あのエントランスのドアガラスを割ってしまった事件があった時、私はたしか7歳くらい、弟は4歳くらいだったと思う。ガラスは弟の背よりも大きかった。そして恐ろしい音をたてて派手に砕け散ったのに、幸いにして弟は一滴の血も流していなかった。
いつも弟を従えて立派なお姉ちゃんとして君臨していた私は、子どもながらに「これは私の責任」と思った。弟をからかって逃げるふりをしていた私が悪かったのだ。
真っ青になって震えている弟と一緒に、ビルの10階にある自分の家に戻った。
話を聞いた母はとても驚いたが、けがをしていない弟を見て一言「良かった」と言った。母は私たちのことを全く怒らなかった。私たちは他の子どもたちと同様、毎日毎日母に何かしら怒られていたから、それは本当に意外なことだった。今思えば、母も怒るより、恐怖の方が上回っていたのかも知れない。
家からホウキを持ってきて、ガラスの残骸を横によけてから、私と弟は家に戻り、母はビルの五階に住んでいる管理人のSさんの家に向かった。
弁償を覚悟で事の顛末をSさんに伝えると、Sさんは「割ったのは誰か分からない、知らないうちに割れていた、ということにしましょう」と言ってくれたらしい。顔は怖いおじさんだったけれど、Sさんはとても人情味のある人だった。私も母もほっとした。
特に母はその時Sさんが神様のように思えたらしい。あの頃うちの家計はとても厳しかったから。「あのガラスは2万円くらいするんじゃないかしら」と母は言った。その頃の2万円は今の10倍くらいの価値はあっただろう。
母は後日、厳しい家計からお金を捻出し、高級なハムを買ってSさんの家に届けた。せめてもの感謝の気持ちだった。「Sさんはなかなか受け取ってくれなくって」と話していた母を思い出す。しかし最終的には受け取って下さったのだろう。うちの食卓に高級ハムが並ぶことはなかったから。
私の生まれた家は、都会のど真ん中に建ったビルだったけれど、人情味のあふれるご近所さんがいっぱいだった。絵に描いたような昭和の下町のおばちゃんたち、元気でうるさい子どもたち。弟と私は、隣に住んでいた「じゅん君」や、ななめ前に住んでいた「さっちゃん」と一緒に、いつもガチャガチャとビルの中で大騒ぎをして遊んでいた。(つづく)
2018年9月15日土曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
36.【最終回】小学校を卒業、そして・・・
日光修学旅行が終わった頃、卒業制作の話が高梨先生からあった。 「何か6年1組として記念になるものを作って、小学校の中に残しましょう」 花壇を作るとか、遊び道具を作るとか、いくつか案があったと思うが、話し合いの結果、「トーテムポール」を作ることになった。1組と...
-
遠足に行った日。 2列目の向かって右から4番目が私。 昔、昔、昭和の小学生の男の子たちは、みんな自分のひいきの野球チームの帽子をかぶっていた。上の写真を見ると、いかにも「昭和だなぁ」と思う。ズボンの丈も、今の小学生と違って短い。 ちなみに前回の話で「悪ガキ...
-
横須賀の望洋小学校の授業で。 左が私。 小学校3年の話にさかのぼるが、通っていた錦糸小学校は、都会の真ん中にありながら、水泳の指導にかなり力を入れていた。 たしか1級から30級くらいまで細かくあって、30級の「顔を水に付けられる」から始まって...
-
写真は亀戸天神の藤の花である。平成30年の今はもっときれいに咲き誇っているが、昭和40年代はこんな感じだった。 亀戸天神のお土産の定番は船橋屋のくず餅。あのプルプルした冷たいくず餅に、きなこと黒蜜をかけるシンプルな和菓子は思い出深い。 それから舟和の芋ようかんも懐...
0 件のコメント:
コメントを投稿