2018年9月30日日曜日

12.サラリーマンにお茶を誘われた母


私は6歳、弟は3歳ぐらいの時。たぶんこどもの国で。
私は父に似ていて、弟は母に似ています。

 父が他界してから、母は結婚したばかりの頃の話をよくするようになった。それは本当にささいな取るに足らないことばかり。
 しかし特別なことではない出来事のほうが、何となく愛しい感じがする。たぶんささいな出来事の方が忘れられてしまう、消えてなくなってしまう可能性が高いからではないだろうか。
 最近、井上靖の『わが母の記』を読んだら、80歳になるお母さんがやたらと昔の話をするようになったと書いてあった。うちの母も79歳。やはりそのぐらいの年齢になると人間は昔の話をたくさんするようになるのだろうか。そして娘や息子は、それをいつまでも忘れないように書き留めておきたくなるのだと思う。

  第7~8回で、世間知らずだった母が結婚して錦糸町の10階建てのビルに住み始めたことを書いた。いきなり家賃の督促状をもらったり、住宅公団公社の人に叱られたり、予想外な展開がつづいていた母だったが、錦糸町の生活は日々スリリングだったようである。
 昭和40年頃、母の育った世田谷区用賀はまだ畑が広がる田舎だった。錦糸町はすでに大都会で、場外馬券売り場もあったり、女の人の裸が描かれた少々いかがわしいお店もたくさんあったりした。あやしい感じのオジサンも多数うろうろしていた。
 母が錦糸町に住み始めたばかりのある日、駅に行こうと信号待ちをしていると、すぐ隣で怖い感じの男の人二人が殴り合いのけんかを始めたらしい。母は「これは大変!」と、信号が青に変わった瞬間、猛ダッシュで信号を渡ったところにある交番に駆け込み「大変です!あそこで男の人がけんかをしています!」と息も絶え絶え通報をした。
 すると交番のおまわりさんは「あ、そうですか」と平然とした顔で、特に急ぎもせず、次の信号が青に変わるとゆっくり歩きだし、現場の方へ向かったそうである。
 母のその時のカルチャーショックはかなり大きかったらしい。錦糸町ではけんかなどは日常茶飯事だったのだ。
 そして数年後、私と弟が生まれ、まだ弟が赤ちゃんだった頃、母は弟がお昼寝している最中に、1人でよく食品を買いに「江東デパート」に行った。江東デパートは3階建てで、今で言うと街のイトーヨーカドーという感じだろうか。食品を売っているスーパーが2階にあって、1階には漬物やお味噌の店、今川焼屋さん、床屋さん等があった。3階にはニッピンというスキーや登山の専門店や瀬戸物屋さんがあり、屋上は植木屋さんになっていた。母は江東デパートで食品を買い求めてから、屋上の植木を選んだりするのが子育て中の唯一の息抜きだった。
 その日も弟が目覚めてしまわないか気にしながらも、ちょっとだけ植木を見ている母だったが、何故か見知らぬサラリーマン風の男の人が「あの、お茶でもいかがですか?」と声をかけてきたのだった。
 しかし母は驚きもせず「あの、家で子どもが待っているので、他をあたってください」と答えたらしい。「他をあたってください」というフレーズに私は爆笑してしまったのだが、母はその時、自分はもう全然若くないおばちゃんだし、明らかに主婦だし、「私とお茶を飲むなんて、なぜだろう」と全く理解ができなかったらしい。声をかけてきたサラリーマン風の人も、母の全く色気のない反応に、あきらめてすぐ去って行ったらしい。
 今の母は、「まだ30歳だったし、考えてみると、それなりに若くて魅力があったのかしらね」などと笑っている。
 錦糸町という街はとてもスリリングだったけれど、そこに住む人たちは意外と平凡に、普通に暮らしているのだった。(つづく)


