実家から「何かの時のために」と手渡された大事なお金を、新婚早々、義理の兄が滞納していた家賃の支払いに充てざるを得なかった母。その時、いったい父は何をしていたのだろうと疑問を持ってしまう。兄弟なので血は争えない。父も叔父と似ているところがあって、何か都合の悪いことがあると存在感を消すのがとても上手だった。しかしどこか憎めない。そして必ず周りの人に助けてもらって難を逃れるのだった。
平成28年に父が他界した後、母は悲しみながらも「これで苦労もおしまいね」などと言っていた。それでも二年経つと「お父さんに会えなくってさびしい。苦労はさせられたけれど、お父さんと結婚してよかった」などと言っているのだから、本当に幸せな人だと思う。
母は世田谷区用賀で生まれ育った。父である私の祖父は軍医で要職にあったため、戦後すぐ日本に戻ってくることができなかった。極寒の地で健康を害し、日本に戻って来ると数年であの世に旅立ってしまった。昭和29年のことだった。しかし母は、優しい母(私の祖母)や兄、姉たちに守られてかなりの箱入り娘に育ったようである。
22~3歳の頃、近所の大地主さんとのお見合いの話があったり、兄から信頼できる親友を紹介されたりと、父よりも母を幸せにしてあげられそうな男性との出会いがたくさんあったらしい。
「なぜお父さんを選んじゃったのかしらね」と私が聞くと(私が聞くのも変なのだが)、「そうねぇ、強引なところに惹かれたのかも」と言っていた。
母は父と同じ新橋の会社で働いていて、先輩だった父とは数回会話を交わしたことがあるだけだった。しかしある日、母が仕事から家に帰宅しようと、渋谷駅で山手線を降り、玉電の改札に向かうと、そこに父が何故か立っていたのだった。母は自分が待ちぶせされたとも全く思わず「あの人も同じ玉電を使っているのかしら」と思ったらしい。どこまでも世間知らずな母だった。
父は母の姿を見つけると、「お茶でも飲みましょう」と近くの喫茶店に連れて行き、そこで突然「結婚するつもりだから、他の人とは付き合わないように」と一方的にプロポーズをしてきたらしい。
今だったらストーカー、そしてパワハラで訴えられそうだが、母は父のことを少なからず「素敵な人」と思っていたので(若い頃は素敵だったのかもしれない)、「はい」と返事をしたそうである。
それは、東京オリンピックまであと1年。日本中が好景気だった昭和38年の暮れのことだった。(つづく)
2018年9月23日日曜日
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