2018年12月23日日曜日

46.17年後、じゅんくんとの不思議な出来事


平成4年(1992年)10月2日、家族4人で両国へお相撲を見に行きました。

 昭和50年3月に、私たち一家は錦糸町から横須賀へ引っ越し、その後も錦糸町の宇崎家、赤西家とは交流を続けた。互いの家に遊びに行ったり、母親同士は電話で連絡を取りあったり。
 そのうちに宇崎家は都内の別な場所に引っ越し、赤西家は名古屋に移り住んだ。私たちはみな、錦糸町を離れていた。
 昭和の終わりから平成にかけて、子どもたちはそれぞれ就職をする時期になっていた。弟は就職して2年目の秋に、会社の関係で大相撲のマス席のチケットをもらってきた。私たち家族はめったにないチャンスに喜び、平日だったけれど、父も休暇を取って、4人そろって両国国技館で大相撲を楽しんだ。忘れもしない、平成4年10月2日のことだった。
 帰る際、急に「錦糸町のあのビル、今はどうなっているだろうね、見に行ってみようか」という話になった。両国から錦糸町へは一駅。4人で総武線に乗って、小さい頃に住んでいたあの建物に向かった。
 母と私と弟の3人は、引っ越してからも何度か小学生の頃に遊びに来ていたが、父も含めた4人で来たのは引っ越し以来初めてのことだった。
 しばらくぶりの建物は少し古びていたけれど、あの頃とあまり変わりがなかった。エレベーターで10階に上がり、私たちが住んでいた部屋の前まで行った。
「ここでいつもじゅんくんやさくらちゃん、ひとみちゃんたちと遊んでいたんだよね」
 何となく昔のイメージよりも小さく感じた。単に自分が大きくなったからだと思う。もう知っている人も住んでいないので、ビルへの訪問はほんの数分で、私たちは帰ってきた。
 その後、年が明けて、赤西家のおばさんからうちに電話がかかってきて、じゅんくんが秋に亡くなったとの知らせを受けた。難病のクローン病だった。子どもたちが大きくなってからは、それほど頻繁に連絡を取っていなかったので、じゅんくんが病気と闘っていたということは知らなかった。
 赤西家のおばさんとさくらちゃん、うちの母と私の4人は、早速宇崎家に弔問した。宇崎のおばさんは気丈に元気だった。じゅんくんの妹、ひとみちゃんは小さい頃、気が強くて、奈良美智が描く子供のように、いつもちょっと不機嫌そうな表情がトレードマークだった。それが20歳になって、とてもニコニコしているお嬢さんに変わっていた。悲しくしている様子を私たちに見せないようにしているのかと思うと、よけい悲しくなってしまった。
 あの時、私はまだ27歳。今思うと宇崎のおばさんに気の利いた言葉を何も伝えられなかったことを悔やんでいる。今の私だったらもう少しいろいろと話すことができたのに。
 じゅんくんのお仏壇と写真を見ても、もうこの世にじゅんくんがいないということは全く信じられなかった。今仕事に行っていて、そのうち帰ってくるんじゃないかという気がした。
 位牌に刻まれた日付を見ると「10月2日」となっていた。その日は、私たち家族が大相撲観戦の後、錦糸町のあのビルを訪問した日だった。私たちはその偶然に驚いた。「じゅんくんが呼んだのかしら」。誰かがそんなことを言った。そんな偶然ってあるのだろうか。
 あの時じゅんくんは、あの家の前にいて、私たちのことを見ていたのかもしれない。天国に行く前に、私たちに会いたいと思ってくれていたとしたら嬉しい。きっとそうだよね、だって私とじゅんくん、この世に生を受けて、お互いに一番最初に友達になった間柄だもの。
 じゅんくんは昭和41年の11月生まれだったから、26歳のお誕生日が来る少し前、25歳であの世に行ってしまった。でもじゅんくんがこの世にいたこと、そしていつも一緒に遊んだことは決して忘れないからね。
2,3歳頃のじゅんくんと私。

