2018年10月30日火曜日

25.錦糸小学校に入学

 

入学式の日。一番前の列の左から4番目が私。

昭和47年の4月、私は墨田区立錦糸小学校に入学した。たしか1学年に3クラスあって、私は3組だった。担任の先生は24歳の長田美代子先生。自己紹介のために先生が黒板に名前を書いた時、「字がとても上手できれいだなあ」と思った。
 長田先生は、ほんわかした雰囲気でクラスの全員に分け隔てなく優しかった。不安がいっぱいの小学校1年生にとって、長田先生以上に理想の先生はいなかったと思う。
 錦糸小学校は、家から歩いていくと、子どもの足でだいたい15分くらいだった。途中に錦糸町駅や楽天地、映画館といった繁華街がある。大人向けのきわどい映画の絵が大きく飾られていたりして、今思えば子どもの通学路には一番適さない場所だったと思う。
 先日、池袋を歩いていた時、突然大人にまぎれてランドセルをしょった女の子が現れた。私立ではなく公立の小学校の雰囲気だった。その時「何故こんなところに小学生が?」と驚いたのだが、きっと私も小学生の時、そう思われていたのだと思う。自分ではまったく当たり前に通学をしていた。ただ今と違って子どもの数も多かったから、今の都会よりは「通学路」という雰囲気はあったのかもしれない。
 楽天地の一角に、ジュースの自動販売機があったのを覚えている。缶ジュースではなく、10円を入れると紙コップにジュースが注がれるタイプだった。機械の上の部分が噴水のようになっていて、いつもジュースが循環して流れていた。販売機にはグレープとオレンジの2台があった。私たち小学生は、ジュースが出てくる注ぎ口の部分に指を入れて、少し残っている液体をなめたりしていた。
 錦糸小学校の校庭はコンクリートでできていた。たしか1年生の夏休みに、工事が行われてコンクリートからアスファルトに変わった。ねずみ色だった校庭が、緑色に変わり、ラインなどもカラフルで楽しい雰囲気になったのを覚えている。
 たしか幼稚園の校庭もねずみ色のコンクリートでできていた。だから学校の校庭というものはコンクリートかアスファルトで出来ているものだとばかり思っていた。もう少し大きくなって、実は日本国内では土で出来ている校庭の方が多いのだと気付いた。
 同じクラスの友達のお父さんは、商売をやっている人が多かった。バー、肉の卸売り、雷おこしの製造販売など。そういう商売をやっている友達の家に遊びに行くのは本当に面白かった。(つづく)


