2018年9月15日土曜日

2.怒らなかった母と、高級ハム

 あのエントランスのドアガラスを割ってしまった事件があった時、私はたしか7歳くらい、弟は4歳くらいだったと思う。ガラスは弟の背よりも大きかった。そして恐ろしい音をたてて派手に砕け散ったのに、幸いにして弟は一滴の血も流していなかった。
 いつも弟を従えて立派なお姉ちゃんとして君臨していた私は、子どもながらに「これは私の責任」と思った。弟をからかって逃げるふりをしていた私が悪かったのだ。
 真っ青になって震えている弟と一緒に、ビルの10階にある自分の家に戻った。
 話を聞いた母はとても驚いたが、けがをしていない弟を見て一言「良かった」と言った。母は私たちのことを全く怒らなかった。私たちは他の子どもたちと同様、毎日毎日母に何かしら怒られていたから、それは本当に意外なことだった。今思えば、母も怒るより、恐怖の方が上回っていたのかも知れない。
 家からホウキを持ってきて、ガラスの残骸を横によけてから、私と弟は家に戻り、母はビルの五階に住んでいる管理人のSさんの家に向かった。
 弁償を覚悟で事の顛末をSさんに伝えると、Sさんは「割ったのは誰か分からない、知らないうちに割れていた、ということにしましょう」と言ってくれたらしい。顔は怖いおじさんだったけれど、Sさんはとても人情味のある人だった。私も母もほっとした。
 特に母はその時Sさんが神様のように思えたらしい。あの頃うちの家計はとても厳しかったから。「あのガラスは2万円くらいするんじゃないかしら」と母は言った。その頃の2万円は今の10倍くらいの価値はあっただろう。
 母は後日、厳しい家計からお金を捻出し、高級なハムを買ってSさんの家に届けた。せめてもの感謝の気持ちだった。「Sさんはなかなか受け取ってくれなくって」と話していた母を思い出す。しかし最終的には受け取って下さったのだろう。うちの食卓に高級ハムが並ぶことはなかったから。
 私の生まれた家は、都会のど真ん中に建ったビルだったけれど、人情味のあふれるご近所さんがいっぱいだった。絵に描いたような昭和の下町のおばちゃんたち、元気でうるさい子どもたち。弟と私は、隣に住んでいた「じゅん君」や、ななめ前に住んでいた「さっちゃん」と一緒に、いつもガチャガチャとビルの中で大騒ぎをして遊んでいた。(つづく)

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