2018年10月17日水曜日

20.おはようこどもショーに出演


 ちょうど私が緑幼稚園に入学した46年の4月に、テレビ番組の仮面ライダーが始まっている。あの頃仮面ライダー役をやっていたのは藤岡弘(、は付かない時代)だった。
 たぶん全国の男の子も同じだったと思うけれど、うちの弟も夢中になって毎週見ていた。そしてカメラを向けると必ずこの仮面ライダーの変身ポーズ。まさに馬鹿の一つ覚えである。
 何故男の子は仮面ライダーにはまるのか、女の子には全く理解ができない。
 私が好きだったのは、やはり「魔法使いサリー」「ひみつのアッコちゃん」など。生まれて初めて買ってもらったレコードは「アタックNo.1」「あかねちゃん」「ムーミン」の主題歌が入っているものだった。
 うちは実を言うと、札幌オリンピックの年、1972年にやっとカラーテレビを買っているので、たぶん多くのアニメは白黒で見ていたのではないかと思う。それでも全く不自由も不満もなかったし、楽しく毎日マンガを楽しんでいた記憶がある。
 東京12チャンネルで夕方6時45分ぐらいから毎日やっていたマンガもよく見ていた。「ポパイ」「ウッドペッカー」「チキチキマシン猛レース」など。あの番組は、やはり関東のみでやっていたのだろうか。
 それからマンガではないけれど「ピンポンパン」「おはようこどもショー」も懐かしい。特に「おはようこどもショー」の体操のコーナーは、視聴者が参加できるようになっていて、うちと宇崎家、赤西家も一緒にスタジオに遊びに行き、テレビ出演も果たしたという思い出もある。
 あの時私は小学校に上がっていて、心の中で(こどもの番組に出演するなんて恥ずかしい)などと思い、スタジオには行ったけれど、カメラには写らず、母たちと一緒に撮影を見ていた記憶がある。母に「何で出ないの?」と聞かれて、自分の気持ちを説明するのも恥ずかしく、とてももどかしかった。 
 後日放映もされて、弟たちはちゃんとテレビ出演を果たしたのだった。都会の子どもならではの体験だったと思う。
 あの頃の体操のお兄さんは峰竜太、お姉さんは海老名みどりだった。二人の騒動がワイドショーで流れる度に、私はあの日本テレビのスタジオに行った時の気持ちを思い出すのである。


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