2018年10月28日日曜日

24.ランドセルを買ってもらった時のこと、覚えていますか


ランドセルを買ってもらった頃。家族4人で鬼怒川温泉へ。

 自分のランドセルを買ってもらった時のこと、覚えていますか?
 今はランドセルにも様々な色があったり、テレビCM がずいぶん早い時期から始まったり、父方、それとも母方のどちらのおじいちゃんおばあちゃんが買ってくれるのかが大問題になったり。ずいぶん時代も変わったけれど、子どもの嬉しい気持ち、ワクワク感は今も昔も変わりがないのだと思う。
 私のランドセルは、昭和46年の秋のある日に突然、私の家に現れた。うちの父は紳士靴の会社に勤めていたので(宮内庁御用達というのが父の自慢だった)、知り合いの革の問屋さんから、卸売り価格でランドセルを買うことができた。当時たしか5000円だったと思う。
 箱に入ったランドセルは、ある朝目覚めると私の枕元にあった。前の晩、帰りの遅かった父が持って帰ってきてくれたようだった。
 箱を開けると真っ赤なランドセルが入っていた。新しい革の匂いがした。つやつやして真新しいランドセルを私はすぐに背負ってみた。急に小学生のお姉さんになった気分だった。
 入学まではかなり時間があったけれど、私はうれしくてうれしくて、毎日幼稚園に行く前に、そして幼稚園からかえってくるとすぐに箱から出して赤いランドセルを楽しんでいた。なでてみたり、マグネットの部分をカチッと鳴らして閉めたり、開けたり。背にしょって家を出て10階の廊下を歩いてみたり。とにかく新しいランドセルが嬉しくって嬉しくって仕方がなかった。
 するとある日、それを見かねた母が「あんまり出していじってると、入学する前に汚れちゃうわよ、入学までしまっておこうね」と言って、私の手の届かない、家の中で一番背の高い洋服ダンスの上に載せてしまったのだ。
 私は本当に寂しかった。あの赤いランドセルが私の手の届かないところに行ってしまった。でもいじくっていた私がいけないのだ。しょうがない。私は母に反抗もしなかった。そのかわり、毎日毎日、洋服ダンスの上の、あのランドセルが入っているボール紙の箱を眺めていた。今でもあの洋服ダンスの上に、すこし茶色がかったボール紙の箱が載っかっている光景をまざまざと思い出すことができる。
 母に最近その話をしたら、「そんなに詳しく覚えているの? 今思い返せば、かわいそうなことをしたわ。ただお母さんは入学式の時にきれいなランドセルを持たせたいと思ったのよ。でも今考えればまだ若かったし、それだけじゃなくていろいろと未熟な母親だったと思う。かわいそうにね。自由に触らせてあげればよかったね」と言っていた。
 しかし私も今思えば、ランドセルへの熱い思いは、あの時がピークだったかもしれない。入学式の時はたぶん嬉しかったと思うけれど、実はあまり覚えていない。最初にランドセルが枕元に置いてあった朝の喜び、そして箱に入ったランドセルが手の届かない洋服ダンスの上に載っていて、それを見上げていた時の気持ちはよく覚えているのに。
 想像だが、父は買うときに「今度、娘が小学校に入学するんですよ」などと、知り合いの革問屋さんに嬉しそうに話していたのかもしれない。せっかく父が私のために買ってきてくれたランドセルだったのに。 
 小学校6年生まで毎日使ったランドセル。最後にどう処分したかは全く覚えていない。ごめんなさい、そしてありがとう。

2018年10月25日木曜日

23.川に落としてしまったゴルフクラブ


ビルの屋上で。
左から、弟、私、さくらちゃん、じゅんくん

 前回お話した公園の正式名称は「堅川公園」という。まあたまに犬の落とし物に遭遇するが、当時はそれほど住民たちは気にせず、キャッチボールをしたり、トンボ取りをしたり、楽しんで使っていた。ここはすぐ横に川があったので、トンボも沢山いたようである。私の父はトンボ取りが得意で、ここでよく弟にトンボの取り方などを教えていた。あの時の父はまるで少年のようだった。懐かしい。堅川公園は都会の中の貴重な自然という感じだった。
 堅川公園といえば、うちの隣に住むじゅん君のお父さんのことも思い出す。じゅん君のお父さんは、第3回にも紹介したように、豪快で楽しいことにお金を使うのが大好きな人だった。一時期はボウリングにはまり、高価なマイボールにマイシューズを買って、私たちの住む10階の廊下をレーンに見立て、日夜ボールを転がして練習をしていた。これにはうちの家族も、さくらちゃんの赤西家もビックリだったが、毎日子どもたちがガチャガチャとうるさい昭和時代は、そんな大人がいても笑って見過ごしていたのだった。
 じゅん君のお父さんは、しばらくするとゴルフに凝りだした。また高価なクラブを買い、堅川公園で日夜練習に励んでいたが、ある日のこと、クラブを大きく振った瞬間、握った手をゆるめてしまい、何とクラブを川の中にポチャンと落としてしまったのだ。
 その時、じゅん君とうちの弟も一緒にいて、その光景を眺めていた。すぐにじゅん君のお父さんは家に戻り、お母さんに事情を説明した。そこでかなりお父さんは責められたとは思うが、二人はまた川に戻って来て、クラブが落ちている状況を確認した。
 そしてすぐにじゅん君のお母さんは「ひもをつけた強力磁石で回収」することを思い付いた。早速、強力磁石を金物屋で購入し、ひもにくくりつけ、川に沈めた。じゅん君のお母さんの読みは大成功。無事に高価なゴルフクラブを回収することができたのだった。
 いつも宇崎家は、お父さんが何かしでかして、しっかり者のお母さんがフォローする、という構図だったなあ。そんな感じで、うちの近所はいつも何かしら事件があって、退屈しないところだったなあ(笑)