2018年9月28日金曜日

11.サイパン沖に沈んだ父のいとこ

写真:父50歳、私21歳。1986年11月。
私のいとこのお姉さんの結婚式の日、控室で。

 私は20代から30代の頃、今よりもよく海外旅行に出かけていた。ある時、急な休みが取れることになり、一人でサイパンに行く計画を立てていた。それを父に話すと、父は急に怒って
「前から言ってるだろう、お父さんのいとこが戦争の時、サイパンから船で引き揚げる時に沈没して全員亡くなったって話を。なのによくそんな楽しそうに遊びに行けるな」と言うのだった。
 隣で聞いていた母は「お父さん、何をそんな古い話を。いいじゃないの」という感じだったし、私も、そんな話をされた記憶はなかった。聞いていたのかもしれないが、もうツアーは申し込んでしまったし、今さら戦時中の話でキャンセルをするなどあり得なかった。
 結局その後詳しい話を聞くこともなく、父は2016年に他界した。そして相続の手続きをするために、父の原戸籍を取り寄せた時、私は中身を見て愕然とした。父のいとこ家族たちが昭和19年6月12日にサイパン沖で揃って死亡していたことが記されていたからである。
 原戸籍というのは、父の一家だけではなく、本家の人たちも含めた全員が一つの家として一つの戸籍になっている。だからいとこも父のきょうだいも一緒に、生まれた順番に戸籍に記される。
 父は8人きょうだい。2~3年置きに産まれている。親戚のサイパンの一家も同世代で子沢山だった。戸籍には父のきょうだいと、サイパン一家の子どもたちが、ほぼ交互に記されていたので、死亡して名前が消されているのも交互だった。
 父の家族に並んで、混じって、サイパンの親せき家族たちが皆殺しにされた事実が記されていた。3歳くらいの小さな子もいた。
 それは心にこたえた。小笠原から強制疎開させられた父が無事だったのは奇跡だった。もしかしたら父が乗った船が撃沈されていても不思議ではなかったのだ。父はずっとそれを胸に抱えて生きていたのだろうか。
 サイパンのおじさん、おばさんたち、一人ひとりの名前が戸籍にはあった。生きていたらどんな感じの人だったろうか。会ってみたかったけれど、それはもう永遠に叶わない。

 以下のサイトを見つけた。サイパンのその時の様子が克明に証言されている。








2018年9月27日木曜日

10.小笠原出身の父


 写真の中央で抱っこされているのは、3歳の私である。抱っこしているのは私の叔母、父の妹である。この時母は弟が生まれる直前で、家で留守番をしていた。
 昭和43年、小笠原諸島は日本に返還され、やっと日本人も上陸することが許されるようになった。小笠原出身の父は、この日、船で小笠原に出航した。昭和19年に本土に強制疎開させられてから24年ぶりの帰島だった。私や叔母たちは、父や叔父、祖母たちを見送りに港まで出掛けて行ったのだった。
 小笠原が返還されてから今年でちょうど50年。父がその時、どのような気持ちだったのか詳しく聞くこともなかった。もっと聞いておけばよかったのに、と他界してから後悔しても遅い。しかし断片的に聞いた話や歴史の資料から、ある程度分かることを次回は書きたいと思う。
 それにしてもこの写真、今あらためて見ると非常に昭和的というか、あの頃の空気感が如実に表れていて面白い。後ろに写る都バスの色、ピンポンパンのような帽子をかぶった男の子。教育ママ風のメガネをかけたおばさん。そして私の服は母のお手製。何気なく撮った写真でも、50年経つとそれなりに価値が出るものだと思う。(つづく)

