2018年9月28日金曜日

11.サイパン沖に沈んだ父のいとこ

写真:父50歳、私21歳。1986年11月。
私のいとこのお姉さんの結婚式の日、控室で。

 私は20代から30代の頃、今よりもよく海外旅行に出かけていた。ある時、急な休みが取れることになり、一人でサイパンに行く計画を立てていた。それを父に話すと、父は急に怒って
「前から言ってるだろう、お父さんのいとこが戦争の時、サイパンから船で引き揚げる時に沈没して全員亡くなったって話を。なのによくそんな楽しそうに遊びに行けるな」と言うのだった。
 隣で聞いていた母は「お父さん、何をそんな古い話を。いいじゃないの」という感じだったし、私も、そんな話をされた記憶はなかった。聞いていたのかもしれないが、もうツアーは申し込んでしまったし、今さら戦時中の話でキャンセルをするなどあり得なかった。
 結局その後詳しい話を聞くこともなく、父は2016年に他界した。そして相続の手続きをするために、父の原戸籍を取り寄せた時、私は中身を見て愕然とした。父のいとこ家族たちが昭和19年6月12日にサイパン沖で揃って死亡していたことが記されていたからである。
 原戸籍というのは、父の一家だけではなく、本家の人たちも含めた全員が一つの家として一つの戸籍になっている。だからいとこも父のきょうだいも一緒に、生まれた順番に戸籍に記される。
 父は8人きょうだい。2~3年置きに産まれている。親戚のサイパンの一家も同世代で子沢山だった。戸籍には父のきょうだいと、サイパン一家の子どもたちが、ほぼ交互に記されていたので、死亡して名前が消されているのも交互だった。
 父の家族に並んで、混じって、サイパンの親せき家族たちが皆殺しにされた事実が記されていた。3歳くらいの小さな子もいた。
 それは心にこたえた。小笠原から強制疎開させられた父が無事だったのは奇跡だった。もしかしたら父が乗った船が撃沈されていても不思議ではなかったのだ。父はずっとそれを胸に抱えて生きていたのだろうか。
 サイパンのおじさん、おばさんたち、一人ひとりの名前が戸籍にはあった。生きていたらどんな感じの人だったろうか。会ってみたかったけれど、それはもう永遠に叶わない。

 以下のサイトを見つけた。サイパンのその時の様子が克明に証言されている。








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