2018年10月23日火曜日

22.幼稚園の頃の恥ずかしい記憶


錦糸町の家のベランダで

 このブログでは既に沢山の恥ずかしい思い出を書いてきた。書いているうちに、自分のことというよりも、自分の孫(娘より)のことのように思えてきている。錦糸町に住む6歳の孫、トコちゃんという自由で元気な女の子の話を書いている気分になってきている。もう時代も変わり、あまりにも昔のことすぎて、自分と繋がっているように思えないというのが正直なところである。
 ということで今回も恥ずかしい、でも懐かしい思い出を書いていきたいと思う。
 写真は私が弟の匂いを嗅いでいるところである。小さい頃の弟はミルクのような本当にいい匂いがして、私はいつもこのように弟の匂いを嗅いで楽しんでいた。しつこく匂いを嗅ぐので、弟は嫌がってよく泣いていた。私が弟を泣かしている現場の写真も残っている。今は弟もオジサンになってしまったけれど、この頃は本当に可愛かったなぁ。
 他にも恥ずかしい思い出はいっぱいある。住んでいた錦糸町のビルの前に、「サルビア」という喫茶店があって、お店の前の花壇にはサルビアの花が植えてあった。誰かが「サルビアの花を引っこ抜いて吸うと甘いんだよ」と教えてくれた。私たちビルの子どもたちはみんな、その喫茶店のサルビアの、中心に突き出た花弁を引っこ抜いてチュウチュウ吸っていた。今思えばあの頃の東京の空気汚染は今よりもひどかったのではないだろうか。お店の人に見つかったことはなかったけれど、見つかったらこっぴどく怒られたことだろう。
 それから幼稚園の頃の最も恥ずかしい記憶といえば、トイレに間に合わなかった日のことである。それはある冬の日の出来事だった。寒かったので私はお気に入りのピンク色のつなぎを履いて、その上に制服のスモッグを着て出掛けた。
 たぶんお昼頃だったと思う。私は寒くて急にトイレに行きたくなった。それほど急を要していたわけではなかったが、トイレの個室に到着した瞬間に安心してしまったのだ。そこからスモッグとつなぎを脱がなくてはいけなかったのに、幼稚園の子にとって、それは手早くできるものではなかった。結局、間に合わずに漏らしてしまった。
 あの恥ずかしい記憶を、私はしばらく引きずっていた。お気に入りのつなぎはしばらく履けなくなったし、トイレには早めに行く習慣が身についた。今でも「個室に入ったからと言って油断しちゃダメ」と自分に言い聞かせている。これはきっと老後に役立つだろう(笑)。
 最後にもうひとつ。ウ⚪コを漏らしたことはなかったが、こどもの頃、私たちは「ウ⚪コ公園」と呼んでいた公園があった。今は犬の散歩の時、飼い主には厳しく「お持ち帰り」が義務づけられている。しかし多くの大人は覚えていると思うけれど、それはほんの少し前までスタンダードではなかったのだ。そういうわけで、ちょっと人通りが閑散としていたその公園は、そのような「愛称」で呼ばれていた。これも昭和ならではのエピソードのように思う。


 