奈良美智の描く子どもっぽかったひとみちゃん(右)。
気が強い感じがかわいかったなぁ。
左はさくらちゃん。

2018年12月20日木曜日

45.引越しの日【最終回】


 母方のきょうだい、おじさんおばさんたちがみんな引越しの手伝いに来てくれました。
写真は引越しの数年前、私が5歳くらいのとき。
乳母車の左端に乗っているのが弟、乳母車の右横が私。その後ろが母。

 昭和50年の3月、とうとう引越しの日がやってきた。父と母と私と弟。4人はこの日、錦糸町のアパートから横須賀のマンションへ引っ越した。
 今なら引越しは業者に頼むのが普通だと思うが、この時は業者に頼むことはしなかった。父の会社からトラックを二台借り、運搬は母方のおじさん、おばさんたち、そして宇崎家のおじさんおばさん、赤西家のおじさんおばさんが全部手伝ってくれた。
 母は6人きょうだい。兄が3人、姉が1人、弟が1人いる。それぞれの連れ合いも当日は来てくれた。上の写真を見ても分かる通り、この頃の男性らしく皆頑丈そうである。きっと頼りになるきょうだいが沢山手伝いに来てくれて母も心強かったと思う。

 ここで少し話は戻るが、横須賀のマンションを購入するまでの経緯を記述しておきたいと思う。
 母が新聞広告でマンションを見つけた時、横須賀はあまりなじみがない場所だったと以前書いたが、実は一度、横須賀の津久井浜にある弟(私たちから見ると叔父さん)の会社の保養所に行ったことがあって、「横須賀はとてものどかで綺麗ないい所」だというイメージを持っていた。もしもその保養所に行っていなかったら、新聞広告を見ても引っ越そうと思わなかったかもしれない。
 広告を見つけてからは、横浜にある天理ビルで開催された「説明会」に行って、申込みなど一連の手続きを終えた。横須賀の現地には引っ越すまで一度も行かなかったらしい。しかし大手の不動産の販売だったことと、マンションの部屋のパンフレットが最新式のインテリアでとてもきれいだったことから、特に躊躇もせず申込みを行ったらしい。
 申込みをした家は、20倍の人気だった。後日抽選結果が郵送で知らされることになっていたが、父と母は「20倍だからダメかもしれないね」と話をしていた。
 その少し前、母の母、私の祖母ががんの手術をしていて、母は用賀の近くにある病院まで一日おきでお見舞い、付き添いを行っていた。
 忙しい生活の中で、マンションの抽選のことはすっかり忘れていたところ、ある日不動産会社から郵便が届き、開けてみると「当選」と書かれていたのだった。父と母は思わず抱き合って喜んだそうである。
 私がその後小学校4年生から25歳まで横須賀に住んで、たくさんの友人たちと知り合うことができた。様々な偶然が重ならなかったら、今も仲良くしている横須賀の小学校、中学校、逗子の高校の友人たちと知り合うこともなかっただろう。感慨深いものがある。運命って面白いなと思う。

 引越しの日、錦糸町の部屋の少ない荷物をトラックに全て積み込んだのは、お昼少し前のことだった。1台目のトラックの席に父と弟が乗り込み、2台目のトラックの席に母と私が乗り込んだ。
 そしてご近所さんたちとお別れの時が来た。母は
「お世話になりました、ありがとうございました」
と、宇崎のおばさん、赤西のおばさんにトラックの席から手を振ってお礼を言った。母は少し涙ぐんでいた。じゅんくん、さくらちゃん、ひとみちゃんもビルの前で一緒にお見送りをしてくれた。
「バイバーイ!」
 子供同士も、元気に手を振った。
 運転手さんがトラックを発車させ、私が9年半住んだ錦糸町の10階建てのビルはどんどん小さくなっていった。(終わり)