2018年9月26日水曜日

9.雑巾が結んだ縁

 ここまで頭の中に浮かんだことを断片的に書いており、話が飛んだり、時系列ではなく、読みにくくて申し訳なく思う。とりあえず頭の中にあることを書き出し、あとで順番や形式を整えていく予定なので、今後も同じように書いていくことをお許し願いたい。
 今回は、先日書いた赤西夫妻のなれそめに関して事実がわかったので、それを書いておこうと思う。赤西夫妻は、お見合いではなく恋愛で結婚していたことが、娘のさくらちゃんの証言から明らかになった。
 浩行さんは、江東区にある某重工業メーカーの技術者だった。そして好江さんはその会社の生協で働いていた。独身で一人暮らしをしていた浩行さんは、ある日のこと、雑巾が必要になって、社内の生協に買いに行ったのだった。ひと通り店内を探したが、雑巾は見当たらなかった。
「雑巾はどこにありますか」。浩行さんはお店の若い女性に尋ねた。
 今でこそ雑巾は100円ショップなど、どこにでも売っていて、お金を払って買う人も多いけれど、昭和40年頃は古くなった衣類などを雑巾に縫い直して作る人が大半で、買う人はほとんどいなかった。案の定、その生協にも雑巾は売っていなかった。そこでお店の若い女性は下町言葉でこう答えたのだった。
「雑巾なんて買うもんじゃありませんよ、お客さん。家で縫うもんです。でも必要なら、私が縫ってあげますよ。明日でもよければ、今晩家で縫ってきますから」。そう答えたお店の若い女性こそが、好江さんだった。
 浩行さんは好江さんの、元気ではつらつとした感じ、面倒見が良く温かい雰囲気に心を奪われてしまった。真面目で優等生だった浩行さんが、こんなふうに家族以外の女性に親切にされたことは生まれて初めてだったかもしれない。
 そして翌日。浩行さんが生協に行くと、好江さんは約束した通り、雑巾を数枚縫って持ってきてくれていた。浩行さんは感激し、お礼に好江さんをデートに誘ったのだった。
 初めてのデートの行き先は上野動物園。その時に浩行さんは下駄を履いてきて、好江さんを驚かせた。帰りには東天紅で食事をした。
金額の高さに好江さんは驚いたが、真面目でしっかり貯金もあった浩行さんは「お礼だから」と全ておごってくれた。浩行さんの誠実な人柄と頼りがいのある感じに、好江さんも少なからず好意を持ったのだった。
 そして二人はめでたくゴールインし、数年後にはさくらちゃんが生まれる。さくらちゃんは「雑巾が結んだしょぼい縁」と笑うが、私はとても素敵なご縁だと思う。平成の時代、このような出会いはもうないだろう。後世にまで語り継ぎたい、昭和の貴重なエピソードだと思う。(つづく)





2018年9月23日日曜日

8.東大紛争と消防車

 そうして私の両親は翌年の昭和39年に結婚し、錦糸町の10階建ての公団住宅の10階に入居した。
 子どもがいて、よく交流があった宇崎家、赤西家の他にも、同じ10階には数世帯の家族が住んでいてご近所付き合いをしていた。
 Mさん夫妻は、うちの両親よりも10歳ぐらい上だったと思う。ご主人は東大の助教授をしていて、法学が専門だった。私が小さい頃、昭和43~44年頃に東大紛争があって、Mさんのご主人も大変な思いをされていたらしい。そのあたりのニュアンスは、私が少し大きくなってから理解できるようになるのだが、私の記憶にあるのは、ある寒い冬の夜に、うちのビルを取り囲んで、何台もの消防車がはしごを伸ばしているシーンである。そしてMさんのご主人が消防車に向かって大きな声で
「みなさーん、火事はおさまりましたー、どうぞお引き取りくださーい」と、ベランダから落ちそうに身を乗り出して叫んでいるシーンである。
 子どもながらに、何かとても奇異な印象を受けた。うちのビルが火事になったのだろうか。でもどこからも火は出ていなかった。
 私が住んでいた錦糸町のビルの界隈は、しょっちゅう火事や事件があって、消防車やパトカーが「ウーウー」「カンカン」鳴らして走っていることは日常茶飯事だった。公園をはさんだすぐ近くの飲食店から大きな炎が上がっているシーンも10階から見物したことがある。「火事と喧嘩は江戸の華」というのは、まだその頃リアルに生きていた言葉だったと思う。大人たちは火事が起きるとどこか嬉しそうで、やじ馬が何十人と現場近くに集まっている光景も覚えている。
 しかしその日はどこにも火は出ていなかったし、同じビルの大人たちは騒ぐどころか、声をひそめて会話をし、早々にそれぞれの家に帰っていった。
 少し私が大きくなってから聞いた話だと、Mさんのご主人は東大紛争のため、夜眠れなくなり、心療内科に通っていたとのことだった。そしてあの晩、火事など起こっていなかったのに、急に消防署に電話をして「火事です」と伝えてしまったらしい。
 何故そのような行動に出たのかは不明である。もしかしたら本当に火が出ていたのかもしれない。いずれにしても、いつもは温和なMさんのご主人をそこまで追い詰めてしまう「トウダイフンソウ」というものは恐ろしいものだと子どもながらに思ったのだった。
 小さい時の記憶なので、事実と違う点もあると思う。おぼろげな記憶を基にしたフィクションとして読んでいただければ幸いである。(つづく)
 

