったクラスメイトのトク。本当に悲しかったトクとの別れを思い出してあらためてそう思った。
 子供の無事と成長を感謝し、お祝いする七五三。これができることも本当に有難いことだと思う。うちでは昭和47年、私が満七歳、弟が数えで五歳の年にやっている。
 母の記憶によると「この日はスケジュールが忙しくて大変だった」という。まずは、早朝に私と弟をたたき起こし、私を着付ける。
 そして親せきに配るお赤飯を、注文していたお店まで取りに行く。うちはいつも錦糸公園の前にある「玉川屋」でお赤飯を買うことにしていた。
 ここのお赤飯は絶品で、お団子などの和菓子などもおいしい。このお店の娘が、私と錦糸小学校で同級生だった(数年前に錦糸町に行ったら、お店は昔と全く同じたたずまいだったので嬉しくなった)。
 それから亀戸天神でお参りをして、天神様の中にある「福地写真館」で記念撮影。この福地写真館も現存しているらしい。
 先日、母が写真館で撮った写真を見て「あら、お父さんも写ってる」と言った。もちろん4人家族なのだから父も写っていて当然なのに。「何だかこの日、お父さんが一緒だった記憶がないの。でも考えてみたら、お赤飯とか、千歳飴とか、私一人で持って行けないし」。いつもながら父は空気のような存在だったらしい。
 その後、用賀のおばあちゃん、晴くんの住む家へ。それが上の写真である。瀬田に住んでいるいとこのまみちゃんも来てくれている。まみちゃんと晴くんが持っている千歳飴はうちから持っていったものだと思う。たしか江東デパートの中の文明堂で買った記憶がある。私と弟はずいぶん腫れぼったい顔をしている。早朝にたたき起こされ着付けをされて、電車の中で寝ていたのだろうか。
 着物は、二子玉川に住むいとこの寛子お姉ちゃんのものを借りている。だから用賀に行った後は、二子玉川まで行って着物を見せて、そこでも記念撮影をしている。
 うちの父は車を運転しないので、移動は全て電車だった。この頃、渋谷から用賀まではたしか電車が通ってなくて、バスしかなかったと思う(もし違っていたら教えてください)。
 私は子どもだったから、ただ両親にくっついて歩いただけで、それほど大変だとは思わなかった。きれいな着物が着れたのはとても嬉しかった。最近着物を着始めたのは、この時の原体験があるからだろうか。
 母も大変とは言いながらも、その後、風邪もひかず元気だったからやはり若かったのだ。まだこの時は33歳だった。

2018年11月6日火曜日

18.1初恋の隊長の写真



 先日、実家で写真を探したら、初恋の隊長の写真が出てきたので、順番は戻るが記述しておこうと思う。
 合唱の場面だろうか。最前列の一番左が隊長で、その隣が私である。私は他の子どもたちより何となくませているし(今と雰囲気が変わらない❗)、隊長の隣でご満悦な感じがする。隊長は幼稚園生なんだけれど背がスラッとしていい男だと思いませんか(笑)。
 もう一枚は遠足のお弁当の時間の写真。
 
 左手前が隊長、右が私である。隊長の隣のポジションをちゃんとキープしている私。好きな人の横で、正座をして、靴やリュック、帽子をきちんと揃えて、とてもお行儀よくお弁当を食べている姿がかわいらしい。自分と言うよりも孫娘を眺めているような気分になる。
 母に隊長のことを覚えているかどうか聞いてみたら、一度だけ通園の帰りに、隊長と隊長のお母さんと一緒になってお話をしたとのことだった。その時の私のはしゃぎぶり、活発な感じが忘れられないという。いつもはやんちゃな弟が騒がしくて、私はそれほど騒ぐ子どもではなかったらしい。それが隊長と一緒になった途端に大はしゃぎ。「こんな面もあるんだ」と驚いたという。隊長はおっとりした男の子だったらしい。
 写真を拡大すると隊長の名札に「かずのぶ」と書いてあるように見える。うーん、かずのぶ君だったかな。名字も全く思い出せない。やはり「隊長」しか思い出せない。でも名前を思い出してしまうと今どうしているか、わかってしまうかも知れないので、このまま、思い出せないままでいたいと思う。