2018年10月20日土曜日

21.東京都慰霊堂

 
東京都慰霊堂で

大人になってから錦糸町界隈を歩くと、道が本当に碁盤の目のようにきれいに並んでいると感じる。子どもの頃はそれが当たり前だと思っていたけれど、それは悲しい出来事の痕跡、関東大震災と昭和の戦争で焼け野原になってしまったことの痕跡なのだ。
 幼稚園くらいの時、横網にある「東京都慰霊堂」に行った。お堂の中に何枚もの関東大震災の絵がかけてあった。激しい炎の中で逃げ惑う人々。子どもにとって忘れられない恐ろしい光景だった。
 ここは現在「東京都慰霊堂」という名前になっているが、サイトで確認すると戦争の犠牲者もまつるため、昭和20年代にその名称になったらしい。その前は「震災記念堂」という名称だった。
 考えてみると、私が生まれた昭和40年は、関東大震災からたったの40年、戦争が終わってたったの20年だったのだ。バブルがはじけてもう20年以上が経つことを考えると、20年は短い。私が生まれたのは戦後すぐだったと言ってもおかしくはない。
 私が小さい頃、駅前にはまだ傷痍軍人さんが軍服姿でラッパを吹きながらもの乞いをしていた。片手を包帯でつっていたりして、ラッパの響きがもの悲しかった。しかし大人たちの中には「あれは本当の軍人さんじゃない、演技なんだよ」と言う人もいた。
 最近同い年の福岡出身の方と話していたら、傷痍軍人さんは福岡にもいたそうである。全国にいたのだろうか。いずれにしても昭和の都会の光景だろう。遠い昔の出来事になってしまった。

2018年10月17日水曜日

20.おはようこどもショーに出演


 ちょうど私が緑幼稚園に入学した46年の4月に、テレビ番組の仮面ライダーが始まっている。あの頃仮面ライダー役をやっていたのは藤岡弘(、は付かない時代)だった。
 たぶん全国の男の子も同じだったと思うけれど、うちの弟も夢中になって毎週見ていた。そしてカメラを向けると必ずこの仮面ライダーの変身ポーズ。まさに馬鹿の一つ覚えである。
 何故男の子は仮面ライダーにはまるのか、女の子には全く理解ができない。
 私が好きだったのは、やはり「魔法使いサリー」「ひみつのアッコちゃん」など。生まれて初めて買ってもらったレコードは「アタックNo.1」「あかねちゃん」「ムーミン」の主題歌が入っているものだった。
 うちは実を言うと、札幌オリンピックの年、1972年にやっとカラーテレビを買っているので、たぶん多くのアニメは白黒で見ていたのではないかと思う。それでも全く不自由も不満もなかったし、楽しく毎日マンガを楽しんでいた記憶がある。
 東京12チャンネルで夕方6時45分ぐらいから毎日やっていたマンガもよく見ていた。「ポパイ」「ウッドペッカー」「チキチキマシン猛レース」など。あの番組は、やはり関東のみでやっていたのだろうか。
 それからマンガではないけれど「ピンポンパン」「おはようこどもショー」も懐かしい。特に「おはようこどもショー」の体操のコーナーは、視聴者が参加できるようになっていて、うちと宇崎家、赤西家も一緒にスタジオに遊びに行き、テレビ出演も果たしたという思い出もある。
 あの時私は小学校に上がっていて、心の中で(こどもの番組に出演するなんて恥ずかしい)などと思い、スタジオには行ったけれど、カメラには写らず、母たちと一緒に撮影を見ていた記憶がある。母に「何で出ないの?」と聞かれて、自分の気持ちを説明するのも恥ずかしく、とてももどかしかった。 
 後日放映もされて、弟たちはちゃんとテレビ出演を果たしたのだった。都会の子どもならではの体験だったと思う。
 あの頃の体操のお兄さんは峰竜太、お姉さんは海老名みどりだった。二人の騒動がワイドショーで流れる度に、私はあの日本テレビのスタジオに行った時の気持ちを思い出すのである。