7.渋谷で待ちぶせされた母

 実家から「何かの時のために」と手渡された大事なお金を、新婚早々、義理の兄が滞納していた家賃の支払いに充てざるを得なかった母。その時、いったい父は何をしていたのだろうと疑問を持ってしまう。兄弟なので血は争えない。父も叔父と似ているところがあって、何か都合の悪いことがあると存在感を消すのがとても上手だった。しかしどこか憎めない。そして必ず周りの人に助けてもらって難を逃れるのだった。
 平成28年に父が他界した後、母は悲しみながらも「これで苦労もおしまいね」などと言っていた。それでも二年経つと「お父さんに会えなくってさびしい。苦労はさせられたけれど、お父さんと結婚してよかった」などと言っているのだから、本当に幸せな人だと思う。
 母は世田谷区用賀で生まれ育った。父である私の祖父は軍医で要職にあったため、戦後すぐ日本に戻ってくることができなかった。極寒の地で健康を害し、日本に戻って来ると数年であの世に旅立ってしまった。昭和29年のことだった。しかし母は、優しい母(私の祖母)や兄、姉たちに守られてかなりの箱入り娘に育ったようである。
 22~3歳の頃、近所の大地主さんとのお見合いの話があったり、兄から信頼できる親友を紹介されたりと、父よりも母を幸せにしてあげられそうな男性との出会いがたくさんあったらしい。
「なぜお父さんを選んじゃったのかしらね」と私が聞くと(私が聞くのも変なのだが)、「そうねぇ、強引なところに惹かれたのかも」と言っていた。
 母は父と同じ新橋の会社で働いていて、先輩だった父とは数回会話を交わしたことがあるだけだった。しかしある日、母が仕事から家に帰宅しようと、渋谷駅で山手線を降り、玉電の改札に向かうと、そこに父が何故か立っていたのだった。母は自分が待ちぶせされたとも全く思わず「あの人も同じ玉電を使っているのかしら」と思ったらしい。どこまでも世間知らずな母だった。
 父は母の姿を見つけると、「お茶でも飲みましょう」と近くの喫茶店に連れて行き、そこで突然「結婚するつもりだから、他の人とは付き合わないように」と一方的にプロポーズをしてきたらしい。
 今だったらストーカー、そしてパワハラで訴えられそうだが、母は父のことを少なからず「素敵な人」と思っていたので(若い頃は素敵だったのかもしれない)、「はい」と返事をしたそうである。
 それは、東京オリンピックまであと1年。日本中が好景気だった昭和38年の暮れのことだった。(つづく)



 
 
 

