生まれた時に住んでいた家が、まだ残っている確率はどれくらいなのだろう。昭和40年代、日本に生まれた人なら、その確率はかなり低くなるかと思う。
先日、横浜生まれの友人と話していたら「私の家は、小さい頃、お風呂が庭にあったの。トイレはもちろんポットン便所。でも私が小学生の時に今の家に建て替えたの」と言う。
昭和40年代はまだ戦前に建てた家も数多く残っていたように思う。そして友人の家と同じようにポットン便所で、昭和50年頃に建て替えたり、新興住宅地に引っ越したりする人が多かったのではないか。
私は昭和40年に東京に生まれた。私の家は10階建てのビルの最上階、10階にあった。トイレは水洗だったし、お風呂も付いていた。昭和30年代後半に建てられたらしいので、私が生まれた頃はほぼ新築だったと言える。しかし子どもの頃はそれほどきれいな家だと思った記憶はない。うるさくてごみごみした都会の真ん中にあった灰色の小さなビルだった。
50年後の今はどうなっているだろうと数年前に見に行ったことがある。あのビルはまだちゃんと生き延びて同じ場所に存在していた。意外なことに、エントランス等はきれいに塗り替えられて上品な佇まいだった。レトロなエレベーターはどこかおしゃれな雰囲気もあった。パリのアパルトマンのような、と表現したら誉めすぎだろうか。
とても懐かしかった。そうそう、ここのエントランスで弟とおいかけっこをしたことがあった。小さい弟は三歳上の姉に置いて行かれないよう、必死で走って、エントランスのガラスドアを力いっぱいボンと押した。するととても分厚いはずのガラスが割れて粉々に流れ落ちた。あっという間の出来事だった。私と弟は驚きと恐怖のあまり、その場に立ち尽くした。
2018年9月14日金曜日
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