2018年11月5日月曜日

29.交通事故で天国にいったクラスメイト



1年の時の遠足。
前列、何か食べている子の隣が私。

 いとこの晴くんが交通事故に遭ったという話をしたが、昭和40年代は錦糸町の近辺でも交通事故が非常に多かった。そのため錦糸小学校の生徒は、自転車に乗ることを禁止されていて、私は小学校高学年になるまで自転車に乗れなかった。
 通学路には「緑のおばさん」がいつも立っていて私たちの安全を守ってくれていた。幸いにして私は交通事故に遭ったことはなかったが、1年生の時、クラスメイトの「トク」こと徳田初美ちゃん(仮名)が、ある日交通事故に遭い、還らぬ人となってしまった。
 トクは大人しい女の子で、あまりおしゃべりもせず、いつも控えめにニコニコしていたことを覚えている。上の写真を見るとトクのことを思い出す。私のすぐそばに写っているトク。この写真からも何となく控えめだったトクの雰囲気が伝わってくる。
 トクが交通事故に遭ったということは、学校で担任の長田先生が教えてくれた。今は病院にいて治療中とのことだった。私は詳しくは覚えていないけれど、母の記憶だと輸血のために協力してくれる人を募ったりしたようである。
 トクが事故に遭ってから数日経った日曜日に、クラスの連絡網でうちに電話がかかってきた。母は電話を取り、連絡内容を聞いて受話器を置いた。そして沈んだ声で私に「トクが亡くなったそうよ」と伝えた。
 私はそれを聞いて涙が止まらなくなった。トクが死んじゃうなんて。どうして。かわいそうなトク。まだ7歳なのに。私はタオルを手に、トクのことを考えながら長い間泣いていた。
 その電話がかかってきた時、ちょうど父と弟は外に遊びに行っていた。しばらくして帰ってきた時に、父は私が泣いている姿を見て「何メソメソしてるんだ!」といきなり怒鳴った。母が「クラスの子が亡くなったのよ」と静かな声で伝えると、父は「そうか」と言ったきり黙ってしまった。
 なぜそのようなシーンをはっきり覚えているのかはわからない。それ以外のこと、トクのお葬式には行ったのかどうかとか、登校した時に先生からどんな話があったのかといったことは一切覚えていない。
 今は天国にいるトクだけれど、昭和47年にはこの世にいて、一緒のクラスで仲良くしたことを私は覚えている。忘れていない人がここにいるということを、トクやトクの家族の人に伝えたいと思う。
 

2018年11月4日日曜日

28.古い町並み、山車


 山車を引いているところ。
弟、いとこの晴くん、私。

「錦糸町は50年前、すでに都会だった」という話ばかりしているけれど、まだ古い町並みが残っている場所もあった。
 写真は、夏祭りの時、山車を引いているところを撮ったもの。後ろに写っているのは昭和20年代から30年代ぐらいに建てられたと思われる木造の家屋。左の女性の後ろあたりには「亀戸天神社 大祭」という張り紙も見える。
 錦糸町では夏祭りの時、夜は盆踊り、昼間は子どもたちが山車を引く行事があった。山車は数時間かけて街中を練り歩き、途中で数回休憩があってお菓子をもらえるのが楽しみだった。そのため山車を引きに行く時は必ず手提げを持っていく。
 写真でいとこの晴くんが持っているのは、母の手作りの手提げである。この日は晴くんに貸してあげたのだろう。幼稚園に入る時に作ってもらって、小学生になってからも長く愛用していた。図書館に行くときなども使っていたし、いつも私のそばにあった気がする。今どこにあるのだろう。捨ててしまっただろうか。やわらかな生地で手触りがとても良く、きれいな裏地もついていたことを思い出す。

晴くんは毎年、この錦糸町のお祭りの時に遊びにきてくれたようで、他にも写真が残っている。
 下の写真に写っているのは、別の年に山車を引いているところ。こちらは都会らしい背景が写っている。左から、さくらちゃん、私、晴くん、さくらちゃんのお母さんの好江さんである。この時、私が持っている手提げと、好江さんが持っている手提げは、たしか母が作ったものだったと思う。赤いチェックの生地に白いフリルがついてた。母は私の服の他に、手提げなどの小物もよく作っていて、まわりの人にプレゼントしていたことを思い出す。
 晴くんは昭和40年の早生まれ。私より1学年上だった。用賀に住んでいて、よく用賀のおばあちゃんと一緒に錦糸町の家に遊びに来てくれた。とても優しくて、陽気で、ちょっと肥満児の愛らしい晴くんが遊びに来てくれる時はいつも楽しみだった。
 そういえば晴くんは幼稚園の頃、交通事故でバキュームカーにひかれたことがあった。しばらくして元気な晴くんに会えたので、大きな事故ではなかったと思う。
 母から「晴くんがバキュームカーにひかれたらしいの」と聞いた時には、思わず「えっバキュームカー?(笑)」と少し笑ってしまった。晴くん、ごめんなさい。そしてこんなところで黒歴史を披露してしまって申し訳ありません。でも時効だと思うし、優しい晴くんだからきっと許してくれると思う。