2018年9月20日木曜日

6.当時の公団住宅公社の状況

 この物語は、ある53歳の女性、私の思い出をモチーフにしており、実在の人物とは関係があるが、登場人物の名前は仮名にしてあり、エピソードや写真の掲示はご本人から許可をもらっている。
 前回の話を掲載後に、さくらちゃん(仮名)から「両親の出会いのエピソードは、実はもう少し違う」との指摘を受けた。事実は小説よりも奇なり。先日書いた話よりも面白いエピソードだったことが判明したのだが、その件は後日書こうと思う。
 さくらちゃんは、2018年の今も元気にしていて、今でも仲良くしている。私が働いていた会社に、4年後さくらちゃんが入社し、同じ会社で10年以上一緒に働いていたこともある。本当に姉妹のような関係なので、お互いに「出会っていなかったらどんな人生だったのだろう」と想像もつかない。
 しかしさくらちゃんの一家が、私が住んでいたビルに引っ越してきたのは、ほんの偶然と、お父さんの浩行さんのとっさの決断の結果だった。
 昭和40年ごろ赤西夫妻は結婚し、とりあえずは江戸川区にある一般の借家に住んだ。同時に、できれば家賃の安い公団住宅にいつかは移りたいと思い、申し込みの手続きを行った。その頃、公団住宅は今よりも非常に人気が高く、申し込みをしても当選する確率は低かった。赤西夫妻も「だめかもしれないけれど、一応申し込みをしておこう」という程度だった。都内の公団住宅はいくつかあって、どこに入りたいかを希望することはできなかった。
 申し込みをしてから1年以上が経過した。浩行さんが申し込みをしたこと自体すっかり忘れていた頃、勤務する会社に一本の電話があった。それは公団住宅公社からだった。
「錦糸町の公団住宅で一部屋空きが出ました。入居されますか?」。浩行さんはいきなり担当者からそう聞かれた。
「錦糸町ですか」。浩行さんの第一志望は練馬区の公団住宅だった。「ちょっと家内と相談してからお返事します」。
 すると担当者は「今日この電話でお返事をいただけなければ権利がなくなります」と言うのだった。
「ええっ?」驚いた浩行さんはとっさに「じゃあ、入居します」と返事をしてしまったのだった。
 いきなり職場に電話がかかってくること、そしてすぐ返事をしなくては失効してしまうことなど、今では考えられないことばかり。しかしうちの母によると、昔の住宅公団公社はそれが当たり前だったようである。
 うちの両親が結婚して錦糸町の公団住宅に住み始めたきっかけは、実は私の父の兄、私の叔父(故人)がその部屋に住んでいて、それを譲り受ける形だった。(身内で譲ることは、本来はあまりいいことではないらしく、内密に行われた)
 叔父は定職につかず、何やら怪しい商売をしていて、時には莫大な収入があったようだが、一般の企業とは違って全く収入のない時も多く、結果として家賃をかなり滞納していたらしい。
 母は新婚早々、家賃の滞納通知を受け取った。新婚でほとんど貯金もなかったが、真面目な母は驚いてすぐに住宅公団公社に出向き、叔父の家賃を支払った。すると住宅公団公社の人は、高い窓口(その頃、銀行なども窓口は全てお客さんよりもかなり高い位置にあった)から、「二度とこのようなことがないように、気を付けてくださいよ!」と母を怒鳴ったのだった。
 母はとっさに「はい、すみません」と神妙にあやまったらしいが、あとで「何であんなふうに怒鳴られなくてはいけないのだろう」と理不尽な気持ちを抑えきれなかった。そのお金は母の母、私の祖母が「何かあった時のために」と言って、持たせてくれたお金だった。祖父は母が15歳の時に他界しているので、母の実家は決して裕福ではなかった。
 今から考えると不思議なことばかり。銀行振込ではなく、直接公社まで出向いて支払いをしたり、顧客満足などと言う言葉とは全く無縁だったり。今だったら絶対にツイッターで拡散されて炎上するだろう。40年~50年で日本も大きく変わった。こんなささいな話も、今の人にとっては興味深いのではないかと思い書いた次第である。(つづく)
 



 
 