2018年10月13日土曜日

19.亀戸天神のくず餅、舟和の芋ようかん、そして…


 写真は亀戸天神の藤の花である。平成30年の今はもっときれいに咲き誇っているが、昭和40年代はこんな感じだった。
 亀戸天神のお土産の定番は船橋屋のくず餅。あのプルプルした冷たいくず餅に、きなこと黒蜜をかけるシンプルな和菓子は思い出深い。
 それから舟和の芋ようかんも懐かしい。こちらは浅草が本店だが、錦糸町界隈にはいくつか店舗があり、私にとってはこどもの頃の思い出の味の一つである。
 家から歩いて錦糸町の駅の手前、江東デパートと通りを挟んだ正面には、人形焼きのお店もあった。お店の中には人形焼きを作っている機械もあった。包み紙には本所七不思議の「おいてけ掘」の言い伝え、タヌキのような絵が描いてあったのを覚えている。
 今は洋菓子も含め、もっと美味しいお菓子が沢山あるけれど、あの頃はまだ市販のチョコレートやスナック菓子の種類も限られていて、どれも小さな子どもにとっては特別なものだった。
 幼稚園の頃のお菓子のエピソードがある。私はものもらいの一種、霰粒腫(さんりゅうしゅ)が目にできてしまい、眼科で手術を受けることになった。
 手術は小さな病院で30分程度で終わる軽いものだった。しかし目の中を切る手術だったので小さな子どもには大変な経験だった。怖かったし痛かったけれど、どうにか耐え、無事手術を終えた。
 その時、心配していた母は、私が全く泣かずに耐えたので、約束をしていたわけでもないが何かおもちゃでもごほうびに買ってあげたいと思ったらしい。
「偉かったね、何か欲しいもの、ある? 何でもいいよ」。
 母はお人形やゲームなどのおもちゃをねだられることを想像していたらしいのだが、私は何と「かっぱえびせん」と答えたらしい。
 その頃は確かにかっぱえびせんが大好きだった。カルビーでもまだサッポロポテトやバーベキュー味も発売されていない頃だった。あの頃の私にとって、かっぱえびせんが一番美味しいスナック菓子だったのである。
「かっぱえびせんでいいの? いいよ、買ってあげるよ」
 母は私のことがいじらしくなってぎゅっと抱きしめたそうである。
 それにしてもかっぱえびせんだなんて。本当にいじらしいというか、いじましいというか。昭和のかわいらしい子どもだったなぁと我ながらに思う。

2018年10月12日金曜日

18.緑幼稚園の初恋の人、隊長

 墨田区立緑幼稚園に通っていた時、好きだった男の子がいた。私はその子のことを「隊長」と呼んでいた。たぶん私しかそう呼んでいる子はいなかったと思う。なぜ隊長だったのかはわからない。たぶん隊員は私一人。とにかくいつも隊長に付きまとっていた。
 隊長はシュッとしたイケメンだったように思う。そして背が高かったように記憶している。私はその頃、テレビマンガの真似だったのか、口をチューの形に尖らせて、両手を前につき出して「隊長~‼」と追いかけっこをするのが好きだった。隊長も走って逃げるのである。
 今思えば、隊長は私のことを迷惑に思っていただろうか。隊長がどんな性格だったのか、一緒にどんな話をしたのかは全く覚えていない。それから名前も全く覚えていない。
 私が上がった錦糸小学校に隊長はいなかった。別の学区に住んでいたのだろう。でも寂しいとか悲しいという気持ちはなかった。それが恋と言えるのだろうか。しかし隊長のことが大好きだったし、一緒にいたいと思う気持ちは確かにあった。
 隊長の写真を実家で探してみたのだが、見つからなかった。私の記憶にある隊長の写真で、一番好きだったのは、遠足の時の写真である。お弁当を食べている隊長のすぐ横に、私はシートを敷いてお弁当を慎ましく食べていた。二人の他には誰も写っていない。四六時中付きまとっていた証拠写真であった。もし後日あの笑える写真が見つかったらアップしたいと思う。
 隊長は写っていないが、その頃の私の雰囲気がわかる写真を下に載せたいと思う。これはいとこの家に遊びに行った時で、赤いワンピースに白いボレロを着ているのが私だが、小さいくせにいっちょまえに気取って体の位置を大人のように傾けている。そしてアゴを引いてかわいっぽい笑顔を作っている。本当に笑ってしまうほどのオマセな女の子だったのだと思う。


 


2018年10月10日水曜日

17.駄菓子屋「こおりさん」と、おでんの屋台

 

