自由が丘の百合子おばちゃん、
やっちゃん、ひでくん。
おばちゃんは秋田美人でとても優しい人。
母は少しでも家計の足しにと思って始めた内職だったが、あまり割りのいい仕事ではなかった。頑張っても月の収入は1000円程度。今の1万円くらいだろうか。
いつもオンワードの人が錦糸町の家に内職の材料を持ってきてくれて、出来上がると取りに来てくれるシステムだった。それが月に4~5回ほどだった。
それだけ書くと楽な仕事のように思えるが、問題は納期だった。毎回担当の人が持ってくるのは突然で、夜の遅い時間だった。そして翌朝には取りに来るのである。母は大量の内職を徹夜で仕上げなければいけなかった。
二人の小さな子どもを育てることだけでも大変なのに、真面目な母は請け負ったら辞めることができず、半年ほど無理をしながら続けていた。
そのうちにしょっちゅう風邪をひくようになり、咳がずっと治らなくなった。近くの墨東病院で診てもらった結果、ひどい肺の病で手術をしなければならなくなった。入院は1カ月弱。弟が1歳、私が4歳の時だった。
父は毎日仕事なので、母が入院の間、子ども二人の面倒はみられない。そこで私たち子どもは別々に親戚の家に預かってもらうことになった。
私は父方のおばあちゃんに。おばあちゃんは自由が丘に長男の叔父さん家族と一緒に住んでいた(家賃を滞納していた叔父とは別人。うちの父は三男で二人の兄がいた)。
弟は母の6歳上の姉の一家に預かってもらった。私たちからすると叔母さんにあたるその人は、結婚して二子玉川に住んでいて、ちょうど私たちより10歳ずつ上の、14歳のお姉ちゃん、11歳のお兄ちゃんがいた。(このお姉ちゃんがチッチとサリーのマンガ『小さな恋のものがたり』を持っていて、小学生の頃、遊びに行った時にはよく読ませてもらったのだった。)
私は母と離れて1カ月近く、自由が丘に住んでいたわけだが、淋しかったという記憶はない。むしろいとこのやっちゃんもひでくんも、おばちゃんもおばあちゃんも、みんな私のことを大切にしてくれて、毎日が親戚の集まるお正月みたいに、楽しい日々だったように思う。
母が退院し、錦糸町の家で一緒にお風呂に入った時、母の背中には大きな手術の痕があった。色白の母だから、傷痕はとても痛々しいもので、それは私がかなり大きくなるまで消えなかった。
しかし、4歳の私は「お母さんの背中、線路みたい」などと無邪気に言っていたらしい。ひどい娘だなぁ。でも母は、子どもたちがホームシックにもならず、元気で乗り切ってくれたからホッとしたそうである。(つづく)
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