 錦糸町の話は一旦終わりますが、あと1回、17年後のじゅんくんと、うちの家族との、とても不思議な出来事を書きたいと思っています。


2018年12月16日日曜日

44.さくらちゃんに嘘をついた私



 上の写真は、私が小学校2年生の時に書いた作文である。2年から3年に上がる時、クラス替えがあったので文集を作った。この頃は全てガリ版刷りで、この文集も生徒それぞれがガリ版原稿を書かされた。黒いシートの上に、半透明でマス目の付いたシートが付いていて、マス目に沿ってガリガリと字を書くと、下の黒いシートが削れて、原稿が出来上がるしくみである。
 この時、作文のお題は何でもよかったと思うのだが、私はさくらちゃんのことを書いている(さくらちゃんは仮名。写真には本名が入っている)。まだ引っ越しが決まる前の年の話だが、さくらちゃんが4日間だけ田舎に遊びに行ってしまうことを「さびしくなる」と書いている。
 この時のさくらちゃんは「田舎に遊びに行けるからうれしそう」だった。しかし1年後、私の引っ越しが決まったことを告げた時は、毎日のように「とこちゃんがいなくなったらさびしい、さびしい」と言い続けていた。
 私も妹のようなさくらちゃんと毎日会えなくなることは信じられなかったし、とても悲しかった。さくらちゃんを悲しませてしまうことに対して、責任のようなものも感じていた。
 そこでさくらちゃんを何とか悲しませないようにと、苦し紛れに嘘をついてしまったのだった。
「うちの次に引っ越してくる家族にもね、お姉さんがいるんだよ。だから大丈夫」
 実は、うちの家族が引っ越した後には、父の妹の知子おばちゃんが独身で住むことが決まっていた。知子おばちゃんは、この一連の物語の第10回にも登場している人である。小笠原に行く父を見送るため、港で私を抱っこしている写真も掲載した。
 知子おばちゃんは私より17歳年上なので、昭和49年当時は26歳だった。若いけれど、子どもからしたら「お姉さん」と呼ぶには無理があった。どちらかと言うと母親たちの年齢に近かったから、さくらちゃんからしたら明らかに「おばさん」だったと思う。
 私は良心の呵責を感じながらも、心の中で「ううん、知子おばちゃんは、まだ結婚してないし、お姉さんって言えると思う」などとつぶやき、自分を納得させようとした。
 その数日後、私の家に遊びに来ていたさくらちゃんは、母にこう聞いたのだった。
「ねえ、おばさん、今度とこちゃんが引っ越した後に、引っ越してくる家族にはおねえさんがいるんでしょ?、とこちゃんに聞いたの」
 私はドキッとして、下を向いた。母が私の顔をじっと見たような気がした。その時の母は、肯定も否定もしない、あいまいな返事をしたように思う。
 あの時の恥ずかしかった気持ち、嘘をつくことはいけないという後悔、でもさくらちゃんを慰めるためには仕方がなかったんだという葛藤。まだ9歳だった頃の気持ちだけれど、鮮明に覚えていて忘れることができない。
 結局、私が引っ越した後、知子おばちゃんだけが引っ越してきて、さくらちゃんはどう思ったのだろう。きっとがっかりしたに違いない。期待をさせておいてがっかりさせることほど酷なことはないと思う。本当にあの時はごめんね。