 大きな錦糸公園にはたまに行くこともあったが、それよりも、私がいつも遊んでいたのは家の前にある錦糸堀公園だった。
 写真は錦糸堀公園で遊んでいるじゅん君とさくらちゃん。やんちゃで昭和な感じのじゅん君が懐かしい。
 写真の奥に、公園の外の景色、お店の看板などが小さく写っているのがわかるだろうか。「ホテル夕月」の2つ左の建物に「⚪⚪菓子店」とあり、Fantaの看板らしき形が写っている(昭和の人なら、あの青緑色を思い出せるだろう)。
 このお菓子屋さんこそが、私たち錦糸町の子どもの心のふるさと、駄菓子屋の「郡菓子店」である。
 子どもの頃、私たちはいつもこのお店のことを「こおりさん」と呼んでいた。「こおりさんに行くから10円ちょうだい」という感じである。くじ付きのイチゴ飴、きなこ餅、ふ菓子、ベビースターラーメン、ホームランバーやチューチューアイスなど。この頃は、どのお菓子も1つ10円で買うことができた。
 こおりさんに行くのは本当に楽しみだった。だがこの店の店主のおばあちゃんが礼儀に厳しく、いつも子どもたちを叱っていた。私たちは「こおりのババア」と陰で呼んで恐れていた。
 こおりさんの他に、私たちがよく「買い食い」をしていたのが屋台のおでんやである。夕方になると、どこからかおでんの屋台を引いたおじさんが「チリン、チリン、チリン、チリン」と鐘を鳴らしながら現れる。おじさんが錦糸堀公園の横の入り口に屋台を停めると、子どもたちがわっと群がる。
 私や弟が一番好きだったのは「ちくわぶ」である。おじさんは竹串に差して「はい、まいどあり、お代は10円だよ」と渡してくれる。濃いめの汁がよく染み込んだちくわぶは何とも言えない美味しさだった。
 大人になってから気づいたが、子どもの買い食い業界で、おでんの屋台が駄菓子屋と競合している街というのは非常に珍しかったようである。錦糸町ならではの思い出なのかもしれない。
 それに「ちくわぶ」も全国共通のおでんだねではないらしい。「ちくわぶ? ちくわみたいな味?」と聞かれて詳細に説明するのだが「何の味もしない粉の固まりが一番好物なの?」とイマイチわかってもらえない。
 大人になってから家でちくわぶのおでんを作ってみても、あの屋台のおじさんの味はなかなか出ない。東京のどこかのお店で、あの懐かしいちくわぶを食べることはできるだろうか。


2018年10月7日日曜日

16.父とのささいな日曜日の思い出

 

 錦糸公園は錦糸町の駅から歩いて3分くらいのところにある総合公園である。体育館や野球場もあったと思う。
 幼稚園生の頃、ある日曜日に父と手をつないで錦糸公園を散歩していた記憶がある。何かのイベントがあったのだろうか、詳細は全く覚えていないのだが、公園の出入口付近の砂利道を歩きながら、とにかく父の手のつなぎ方が痛くて嫌だったのである。ただ手をつなぐだけでなく、私の手をぎゅうぎゅう揉むというか、触るというか。
「お父さんの手、痛い! つなぎたくない!」
 私は父から手を離すけれど、錦糸公園は大勢の人でごった返していたから、やはりつないでいなければいけない。
「ごめん、ごめん」父は謝って、しばらくは普通に手をつなぐけれど、またすぐにぎゅうぎゅう揉むつなぎ方になってしまう。一体あれは何だったのだろう。錦糸公園の日以外でも、父の手のつなぎ方はいつも同じようだった。
 他界する前、父が病気で寝ている時、小さく力のなくなった父の手を握りながら、昔の父の手を思い出していた。なぜあんなつなぎ方をしたのか聞こうかと少し思ったのだが、涙が出そうで聞けなかった。でも父も昔のことで覚えていなかったかもしれない。
 これを読んでいる人で同じような思い出がある人はいないだろうか。もしくは自分がお父さんの立場で、うちの父の気持ちがわかる人がいれば教えて欲しい。もしかしたら娘の小さな手がかわいくて、ぎゅっと触りたかったのだろうか。
 休みの日の父は、家では大体囲碁をやっていることが多かった。日曜日の昼下がり、うちのテレビではいつもNHK の囲碁番組がついていた。
 父の弟、私たちからすると叔父さんも囲碁が好きで、一時は碁会所を経営していたこともあった。兄弟で小さい頃、おじいちゃんか誰かに教わったのだろう。そんな話も聞いておけばよかった。
 私も弟も父から囲碁を教わることはなかった。教わってみたら囲碁にはまっていただろうか。いや、そんなこともなかった気もするが、今となっては一度も教わろうとしなかったことを少し後悔している。

