そうして私の両親は翌年の昭和39年に結婚し、錦糸町の10階建ての公団住宅の10階に入居した。
子どもがいて、よく交流があった宇崎家、赤西家の他にも、同じ10階には数世帯の家族が住んでいてご近所付き合いをしていた。
Mさん夫妻は、うちの両親よりも10歳ぐらい上だったと思う。ご主人は東大の助教授をしていて、法学が専門だった。私が小さい頃、昭和43~44年頃に東大紛争があって、Mさんのご主人も大変な思いをされていたらしい。そのあたりのニュアンスは、私が少し大きくなってから理解できるようになるのだが、私の記憶にあるのは、ある寒い冬の夜に、うちのビルを取り囲んで、何台もの消防車がはしごを伸ばしているシーンである。そしてMさんのご主人が消防車に向かって大きな声で
「みなさーん、火事はおさまりましたー、どうぞお引き取りくださーい」と、ベランダから落ちそうに身を乗り出して叫んでいるシーンである。
子どもながらに、何かとても奇異な印象を受けた。うちのビルが火事になったのだろうか。でもどこからも火は出ていなかった。
私が住んでいた錦糸町のビルの界隈は、しょっちゅう火事や事件があって、消防車やパトカーが「ウーウー」「カンカン」鳴らして走っていることは日常茶飯事だった。公園をはさんだすぐ近くの飲食店から大きな炎が上がっているシーンも10階から見物したことがある。「火事と喧嘩は江戸の華」というのは、まだその頃リアルに生きていた言葉だったと思う。大人たちは火事が起きるとどこか嬉しそうで、やじ馬が何十人と現場近くに集まっている光景も覚えている。
しかしその日はどこにも火は出ていなかったし、同じビルの大人たちは騒ぐどころか、声をひそめて会話をし、早々にそれぞれの家に帰っていった。
少し私が大きくなってから聞いた話だと、Mさんのご主人は東大紛争のため、夜眠れなくなり、心療内科に通っていたとのことだった。そしてあの晩、火事など起こっていなかったのに、急に消防署に電話をして「火事です」と伝えてしまったらしい。
何故そのような行動に出たのかは不明である。もしかしたら本当に火が出ていたのかもしれない。いずれにしても、いつもは温和なMさんのご主人をそこまで追い詰めてしまう「トウダイフンソウ」というものは恐ろしいものだと子どもながらに思ったのだった。
小さい時の記憶なので、事実と違う点もあると思う。おぼろげな記憶を基にしたフィクションとして読んでいただければ幸いである。(つづく)
2018年9月23日日曜日
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