私9歳。さくらちゃん5歳。
足が長いさくらちゃん、今では私よりも10センチ以上大きい大人になりました。


2018年12月15日土曜日

43.光る泥だんごー男の子の友情


 男の子同士のプライドとか友情って、何だかかわいい、と思う。

 引っ越しが決まると、弟は他にも友達からたくさんプレゼントをもらっていたようである。私が一番印象に残っているのは「光る泥だんご」だった。
 小さい頃、泥だんごづくりにはまった人も多いと思う。公園の単なるそのへんの泥を固めて、乾かして、磨いていくと、最後には鉄の玉のような硬くてピカピカの球形になる。乾かしたりする時間も必要なので、制作には数日かかることもある。
 泥だんご作りは、一般的に年齢が上になればなるほど熟練の技を習得できる。だから自分より年上の子が作った泥だんごは、大きかったり、硬かったり、ピカピカだったりして、尊敬の対象でもあった。男の子たちは自分の作った泥だんごを友達の物とぶつけ合って、どちらが硬くて強いか競い合ったりもする。勝負に勝った強くて美しい泥だんごは、自分の価値の証でもある。子どもはそれを箱に入れて宝石のように大切に保管していた。
 引っ越しが近づいたある日、弟は家に帰って来ると、何やら見慣れない箱を手にしていた。
「その箱なあに?」
「泥だんご、もらった」
 弟は無造作に箱をテーブルの上に置いて、また外に遊びに行ってしまった。箱を開けると、やや小ぶりだが、とても硬そうな、まるで鉄のようなピカピカ光る泥だんごが1つ入っていた。あとで聞くと、公園で知り合った小学校高学年の男の子が、引っ越しのお別れ、友情のしるしとして弟にプレゼントしたとのことだった。
 その泥だんごが入った箱は、横須賀に引っ越してからもしばらく弟の机の棚に大切に保管されていた。たまに箱を開けると、泥だんごの状態は全く変わらず、硬そうにピカピカ光り輝いていた。
 今はあの泥だんご、どこに行ってしまったのだろう。まだ実家にあるのだろうか。

 下の写真、こちらは女の子同士の友情である。左から、じゅんくんの妹のひとみちゃん、さくらちゃん、私。
 ひとみちゃんが左手に持っている手提げみたいなのは、おさげ髪の女の子の顔になっている。ヤシの実をくりぬいてつくってあり、頭のところでパカっと蓋が開くようになっている。私が小さい頃、父から小笠原のお土産としてもらったものを、ひとみちゃんに譲ったのだと思う。最初、中には木の実と皮で作られたシャカシャカしたオレンジっぽいネックレスが入っていたことを覚えている。 
 女の子3人と、弟と、じゅんくん。私たち5人は、友情というよりも、本当のきょうだいのようにいつも一緒にいるのが当たり前だった。だから引っ越しをしてしまうのは、とてもさびしく、悲しい出来事でもあった。(つづく)



2018年12月14日金曜日

42.引っ越し決定&弟の初恋は!?

 子ども2人が大きくなるにつれて、錦糸町の1DKのアパートでは、家族4人が暮らすのは少々無理になってきた。そこで母はかなり前から引っ越しを考えていた。できれば持ち家、郊外のマンションでも買えたら、と思っていたけれど、全く貯金もない状態だったため、長い間、持ち家は単なる夢に過ぎなかった。
 それがある日、母は「頭金がゼロでも可」というマンションの分譲広告を新聞の中に見つけた。そのマンションは神奈川県の横須賀市にあって、今まで全くなじみのない場所だったけれど、早速応募をし、幸運にも当選することができた。
 「来年の3月末に引っ越しすることになったから。4月からは横須賀の小学校に転校することになるから」。父と母からそう聞いて、私は「へぇー、私が転校生になるの?」と少しワクワクしたことを覚えている。よくドラマにも出てくるようなシーンを頭の中で描いた。教室の前で、私が一人立っていて、先生が「今度引っ越してきた俊子さんです」と紹介するシーンである。クラスメイトの皆が「俊子さんって、どんな子だろう」と私に注目している。
 しかし現実は、横須賀のマンションは大規模開発による新興住宅地だったので、新しく小学校が1つ出来て、全員が転校生だったのである。私の甘酸っぱい転校生のシーンは、現実のものとはならなかった。
 ところで前回お話ししマリコちゃんと弟の初恋は、突然の引っ越しにより幕を下ろすことになる。お別れの日が近づいたある日、弟はマリコちゃんから絵本『しろいうさぎとくろいうさぎ』をプレゼントされた。それはマリコちゃんの家にあったもので、弟がとても気に入って何度も読んでいた絵本だった。この絵本は有名なので、お話しを知っている人も多いと思う。