2018年11月3日土曜日

27.錦糸町の街並み&ロッテリア

  住んでいたビルの屋上で。
さくらちゃん、私、弟。

 さいちゃんの家が経営している「バードリーム」のように、錦糸町には飲み屋さんが非常にたくさんあった。
 うちの母は、錦糸町に住み始めた頃、夜中の1時ごろにふと目覚めると、いつも外から「サーッ、サーッ」と水の流れるような音が聞こえてくるので不思議に思っていたらしい。それもかなりの大きな音で、継続して聞こえるわけではなく、数分間隔が空いて何度も聞こえてくるらしかった。ベランダに出てみると、それはバーのお客さんたちが、タクシーに乗って帰る音だった。
 上の写真でもすでに大都会、繁華街だった錦糸町の雰囲気が伝わってくると思う。富士銀行、ロッテ会館、楽天地の看板も見える。もう富士銀行は銀行自体なくなったし、ロッテ会館も楽天地も新しい建物に建て替わっている。隔世の感がある。
 写真に写っているロッテ会館は、昭和45年に建ったので、まだ私が小学校に入ったばかりの頃は新品のピカピカ、最新式の建物だった。工事をしていた時のことも記憶に残っている。それが2007年には今の新しいホテル複合型施設に建て替えられてしまった。私にとってはさびしい出来事であるが、30年以上経過していたのだから、商業施設としては仕方がなかったのかもしれない。
 旧ロッテ会館が昭和45年に建設されてから数年後、ロッテ会館の近く、国鉄の高架下に「ロッテリア」がオープンした。ロッテリアは私にとって、生まれて初めて見るファストフード店だった。それは錦糸小学校に行く通学路の途中にあったので、毎日のように「入ってみたいなぁ」と眺めながら通っていた。オレンジ色を基調にした看板に、かわいいアニメ風の羊さんが前足で立ってジャンプしているような絵をしっかりと覚えている。「ロッテリアのハンバーガーってどんな味だろう」。私をはじめ、まわりの子どもたちは一度は食べてみたくて仕方がなかった。しかし私は高いと思ったので母に「食べてみたい」と言うことはできなかった。言っても絶対却下されるだろうと思っていた。ロッテリアができてからしばらくは、同級生からも近所の子どもたちからも、ロッテリアに行った、という話は聞かなかった。たぶんみんな私と似たような状況だったと思う。
食べたいのだけれど、食べられない。そのような時、人はイソップ童話にある「酸っぱいブドウ」のキツネさんのような心理になるのだと思う。同級生の誰かが「あそこの店のハンバーガーは猫の肉でできているんだってさ」と教えてくれた。その頃は「えーっ本当?」と信じ込んでいたけれど、そんなことはデマに決まっている。
 友人と昔話をしていると、他の地域、他のハンバーガー屋さんにも同じようなデマはあったらしい。お店の人には申し訳ないけれど、今となってはそのようなデマでも昭和の香りのする、懐かしい思い出である。
 

2018年11月2日金曜日

26.バー「ドリーム」

小学校に入った頃。
自由が丘のおばあちゃんの家の前で。いとこたちと。
前列右端が私。服は母の手作り。

 錦糸小学校1年3組のクラスメイトに、斉田和美ちゃん(仮名)という女の子がいて、私たちは「さいちゃん」と呼んでいた。さいちゃんの家は「ドリーム」というバーを経営していて、店舗は錦糸堀公園の横にあった。うちからも近いのでよく遊びに行っていた。
 昼間はドリームの店舗内にも入って遊ぶことができた。印象に残っているのは、壁が淡い紫色で、クッションのようにふかふかしていたこと。壁には上の方まで規則的にきれいな宝石が埋め込まれていた。私は「すごい豪華だねぇ」と言いながら、宝石をさわったり、数を数えたり、壁に寄っかかって弾力を楽しんだりした。
 テーブルも大理石でできていて豪華だった。私たちはその豪華なテーブルの上に教科書とノートを広げ、宿題を片づけたりすることもあった。薄暗い照明は勉強には適していなかったかもしれないけれど、異次元の世界はワクワク楽しいので、宿題ははかどった気がする。
 さいちゃんは、私や他の同級生よりもちょっと大人びて色っぽい感じの女の子だった。目鼻立ちもはっきりとしていて、お母さんにそっくりだった。店舗で遊んでいる時、さいちゃんのお母さんがよく開店の準備をしていた。業者さんが届けてくれる食材を受け取って、それをカウンターに並べたりしていた。
 2年生になってからもさいちゃんとは同じクラスで仲良しだった。さいちゃんは冬に1週間ぐらい学校を休み、学校に出てきた時「インドネシアに家族と旅行してきたの」と言って、バリ島の絵ハガキを2枚、お土産にくれた。小学生が外国に旅行に行くなんてすごいなぁ。私はさいちゃんを尊敬のまなざしで眺めた。
 先日、グーグルでドリームがあった場所を確認したら、すでに店舗はなくなっていて、そこには大きな雑居ビルが建っていた。さいちゃんは今どうしているかなぁ。きっとキラキラした世界の、素敵な大人になっているのではないかと思う。


36.【最終回】小学校を卒業、そして・・・

 日光修学旅行が終わった頃、卒業制作の話が高梨先生からあった。 「何か6年1組として記念になるものを作って、小学校の中に残しましょう」  花壇を作るとか、遊び道具を作るとか、いくつか案があったと思うが、話し合いの結果、「トーテムポール」を作ることになった。1組と...