2018年10月4日木曜日

15.チンチン電車で通った幼稚園

卒園式の私。
クリーム色のスモッグが制服。

 墨田区立緑幼稚園に入園したのは私が5歳の時。1年保育の幼稚園だった。幼稚園には都電に乗って通っていた。錦糸町地域の都電は1年後に廃止になってしまったので、私が通園に都電を使うことができたのは、最後の貴重な経験だった。
 都電はとても懐かしい。「チンチン」という音、床は板張り。運転手さんが動かすハンドルは一本のレバーみたいになっていて、それを右や左にグルグル回していた。いつも一緒に付いてきた弟と、運転手さんや車掌さんを観察していた記憶がある。
 弟は家でも都電ごっこをしていた。台所のおたまをレバーに見立て、運転手さんになりきる。時には車掌さんまで一人二役で「次は錦糸町、錦糸町」などと言いながら遊んでいた。
 入園してすぐに仲良くなったのは二三江ちゃんという女の子だった。二三江ちゃんのお父さんは国鉄に勤めていて、錦糸町の駅の近くの社宅に住んでいた。遊びに行ったこともある。三歳上のお姉さんがいて、二三江ちゃんも何となく私よりもお姉さんっぽくしっかりしていた印象がある。
 緑幼稚園は両国の近くにあった。年末には若いお相撲さんが5人くらいやって来て、臼と杵でお餅つきをやってくれた。これは緑幼稚園ならではのイベントだったのではないだろうか。
 クリスマスのイベントもあった。上の写真で私に卒園証書を渡している校長先生がサンタクロースになって子どもたちにプレゼントを渡してくれた。
 幼稚園のすぐ横には区立の緑図書館もあった。私はその図書館に通うのが一番の楽しみだった。本を読むことが好き、文章を書くことも好き、読まずにいられない、書かずにいられない私の萌芽がすでに幼稚園時代にあったと思っている。
 一年保育だったけれど、たくさんの出来事があって、いくつかは忘れず記憶にとどめている。初恋「のようなもの」もあった。それからお気に入りのピンクのつなぎを履いて行った日に、トイレですぐ脱げなくてお漏らしをしてしまった記憶もある。また回を改めて書いて行こうと思っている。(つづく)