 しろいうさぎと くろいうさぎ、二ひきのちいさなうさぎが、ひろい もりのなかに、すんでいました。
 まいあさ、二ひきは、ねどこからはねおきて、いちにちじゅう、いっしょに たのしくあそびました。
 でもあるとき、くろいうさぎは、とてもかなしそうなかおをしました。
 心配になったしろいうさぎがたずねると、くろいうさぎはいいます。「ぼく、ねがいごとをしているんだよ。いつの いつも、いつまでも、きみといっしょにいられますようにってさ」。
 するとしろいうさぎは「ねえ、そのこと、もっといっしょうけんめいねがってごらんなさいよ」といいます。
「これからさき、いつも きみといっしょに いられますように!」
「じゃ、わたし、これからさき、いつもあなたと いっしょにいるわ」

 まるでくろいうさぎは弟で、しろいうさぎはマリコちゃんだと思った。絵本の中で二匹はたしか最後に結婚をしてハッピーエンドになるお話だったと思う。弟とマリコちゃんは、絵本のようにはいかなかったけれど、きっと、うさぎたちのように「ずっと一緒にいたい」と思ったのではないかと思っている。
 
 今回で42回となった私の錦糸町の昔話も、そろそろ終わりが近づいて来た。引っ越しまで、あと2~3回、話を続けたいと思う。

今でもこの絵本は実家にあって、それを写真に写しました。






2018年12月12日水曜日

41.番長になれた?弟の初恋?


 第35回で「弟が番長になれなくって登園拒否をした」という話を書いた。入園当初はそうだったけれど、年長組に上がる頃には、番長、というか一番のリーダー的存在にはなれたのではないかと思っている。
 リーダーは、ただ腕力が強いだけではなれない。優しさとか信用とか、それに仲間だけではなく、上の人にも気に入られないとリーダーにはなれない。
 弟は赤ちゃんの頃から女の子や女の人(オバサンも含む)にとても好かれる男の子だった。全ての女性に愛想がよく、まめで親切にすることを恥ずかしがらないからだと思う。だから弟は、幼稚園で担任の先生以外にも人気があった(先生は全員女性)。別なクラスの若い先生からも弟に年賀状が届いたりして、母は非常に驚いていた。
 墨田二葉幼稚園では、毎年年長組の園児たち全員で鼓笛隊を作るのが習わしだったが、弟は、鼓笛隊の大だいこ担当を指名された。大だいこは鼓笛隊のトップで、一人だけのパートである。たぶん先生たちからリーダーとして認識されていたからだと思う。
 2枚目の写真で、大だいこの弟の前に写っている女の子が、指揮を担当しているマリコちゃんである。指揮者も通常、一番しっかりした子が選ばれるパートである。マリコちゃんはかわいくて、幼稚園生ながら本当にしっかりした女の子だった。写真には背筋をしっかり伸ばし、堂々と指揮棒をあやつるマリコちゃんの姿が写っている。
 これは私の推測だが、マリコちゃんは弟の初恋の人だったと思っている。同じビルに住んでいたマリコちゃんと弟は、よく家を行き来していて仲良しだった。女の子に優しい弟だから、たぶんマリコちゃんも好意を抱いていたのではないかと思う。
 ところでその頃の私はというと、小学校一年生から三年生の間は、特に好きな男の子はいなかった。男の子たちに混じって紅一点で遊ぶこともよくあったけれど、好きという感情は全くなかった。
 幼稚園の時は「隊長」にあんなにぞっこんだった私だが、残念ながら錦糸小学校には好きなタイプの男の子はいなかったようである。