2018年9月18日火曜日

5.赤西好江さんは「リアルサザエさん」

 さくらちゃんのお母さん、赤西好江さんは、向島の生まれで、絵に描いたような下町のおばちゃんだった。
 正確に言うと、こどもの頃は「下町の人ってこんな感じ」という一般常識は持っていなかった。大人になるにつれ、知識を得る過程で「あのおばちゃんは紛れもなく下町の人」と回想するようになった。元気で気前が良くて、気取らない。楽しいことが大好きで、ちょっと粗忽者。でも全然気にしない。サザエさんをイメージしていただくと一番近いかも知れない。
 さくらちゃんのお父さんとお母さんは、たしかお見合いで結婚している。二人のおじいさんが第一次世界大戦の戦友だったらしい。
 お見合いの当日、さくらちゃんのお父さんである浩行さんはゲタを履いて待ち合わせ場所に現れた。昭和30年代、男性が日常でゲタを履いている姿はよく見かける光景だった。しかし履き物だけではなく、服装も全く気取らない浩行さんだった。気の利いた会話もあまりなかったけれど、好江さんは実直な感じに惹かれ、後日お付き合いをしてみることになり、そして結婚までこぎつけた。
 この話を子どもながらに覚えているのは、好江さんが何度か楽しそうに話してくれたからである。
 好江さんは浩行さんのことを「ヒロちゃん」と呼んでいた。しかし江戸っ子なので発音は「シロちゃん」だった。「シロちゃんったら、お見合いの時にゲタ履いてきたんだからね、信じらんないでしょ」、という感じだった。
 浩行さんは映画「男はつらいよ」が大好きで、封切り後には必ず錦糸町の楽天地で観賞していた。あの頃は寅さんの全盛期だったなぁ。それからクラシック音楽が大好きで、日曜日の午後は必ずNHK のFM 番組を聴いていた。事前に駅前の洋菓子屋さんでショートケーキを買ってきて、紅茶を淹れ、家族全員で美味しく食べる習慣があった。さっちゃんの姉同然の私は、赤西家の一員として、当然のようにケーキと紅茶をちゃっかりいただきながらクラシックを聴いていた。あの頃の日曜日は毎週本当に楽しかったなぁ。(つづく)

 

 

2018年9月17日月曜日

4.さくらちゃんと私の運動靴

 じゅんくんとの思い出は、またいろいろと書いていこうと思っているけれど、その前にじゅんくんの宇崎家と同じくらい仲良くしていた赤西家の話を書いておこうと思う。
 赤西家は、宇崎家の真ん前、うちのななめ前に住んでいた一家で、私より四歳下のさくらちゃん、通称さっちゃんという女の子がいた。
 女の子だから、もっぱら私とさくらちゃんは一緒におままごとやリカちゃんハウスで遊ぶことが多かった。弟とじゅんくんは男の子同士、一緒に仮面ライダーごっこなどをして走り回っていることが多かった。
 さくらちゃんと私は姉妹のように、ほぼ毎日一緒に遊んでいたように思う。私が小学校に上がってからも、さくらちゃんはいつも私の帰りを今か今かと待ち構えていた。
 その頃、うちの玄関のドアに付いている新聞受けには、入れ口だけがあって、内側にあるべき受ける部分が付いていなかった。もともとそのような構造になっていたのか、外れてしまったのか、記憶はあいまいだが、そのせいで、新聞受けの入れ口をちょっと開けて覗くと、うちの玄関が丸見えで、靴が並んでいる状態や、誰がいるか、誰が外出中かなどがつぶさに分かってしまうのだった。東京なのに、今から思えば信じられないくらいノンビリした時代だった。
 さくらちゃんは、私が下校してくる時間が近づくと、ピーピー音の鳴るサンダルを履いて、うちまで20歩くらいかけて歩いて来る。そして小さな手でうちの新聞受けを開けて「トーコーちゃん」と私のことを呼ぶのだった。
 私が小学校から帰っている時は、すぐに一緒に遊んだ。けれどまだ私が帰っていないこともあった。名前を呼んでも返事がない時、さくらちゃんは新聞受けの小窓から玄関を覗く。そして私の運動靴が無いことを確認すると、(まだトコちゃんは帰っていない)と判断するのだろう。何も言わずにまたピーピー音を立てて家に戻るのだった。私がいない時のことは、母から聞いた話だけれど、なぜか鮮明にその光景を思い出すことができる。
 玄関のドアは、今から思えばとても旧式の物だった。来客が誰かを確認する覗き穴は、現代のドアなら内側から覗いても来客側からは覗いていることは分からない。居留守を使うこともできる。しかしそのビルのドアに付いていたのは、覗き穴ではなく、手で開ける小窓だった。居留守は使えないし、来客と目が合ってしまう。その頃は当たり前だったのかも知れないが、今思い出すと不思議というか、困るというか。でも何だか愛しくなる小さな思い出のひとつである。
写真1:数年前に撮影したドア
写真2:さくらちゃんと私
写真3:都電の広告?に座るさくらちゃん(トルコ!)


