じゅんくんとの思い出は、またいろいろと書いていこうと思っているけれど、その前にじゅんくんの宇崎家と同じくらい仲良くしていた赤西家の話を書いておこうと思う。
赤西家は、宇崎家の真ん前、うちのななめ前に住んでいた一家で、私より四歳下のさくらちゃん、通称さっちゃんという女の子がいた。
女の子だから、もっぱら私とさくらちゃんは一緒におままごとやリカちゃんハウスで遊ぶことが多かった。弟とじゅんくんは男の子同士、一緒に仮面ライダーごっこなどをして走り回っていることが多かった。
さくらちゃんと私は姉妹のように、ほぼ毎日一緒に遊んでいたように思う。私が小学校に上がってからも、さくらちゃんはいつも私の帰りを今か今かと待ち構えていた。
その頃、うちの玄関のドアに付いている新聞受けには、入れ口だけがあって、内側にあるべき受ける部分が付いていなかった。もともとそのような構造になっていたのか、外れてしまったのか、記憶はあいまいだが、そのせいで、新聞受けの入れ口をちょっと開けて覗くと、うちの玄関が丸見えで、靴が並んでいる状態や、誰がいるか、誰が外出中かなどがつぶさに分かってしまうのだった。東京なのに、今から思えば信じられないくらいノンビリした時代だった。
さくらちゃんは、私が下校してくる時間が近づくと、ピーピー音の鳴るサンダルを履いて、うちまで20歩くらいかけて歩いて来る。そして小さな手でうちの新聞受けを開けて「トーコーちゃん」と私のことを呼ぶのだった。
私が小学校から帰っている時は、すぐに一緒に遊んだ。けれどまだ私が帰っていないこともあった。名前を呼んでも返事がない時、さくらちゃんは新聞受けの小窓から玄関を覗く。そして私の運動靴が無いことを確認すると、(まだトコちゃんは帰っていない)と判断するのだろう。何も言わずにまたピーピー音を立てて家に戻るのだった。私がいない時のことは、母から聞いた話だけれど、なぜか鮮明にその光景を思い出すことができる。
玄関のドアは、今から思えばとても旧式の物だった。来客が誰かを確認する覗き穴は、現代のドアなら内側から覗いても来客側からは覗いていることは分からない。居留守を使うこともできる。しかしそのビルのドアに付いていたのは、覗き穴ではなく、手で開ける小窓だった。居留守は使えないし、来客と目が合ってしまう。その頃は当たり前だったのかも知れないが、今思い出すと不思議というか、困るというか。でも何だか愛しくなる小さな思い出のひとつである。
写真1:数年前に撮影したドア
写真2:さくらちゃんと私
写真3:都電の広告?に座るさくらちゃん(トルコ!)
2018年9月17日月曜日
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