2018年9月15日土曜日

3.天国にいるじゅんくん

 


 うちの隣に住んでいた宇崎じゅんくんは、私より一つ年下の昭和41年生まれだった。元気で明るくって、ちょっと頑固なところもあるけれど、笑顔がチャーミングなじゅんくん。彼は今、天国で暮らしている。ここで昔のことを書き始めたのは、彼のことも書いて残しておきたいと思ったこともある。
 じゅんくんと初めて会った時の記憶はない。気がついたらいつも一緒に遊んでいたという感じだった。子どもの頃の写真を見ると、私とじゅんくんが一緒に写っているものがかなり多くある。家の中を駆け回ったり、ビルの屋上で並んで三輪車に乗ったり。私の人生が始まる時に、一番多くの時間を一緒に過ごした友達がじゅんくんだったのだと思う。
 弟が生まれてからは、じゅんくんと私、弟の3人で遊ぶことが多かった。うちとじゅんくんの家のベランダは、壁一枚で仕切られているので、ベランダのすき間から「じゅんくーん、んーん、うーうーうー♪」と節をつけて呼ぶのがならわしで、それは「遊ぼうよ!」という合図だった。すぐにじゅんくんは「おう!」とベランダに出てきてくれて、そのままおしゃべりしたり、屋上に上がったりして遊ぶのが常だった。
 じゅんくんのお父さんは、両国の青果市場、通称「やっちゃば」に勤めていた。そのため当時は珍しかったキウイフルーツなどをおすそ分けしてもらった記憶がある。気前が良く豪快なお父さんは、人を喜ばせたくってお小遣いを使い果たし、しっかり者のじゅんくんのお母さんによく小言を言われていた。今はもう両国の青果市場もなくなって、跡地には江戸東京博物館が建っている。
 じゅんくんのお母さんは看護師さんをやっていた。私は小さい頃、食が細くてあまり物を食べられなかった。それに風邪をひいて熱を出すことも多かったので、母はよくじゅんくんのお母さんにアドバイスをしてもらっていた。
 じゅんくんのお母さんのおかげで私は命拾いしたこともある。2歳の時の出来事だった。私は舐めていた飴をのどにつまらせて息ができなくなった。母はあわてて私の背中をたたいたり、のどに指を突っ込んだりして飴を吐かせようとしてみたが、一向に飴は出てくる気配はなかった。そのうちに息のできない私の顔はむらさき色に変わってきてしまった。
 その時母は、とっさに隣の家へ私を抱きかかえて行き、助けを求めたのだった。じゅんくんのお母さんは、私をすぐに逆さにし、激しい音を立てて背中を2度たたいた。すると口からぽろっと飴が飛び出して、私は間一髪で命拾いしたのだった。
 じゅんくんのお母さんには、いくら感謝してもしきれないほどお世話になったのに、じゅんくんが20代に病で天国に旅立った時、私はまだまだ子どもで、じゅんくんのお母さんともあまり話ができなかった。いつかじゅんくんのお母さんに会って、じゅんくんの思い出をもっともっとたくさん、一緒に語りたいと思っている。


 

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