2018年10月20日土曜日

21.東京都慰霊堂

 
東京都慰霊堂で

大人になってから錦糸町界隈を歩くと、道が本当に碁盤の目のようにきれいに並んでいると感じる。子どもの頃はそれが当たり前だと思っていたけれど、それは悲しい出来事の痕跡、関東大震災と昭和の戦争で焼け野原になってしまったことの痕跡なのだ。
 幼稚園くらいの時、横網にある「東京都慰霊堂」に行った。お堂の中に何枚もの関東大震災の絵がかけてあった。激しい炎の中で逃げ惑う人々。子どもにとって忘れられない恐ろしい光景だった。
 ここは現在「東京都慰霊堂」という名前になっているが、サイトで確認すると戦争の犠牲者もまつるため、昭和20年代にその名称になったらしい。その前は「震災記念堂」という名称だった。
 考えてみると、私が生まれた昭和40年は、関東大震災からたったの40年、戦争が終わってたったの20年だったのだ。バブルがはじけてもう20年以上が経つことを考えると、20年は短い。私が生まれたのは戦後すぐだったと言ってもおかしくはない。
 私が小さい頃、駅前にはまだ傷痍軍人さんが軍服姿でラッパを吹きながらもの乞いをしていた。片手を包帯でつっていたりして、ラッパの響きがもの悲しかった。しかし大人たちの中には「あれは本当の軍人さんじゃない、演技なんだよ」と言う人もいた。
 最近同い年の福岡出身の方と話していたら、傷痍軍人さんは福岡にもいたそうである。全国にいたのだろうか。いずれにしても昭和の都会の光景だろう。遠い昔の出来事になってしまった。

2 件のコメント:

  1. 傷痍軍人さん,私も小学生の時に見たことがあります.新宿のアルタ前(当時は二幸)です.軍服姿の傷痍軍人さんが敷物の上で両ひざを立て,中腰でハーモニカを吹いていました.両手が肘までしかなく,首から針金のような器具でハーモニカを吊るしていました.私は一緒にいた父に握らされた百円玉を,傷痍軍人さんの前の缶に入れたのを覚えています.父はシベリア抑留帰りです.当時の父の心中を思うと複雑な気持ちになります.

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  2. お父さん、そうでしたか。心中様々な思いがあったでしょうね。傷病軍人さんはやはりあの頃は多かったのですね。子ども心に感じた戦争の恐ろしさを語り継いでいくべきなのかなと最近感じるようになっています。

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