2018年10月2日火曜日

14.内職、入院、手術

 
自由が丘の百合子おばちゃん、
やっちゃん、ひでくん。
おばちゃんは秋田美人でとても優しい人。

 母は少しでも家計の足しにと思って始めた内職だったが、あまり割りのいい仕事ではなかった。頑張っても月の収入は1000円程度。今の1万円くらいだろうか。
 いつもオンワードの人が錦糸町の家に内職の材料を持ってきてくれて、出来上がると取りに来てくれるシステムだった。それが月に4~5回ほどだった。
 それだけ書くと楽な仕事のように思えるが、問題は納期だった。毎回担当の人が持ってくるのは突然で、夜の遅い時間だった。そして翌朝には取りに来るのである。母は大量の内職を徹夜で仕上げなければいけなかった。
 二人の小さな子どもを育てることだけでも大変なのに、真面目な母は請け負ったら辞めることができず、半年ほど無理をしながら続けていた。
 そのうちにしょっちゅう風邪をひくようになり、咳がずっと治らなくなった。近くの墨東病院で診てもらった結果、ひどい肺の病で手術をしなければならなくなった。入院は1カ月弱。弟が1歳、私が4歳の時だった。
 父は毎日仕事なので、母が入院の間、子ども二人の面倒はみられない。そこで私たち子どもは別々に親戚の家に預かってもらうことになった。 
 私は父方のおばあちゃんに。おばあちゃんは自由が丘に長男の叔父さん家族と一緒に住んでいた(家賃を滞納していた叔父とは別人。うちの父は三男で二人の兄がいた)。
 弟は母の6歳上の姉の一家に預かってもらった。私たちからすると叔母さんにあたるその人は、結婚して二子玉川に住んでいて、ちょうど私たちより10歳ずつ上の、14歳のお姉ちゃん、11歳のお兄ちゃんがいた。(このお姉ちゃんがチッチとサリーのマンガ『小さな恋のものがたり』を持っていて、小学生の頃、遊びに行った時にはよく読ませてもらったのだった。)
 私は母と離れて1カ月近く、自由が丘に住んでいたわけだが、淋しかったという記憶はない。むしろいとこのやっちゃんもひでくんも、おばちゃんもおばあちゃんも、みんな私のことを大切にしてくれて、毎日が親戚の集まるお正月みたいに、楽しい日々だったように思う。
 母が退院し、錦糸町の家で一緒にお風呂に入った時、母の背中には大きな手術の痕があった。色白の母だから、傷痕はとても痛々しいもので、それは私がかなり大きくなるまで消えなかった。
 しかし、4歳の私は「お母さんの背中、線路みたい」などと無邪気に言っていたらしい。ひどい娘だなぁ。でも母は、子どもたちがホームシックにもならず、元気で乗り切ってくれたからホッとしたそうである。(つづく)


2018年10月1日月曜日

13.手作りの服、母のこだわり

  
 写真は弟とさくらちゃん。夏祭りの時の山車を引いているところ。弟のシャツ、そしてさくらちゃんのワンピースはうちの母の手作りである。写真が古くて不鮮明だが、ワンピースは薄茶色の地に白いちょうちょの柄だったと記憶している。弟のシャツは白地にブルーの水玉。カルピスの包装紙に似ていたように思う。
 私の着ていた服は母の手作りが多かった。そして私が大きくなって着られなくなると、さくらちゃんに「おさがり」として大事に着てもらっていた。
 うちの母は編み物も得意で、セーターの他、ジャケットとスカートを編んでスーツとして着ていたりもした。「婦人倶楽部」の付録に、よくワンピースや編み物の型紙が付いていて、母はそれをもとに洋服を作っていた。
 あの頃は、そのようなお母さんも多かったのではないだろうか。さくらちゃんの右に写っているのは宇崎じゅんくんのお母さんである。よく見ると着ているワンピースの柄がお手製のようである。
 私は小さい頃、標準の子どもよりも小さめだったので、母は必ず私の年齢の型紙よりも2センチ小さいサイズで作るのがこだわりだった。大きく作れば長く着られて経済的だと思うが、それは母の美学に反することだった。
 私が大人になってから体に合わない既製服を着ていると「そんなブカブカなのはダメよ。小さい頃、お母さんは必ずぴったりのサイズで作ってあげたんだから」と何度か誇らしげに昔話を聞かされた。
 私は小さい頃、母のお手製の服をそれほど有り難いとは思わなかった。何となくお店で買った服やマンガのキャラクターが書いてあるTシャツを着ている子の方が羨ましかった。けれど今思えば本当に有り難い、幸せなことだったのだと思う。
 母は裁縫の腕を生かし、私たち子どもが小さい頃、家でオンワードなど既製服の会社から内職の仕事を請け負っていた。それが後にある困ったことにつながるのだが、それはまた明日以降に書きたいと思う。(つづく)

36.【最終回】小学校を卒業、そして・・・

 日光修学旅行が終わった頃、卒業制作の話が高梨先生からあった。 「何か6年1組として記念になるものを作って、小学校の中に残しましょう」  花壇を作るとか、遊び道具を作るとか、いくつか案があったと思うが、話し合いの結果、「トーテムポール」を作ることになった。1組と...