私は6歳、弟は3歳ぐらいの時。たぶんこどもの国で。
私は父に似ていて、弟は母に似ています。
父が他界してから、母は結婚したばかりの頃の話をよくするようになった。それは本当にささいな取るに足らないことばかり。
しかし特別なことではない出来事のほうが、何となく愛しい感じがする。たぶんささいな出来事の方が忘れられてしまう、消えてなくなってしまう可能性が高いからではないだろうか。
最近、井上靖の『わが母の記』を読んだら、80歳になるお母さんがやたらと昔の話をするようになったと書いてあった。うちの母も79歳。やはりそのぐらいの年齢になると人間は昔の話をたくさんするようになるのだろうか。そして娘や息子は、それをいつまでも忘れないように書き留めておきたくなるのだと思う。
第7~8回で、世間知らずだった母が結婚して錦糸町の10階建てのビルに住み始めたことを書いた。いきなり家賃の督促状をもらったり、住宅公団公社の人に叱られたり、予想外な展開がつづいていた母だったが、錦糸町の生活は日々スリリングだったようである。
昭和40年頃、母の育った世田谷区用賀はまだ畑が広がる田舎だった。錦糸町はすでに大都会で、場外馬券売り場もあったり、女の人の裸が描かれた少々いかがわしいお店もたくさんあったりした。あやしい感じのオジサンも多数うろうろしていた。
母が錦糸町に住み始めたばかりのある日、駅に行こうと信号待ちをしていると、すぐ隣で怖い感じの男の人二人が殴り合いのけんかを始めたらしい。母は「これは大変!」と、信号が青に変わった瞬間、猛ダッシュで信号を渡ったところにある交番に駆け込み「大変です!あそこで男の人がけんかをしています!」と息も絶え絶え通報をした。
すると交番のおまわりさんは「あ、そうですか」と平然とした顔で、特に急ぎもせず、次の信号が青に変わるとゆっくり歩きだし、現場の方へ向かったそうである。
母のその時のカルチャーショックはかなり大きかったらしい。錦糸町ではけんかなどは日常茶飯事だったのだ。
そして数年後、私と弟が生まれ、まだ弟が赤ちゃんだった頃、母は弟がお昼寝している最中に、1人でよく食品を買いに「江東デパート」に行った。江東デパートは3階建てで、今で言うと街のイトーヨーカドーという感じだろうか。食品を売っているスーパーが2階にあって、1階には漬物やお味噌の店、今川焼屋さん、床屋さん等があった。3階にはニッピンというスキーや登山の専門店や瀬戸物屋さんがあり、屋上は植木屋さんになっていた。母は江東デパートで食品を買い求めてから、屋上の植木を選んだりするのが子育て中の唯一の息抜きだった。
その日も弟が目覚めてしまわないか気にしながらも、ちょっとだけ植木を見ている母だったが、何故か見知らぬサラリーマン風の男の人が「あの、お茶でもいかがですか?」と声をかけてきたのだった。
しかし母は驚きもせず「あの、家で子どもが待っているので、他をあたってください」と答えたらしい。「他をあたってください」というフレーズに私は爆笑してしまったのだが、母はその時、自分はもう全然若くないおばちゃんだし、明らかに主婦だし、「私とお茶を飲むなんて、なぜだろう」と全く理解ができなかったらしい。声をかけてきたサラリーマン風の人も、母の全く色気のない反応に、あきらめてすぐ去って行ったらしい。
今の母は、「まだ30歳だったし、考えてみると、それなりに若くて魅力があったのかしらね」などと笑っている。
錦糸町という街はとてもスリリングだったけれど、そこに住む人たちは意外と平凡に、普通に暮らしているのだった。(つづく)
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