2018年10月10日水曜日
17.駄菓子屋「こおりさん」と、おでんの屋台
大きな錦糸公園にはたまに行くこともあったが、それよりも、私がいつも遊んでいたのは家の前にある錦糸堀公園だった。
写真は錦糸堀公園で遊んでいるじゅん君とさくらちゃん。やんちゃで昭和な感じのじゅん君が懐かしい。
写真の奥に、公園の外の景色、お店の看板などが小さく写っているのがわかるだろうか。「ホテル夕月」の2つ左の建物に「⚪⚪菓子店」とあり、Fantaの看板らしき形が写っている(昭和の人なら、あの青緑色を思い出せるだろう)。
このお菓子屋さんこそが、私たち錦糸町の子どもの心のふるさと、駄菓子屋の「郡菓子店」である。
子どもの頃、私たちはいつもこのお店のことを「こおりさん」と呼んでいた。「こおりさんに行くから10円ちょうだい」という感じである。くじ付きのイチゴ飴、きなこ餅、ふ菓子、ベビースターラーメン、ホームランバーやチューチューアイスなど。この頃は、どのお菓子も1つ10円で買うことができた。
こおりさんに行くのは本当に楽しみだった。だがこの店の店主のおばあちゃんが礼儀に厳しく、いつも子どもたちを叱っていた。私たちは「こおりのババア」と陰で呼んで恐れていた。
こおりさんの他に、私たちがよく「買い食い」をしていたのが屋台のおでんやである。夕方になると、どこからかおでんの屋台を引いたおじさんが「チリン、チリン、チリン、チリン」と鐘を鳴らしながら現れる。おじさんが錦糸堀公園の横の入り口に屋台を停めると、子どもたちがわっと群がる。
私や弟が一番好きだったのは「ちくわぶ」である。おじさんは竹串に差して「はい、まいどあり、お代は10円だよ」と渡してくれる。濃いめの汁がよく染み込んだちくわぶは何とも言えない美味しさだった。
大人になってから気づいたが、子どもの買い食い業界で、おでんの屋台が駄菓子屋と競合している街というのは非常に珍しかったようである。錦糸町ならではの思い出なのかもしれない。
それに「ちくわぶ」も全国共通のおでんだねではないらしい。「ちくわぶ? ちくわみたいな味?」と聞かれて詳細に説明するのだが「何の味もしない粉の固まりが一番好物なの?」とイマイチわかってもらえない。
大人になってから家でちくわぶのおでんを作ってみても、あの屋台のおじさんの味はなかなか出ない。東京のどこかのお店で、あの懐かしいちくわぶを食べることはできるだろうか。
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