2018年9月15日土曜日

3.天国にいるじゅんくん

 


 うちの隣に住んでいた宇崎じゅんくんは、私より一つ年下の昭和41年生まれだった。元気で明るくって、ちょっと頑固なところもあるけれど、笑顔がチャーミングなじゅんくん。彼は今、天国で暮らしている。ここで昔のことを書き始めたのは、彼のことも書いて残しておきたいと思ったこともある。
 じゅんくんと初めて会った時の記憶はない。気がついたらいつも一緒に遊んでいたという感じだった。子どもの頃の写真を見ると、私とじゅんくんが一緒に写っているものがかなり多くある。家の中を駆け回ったり、ビルの屋上で並んで三輪車に乗ったり。私の人生が始まる時に、一番多くの時間を一緒に過ごした友達がじゅんくんだったのだと思う。
 弟が生まれてからは、じゅんくんと私、弟の3人で遊ぶことが多かった。うちとじゅんくんの家のベランダは、壁一枚で仕切られているので、ベランダのすき間から「じゅんくーん、んーん、うーうーうー♪」と節をつけて呼ぶのがならわしで、それは「遊ぼうよ!」という合図だった。すぐにじゅんくんは「おう!」とベランダに出てきてくれて、そのままおしゃべりしたり、屋上に上がったりして遊ぶのが常だった。
 じゅんくんのお父さんは、両国の青果市場、通称「やっちゃば」に勤めていた。そのため当時は珍しかったキウイフルーツなどをおすそ分けしてもらった記憶がある。気前が良く豪快なお父さんは、人を喜ばせたくってお小遣いを使い果たし、しっかり者のじゅんくんのお母さんによく小言を言われていた。今はもう両国の青果市場もなくなって、跡地には江戸東京博物館が建っている。
 じゅんくんのお母さんは看護師さんをやっていた。私は小さい頃、食が細くてあまり物を食べられなかった。それに風邪をひいて熱を出すことも多かったので、母はよくじゅんくんのお母さんにアドバイスをしてもらっていた。
 じゅんくんのお母さんのおかげで私は命拾いしたこともある。2歳の時の出来事だった。私は舐めていた飴をのどにつまらせて息ができなくなった。母はあわてて私の背中をたたいたり、のどに指を突っ込んだりして飴を吐かせようとしてみたが、一向に飴は出てくる気配はなかった。そのうちに息のできない私の顔はむらさき色に変わってきてしまった。
 その時母は、とっさに隣の家へ私を抱きかかえて行き、助けを求めたのだった。じゅんくんのお母さんは、私をすぐに逆さにし、激しい音を立てて背中を2度たたいた。すると口からぽろっと飴が飛び出して、私は間一髪で命拾いしたのだった。
 じゅんくんのお母さんには、いくら感謝してもしきれないほどお世話になったのに、じゅんくんが20代に病で天国に旅立った時、私はまだまだ子どもで、じゅんくんのお母さんともあまり話ができなかった。いつかじゅんくんのお母さんに会って、じゅんくんの思い出をもっともっとたくさん、一緒に語りたいと思っている。


 