2018年12月10日月曜日

40.総武快速線の開通、三越のお子様ランチ

私が生まれた昭和40年、国鉄の錦糸町駅には、黄色い総武線のみが走っていた。それが昭和47年の7月、津田沼と東京の間に総武快速線が開通し、錦糸町の駅から東京に乗り換えなしで行けるようになった。
 私は鉄道マニアではないけれど、子ども心に総武快速線は新しくてかっこいい電車だと思った。クリーム色に紺色の線が入った早い電車は、全く新しい時代の乗り物のように感じた。馬喰町のあたりから地下にもぐるのも斬新だった。
 総武快速線で一番思い出にあるのは、新日本橋駅にある三越へよく出かけたことである。あの頃のデパートは、どの階も混んでいて活気があった。お中元やお歳暮の時期に出かけたり、洋服を買ったりするのが目的だった。
 母はだいたいバーゲンで洋服を買っていた。山積みにされた洋服に、母のような30代から40代くらいの女性たちが群がって洋服の取り合いをしていた。今ではあまり見かけなくなった光景だと思う。小さかった私と弟は、人混みの中で迷子にならないように頑張って母を待っていた。
 ひととおり買い物が終わると、デパートの最上階にある食堂でお子様ランチを食べる。「三越」と書いた旗の立っているチキンライス、スパゲッティ、ハンバーグ、エビフライ、ヤクルト、そして何かおもちゃがおまけで付いていた。いつの時代も、お子様ランチは子どもたちにとってワクワク嬉しいものだと思う。
 日本橋三越は、お子様ランチの発祥の地としても有名である。昭和5年に「御子様洋食」というのが初めて提供されたらしい。私たち子どもはそれから約40年後に食べていたことになる。自分が50年以上生きてきて、あっという間だったから、昭和5年はそれほど昔ではなかった気がしてしまう。
 そういえば、家でもたまに母がお子様ランチを作ってくれることがあったっけ。母の作ってくれたお子様ランチも嬉しかった。お茶碗で型を作ったチキンライスに、ちゃんと旗も立っていた。私と弟は「わーい、お子様ランチだー」と喜んで食べていた。
 下の写真は、錦糸町の狭い家で食事をしている私と弟である。母がお子様ランチを作ってくれる時は、この茶色いお皿に盛りつけてくれていた思い出がある。
 当時にしてはテーブルでの食事だったし、新しい暮らしだったのだと思うが、今見ると大昔の光景である。穴が規則的に空いたボードを壁に貼り付けて、お玉や茶こし、まな板なんかを下げるのが当時の流行りだった。懐かしいなぁ。

