この物語は、ある53歳の女性、私の思い出をモチーフにしており、実在の人物とは関係があるが、登場人物の名前は仮名にしてあり、エピソードや写真の掲示はご本人から許可をもらっている。
前回の話を掲載後に、さくらちゃん(仮名)から「両親の出会いのエピソードは、実はもう少し違う」との指摘を受けた。事実は小説よりも奇なり。先日書いた話よりも面白いエピソードだったことが判明したのだが、その件は後日書こうと思う。
さくらちゃんは、2018年の今も元気にしていて、今でも仲良くしている。私が働いていた会社に、4年後さくらちゃんが入社し、同じ会社で10年以上一緒に働いていたこともある。本当に姉妹のような関係なので、お互いに「出会っていなかったらどんな人生だったのだろう」と想像もつかない。
しかしさくらちゃんの一家が、私が住んでいたビルに引っ越してきたのは、ほんの偶然と、お父さんの浩行さんのとっさの決断の結果だった。
昭和40年ごろ赤西夫妻は結婚し、とりあえずは江戸川区にある一般の借家に住んだ。同時に、できれば家賃の安い公団住宅にいつかは移りたいと思い、申し込みの手続きを行った。その頃、公団住宅は今よりも非常に人気が高く、申し込みをしても当選する確率は低かった。赤西夫妻も「だめかもしれないけれど、一応申し込みをしておこう」という程度だった。都内の公団住宅はいくつかあって、どこに入りたいかを希望することはできなかった。
申し込みをしてから1年以上が経過した。浩行さんが申し込みをしたこと自体すっかり忘れていた頃、勤務する会社に一本の電話があった。それは公団住宅公社からだった。
「錦糸町の公団住宅で一部屋空きが出ました。入居されますか?」。浩行さんはいきなり担当者からそう聞かれた。
「錦糸町ですか」。浩行さんの第一志望は練馬区の公団住宅だった。「ちょっと家内と相談してからお返事します」。
すると担当者は「今日この電話でお返事をいただけなければ権利がなくなります」と言うのだった。
「ええっ?」驚いた浩行さんはとっさに「じゃあ、入居します」と返事をしてしまったのだった。
いきなり職場に電話がかかってくること、そしてすぐ返事をしなくては失効してしまうことなど、今では考えられないことばかり。しかしうちの母によると、昔の住宅公団公社はそれが当たり前だったようである。
うちの両親が結婚して錦糸町の公団住宅に住み始めたきっかけは、実は私の父の兄、私の叔父(故人)がその部屋に住んでいて、それを譲り受ける形だった。(身内で譲ることは、本来はあまりいいことではないらしく、内密に行われた)
叔父は定職につかず、何やら怪しい商売をしていて、時には莫大な収入があったようだが、一般の企業とは違って全く収入のない時も多く、結果として家賃をかなり滞納していたらしい。
母は新婚早々、家賃の滞納通知を受け取った。新婚でほとんど貯金もなかったが、真面目な母は驚いてすぐに住宅公団公社に出向き、叔父の家賃を支払った。すると住宅公団公社の人は、高い窓口(その頃、銀行なども窓口は全てお客さんよりもかなり高い位置にあった)から、「二度とこのようなことがないように、気を付けてくださいよ!」と母を怒鳴ったのだった。
母はとっさに「はい、すみません」と神妙にあやまったらしいが、あとで「何であんなふうに怒鳴られなくてはいけないのだろう」と理不尽な気持ちを抑えきれなかった。そのお金は母の母、私の祖母が「何かあった時のために」と言って、持たせてくれたお金だった。祖父は母が15歳の時に他界しているので、母の実家は決して裕福ではなかった。
今から考えると不思議なことばかり。銀行振込ではなく、直接公社まで出向いて支払いをしたり、顧客満足などと言う言葉とは全く無縁だったり。今だったら絶対にツイッターで拡散されて炎上するだろう。40年~50年で日本も大きく変わった。こんなささいな話も、今の人にとっては興味深いのではないかと思い書いた次第である。(つづく)
2018年9月20日木曜日
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