2.怒らなかった母と、高級ハム

 あのエントランスのドアガラスを割ってしまった事件があった時、私はたしか7歳くらい、弟は4歳くらいだったと思う。ガラスは弟の背よりも大きかった。そして恐ろしい音をたてて派手に砕け散ったのに、幸いにして弟は一滴の血も流していなかった。
 いつも弟を従えて立派なお姉ちゃんとして君臨していた私は、子どもながらに「これは私の責任」と思った。弟をからかって逃げるふりをしていた私が悪かったのだ。
 真っ青になって震えている弟と一緒に、ビルの10階にある自分の家に戻った。
 話を聞いた母はとても驚いたが、けがをしていない弟を見て一言「良かった」と言った。母は私たちのことを全く怒らなかった。私たちは他の子どもたちと同様、毎日毎日母に何かしら怒られていたから、それは本当に意外なことだった。今思えば、母も怒るより、恐怖の方が上回っていたのかも知れない。
 家からホウキを持ってきて、ガラスの残骸を横によけてから、私と弟は家に戻り、母はビルの五階に住んでいる管理人のSさんの家に向かった。
 弁償を覚悟で事の顛末をSさんに伝えると、Sさんは「割ったのは誰か分からない、知らないうちに割れていた、ということにしましょう」と言ってくれたらしい。顔は怖いおじさんだったけれど、Sさんはとても人情味のある人だった。私も母もほっとした。
 特に母はその時Sさんが神様のように思えたらしい。あの頃うちの家計はとても厳しかったから。「あのガラスは2万円くらいするんじゃないかしら」と母は言った。その頃の2万円は今の10倍くらいの価値はあっただろう。
 母は後日、厳しい家計からお金を捻出し、高級なハムを買ってSさんの家に届けた。せめてもの感謝の気持ちだった。「Sさんはなかなか受け取ってくれなくって」と話していた母を思い出す。しかし最終的には受け取って下さったのだろう。うちの食卓に高級ハムが並ぶことはなかったから。
 私の生まれた家は、都会のど真ん中に建ったビルだったけれど、人情味のあふれるご近所さんがいっぱいだった。絵に描いたような昭和の下町のおばちゃんたち、元気でうるさい子どもたち。弟と私は、隣に住んでいた「じゅん君」や、ななめ前に住んでいた「さっちゃん」と一緒に、いつもガチャガチャとビルの中で大騒ぎをして遊んでいた。(つづく)

2018年9月14日金曜日

1.あなたの生まれた家は今も存在していますか?

 生まれた時に住んでいた家が、まだ残っている確率はどれくらいなのだろう。昭和40年代、日本に生まれた人なら、その確率はかなり低くなるかと思う。
 先日、横浜生まれの友人と話していたら「私の家は、小さい頃、お風呂が庭にあったの。トイレはもちろんポットン便所。でも私が小学生の時に今の家に建て替えたの」と言う。
 昭和40年代はまだ戦前に建てた家も数多く残っていたように思う。そして友人の家と同じようにポットン便所で、昭和50年頃に建て替えたり、新興住宅地に引っ越したりする人が多かったのではないか。
 私は昭和40年に東京に生まれた。私の家は10階建てのビルの最上階、10階にあった。トイレは水洗だったし、お風呂も付いていた。昭和30年代後半に建てられたらしいので、私が生まれた頃はほぼ新築だったと言える。しかし子どもの頃はそれほどきれいな家だと思った記憶はない。うるさくてごみごみした都会の真ん中にあった灰色の小さなビルだった。
 50年後の今はどうなっているだろうと数年前に見に行ったことがある。あのビルはまだちゃんと生き延びて同じ場所に存在していた。意外なことに、エントランス等はきれいに塗り替えられて上品な佇まいだった。レトロなエレベーターはどこかおしゃれな雰囲気もあった。パリのアパルトマンのような、と表現したら誉めすぎだろうか。
 とても懐かしかった。そうそう、ここのエントランスで弟とおいかけっこをしたことがあった。小さい弟は三歳上の姉に置いて行かれないよう、必死で走って、エントランスのガラスドアを力いっぱいボンと押した。するととても分厚いはずのガラスが割れて粉々に流れ落ちた。あっという間の出来事だった。私と弟は驚きと恐怖のあまり、その場に立ち尽くした。

36.【最終回】小学校を卒業、そして・・・

 日光修学旅行が終わった頃、卒業制作の話が高梨先生からあった。 「何か6年1組として記念になるものを作って、小学校の中に残しましょう」  花壇を作るとか、遊び道具を作るとか、いくつか案があったと思うが、話し合いの結果、「トーテムポール」を作ることになった。1組と...