2018年12月7日金曜日

39.モヒカン刈りの怖い人と友達だった、じゅんくんと弟

男の子同士、じゅんくんと弟は本当の兄弟のようでした。

 赤ちゃんの頃から私にいつもくっついていた弟も、幼稚園に入るとだんだんと男の子らしくなって、遊ぶ相手も変わっていった。一番の仲良しは隣に住んでいたじゅんくん。じゅんくんは弟より2歳上の昭和41年生まれ。本当の兄と弟のようにいつもつるんで遊んでいたことを思い出す。
 男の子の友人関係は、女の子の私には理解不能だった。何となく軍隊のように序列があって、じゅんくんと弟には主従があるように見えた。あらためて写真を見ると、じゅんくんはちょっと反抗的で年下の男の子があこがれるようなニヒルな風情がある。彼は運動神経が良く、すばしっこい男の子だった。錦糸堀公園やビルの屋上を縦横無尽に駆け回るじゅんくん。小さい時の2歳の違いは大きい。弟もじゅんくんに置いていかれないよう、いつも全力疾走でくっついて遊んでいた。
 男の子たちは勝負が大好き。ある日、ビルの階段の何段目から飛び降りることができるか競争になった。もちろん年上のじゅんくんの方が高い所から飛び降りることができる。しかし負けず嫌いの弟は、じゅんくんに負けまいと実力以上の無理をして、結局またケガをして帰ってきた。何度ケガをしても懲りない弟だった。 
 じゅんくんと弟には、他にも多くの男友達がいた。同じビルの別な階に住む、私と同級生の栄一くんとか、公園の横にある食堂の息子の和弘くんなど。小学校高学年の男の子たちともいつの間にか友達になって、よく公園で野球などをして遊んでいた。(ちなみに栄一くんの妹は、弟と同じ幼稚園に通っていたマリコちゃん。たぶん弟の初恋の人)
 じゅんくんと弟は、もう少し年上の人たち、大人ともよく友達になった。ある頃から、弟は私と母に「ウルトラマンのおっちゃんが…」とよく言うようになった。「ウルトラマンのおっちゃん?何それ」と最初は理解できない私と母であった。
 しかしある日、錦糸堀公園で弟とじゅんくんが、モヒカン刈りの怖そうな青年と、笑い転げながら会話をしている姿を見かけた。何とそれが弟の言う「ウルトラマンのおっちゃん」だったのだ。
 モヒカン刈りのその青年は、公園横のバーで働いているようだった。まだ夜にならない夕方、開店の準備をしている時に、弟たちは会話を交わすようになったらしい。強面にモヒカン頭。堅気の大人たちなら絶対に近寄れない部類の若者だったが、無邪気な弟たちはいつも笑い転げながらその若者と会話をしていた。きっとその若者もやんちゃな子どもたちと会話ができて嬉しかったのだと思う。いつも面白いギャグのようなセリフで弟たちの相手をしてあげていた。
 50歳になった弟は、今でも人懐っこくて、どんな部類の人たちとも仲良くできるところは変わっていない。じゅんくんは25歳の時に病気で還らぬ人となった。じゅんくんは今、天国でどんな52歳になっていることだろう。



2018年12月4日火曜日

38.忘れ物の女王

 清澄庭園かどこか。
一見しっかりしているように見えるけれど、
忘れ物をよくしていた2年生から3年生の頃

 この一連の昔話を友人に読んでもらい感想を聞くと「よく昔のことを覚えているね、記憶力がいいんだね」と言われる。
 しかし小さい頃の私は、いつも何かしら考え事をしていてぼーっとしていた。あまりにもぼーっとしているので母が心配して「何考えているの?」と話しかけると、「あの雲、象さんみたい」と私は空を指さしながら答えたという。
 日曜日にはよく家族で清澄庭園や里見公園などへ遊びに出かけることがあったが、到着した途端、私は「ねえ早く帰ろうよ」とつまらなそうに言って、よく両親に叱られた。現実にどこかに遊びに行くよりも、頭の中で空想しているほうが好きだったのかもしれない。自分ではあまり意識していなかったが、現実逃避をしているちょっと変わった一面もあったのだと思う。
 そんな私は、小学校に入ってから忘れ物をすることが多かった。宿題だったり、提出物だったり。自分では「次は気を付けよう」と思うのだが、忘れ物をする癖はなおらなかった。
 3年生になると、クラス替えがあり、同時に担任の先生も替わった。1.2年生の時は若くて優しい長田美代子先生だったけれど、3年生になると50代のベテラン、川端志津先生が担任になった。
 川端先生は教育に厳しいことで有名だった。勉強だけではなく、生活習慣に関してもしつけをきちんとする方針だった。掃除のしかた、雑巾の絞り方なども川端先生は事細かに教えてくれた。忘れ物に関しても厳しく、忘れ物をした生徒の名前を棒グラフにして教室の後ろに貼りだしていた。1つ忘れ物をすると、自分の名前の棒に自分で書き加えるシステムになっていた。
 私は自分の名前が貼りだされるのは恥ずかしいと思ったけれど、どうしても忘れ物をしてしまう癖は治らなかった。それでもあまり悩んでいたわけでもなく、母にも相談せず、内緒にしていた。
 しかしある授業参観の日に、母はそのグラフを目の当たりにしてしまったのだった。何とその時、私は忘れ物の数が他の誰よりもダントツで多く、棒グラフが一人だけひょーんと高い状態だった。母は他のお母さんたちの前でとても恥ずかしい思いをしたと言う。
 その後しばらく母は、私が学校に行くときに「忘れ物はないの?」と聞くようになった。しかしそれはあまり意味をなさなかった。「宿題が出されたこと」自体を忘れてしまっているのだから。常に私の返事は「忘れ物?ないよ!」だった。そして学校で授業が始まると「ああ、今日も忘れ物をしてしまった」と気付くのであった。
 そんな子供だった私が今、学校で教員をやっているのだから、人生は本当にわからないものである。

2018年12月2日日曜日

37.アグネス・チャンの歌をいつも歌っていた頃


小学校2年生ごろ。母方のいとこたちと。
灯篭の隣が私。
昔はいとこがいっぱいいた時代でした。

 アグネスのファンになったのは、たしか小学校1年生から2年生の頃だったと思う。あの頃のアグネスは20歳前後だっただろうか。妖精のような容姿と、舌足らずな高い声が本当にかわいかった。
 私は10チャンネルで毎週夜8時から放映されている「ベスト30歌謡曲」という番組が楽しみで仕方がなかった。司会は愛川欽也だったと思う。アグネスが白い衣装で「草原の輝き」や「ポケットいっぱいの秘密」などを歌う姿は本当に妖精のようだった。(その頃ガロの「学生街の喫茶店」などもよく1位になっていた)。
 私は毎月、小学館の「小学1年生」や「小学2年生」を買っていて、付録だった歌謡曲の歌詞を書いた本を大切にしていた。それを見ながらよく部屋の真ん中でアグネス・チャンの歌を歌っていた。直立不動でマイクを持つしぐさをしながら、アグネスになりきって高い声でものまねをしていた。
 観客は母と弟だけ。というか錦糸町の家は1DKワンフロアのとても小さな住まいだったので、母と弟は私の歌を強制的に聞かされていたのだった。母に「その変な歌い方はやめたほうがいい」とよく言われたけれど、まったく聞く耳を持たない私だった。
 クラスの同級生の中にも、アグネスのファンは多かった。「みつ」こと三矢久美ちゃん(仮名)もファンの一人で、彼女とはアグネスの話題で仲良くなっていった。
 錦糸小学校の同級生の家は、お店や会社を営んでいる家が多く、みつの家は肉の卸売業を営んでいた。彼女の家に最初に遊びに行った時は驚いた。家の建物に入ると、牛だか豚だかの大きな胴体の半身がたくさんぶらさがっていたのである。その肉の間をすりぬけて私たちはみつの部屋に行き、アグネス・チャンの歌を一緒に歌ったりして楽しんでいた。
 みつは私の狭い家にもよく遊びにきてくれた。歌を歌う以外、何をして遊んでいたのかはあまり覚えていない。しかしわりと遅くまで二人で遊んでいたらしい。
 母は「5時ぐらいになって、みつに『そろそろお母さんが心配するから帰った方がいいんじゃない?』と言うと『ううん、心配しないから大丈夫』と言って帰らなかったのよ。おうちでご商売をしていたから、ご両親も忙しかったのかしらね。暗くなるし心配だったけれど、それよりもあまり遅くなると夕飯を出してあげた方がいいかしら、なんてことも気になっちゃって。その頃うちは本当にぎりぎりの生活だったから、お魚だとか、食べ物も人数分しか買っていなかったの」と言う。
 そんなささいなことを覚えている母に驚いた。子どもの私は一度もひもじい思いをしたことがなかったけれど、あの頃の母は子どもにそう思わせないよう、一生懸命やりくりをしていたのだ。有難いと思う。

36.【最終回】小学校を卒業、そして・・・

 日光修学旅行が終わった頃、卒業制作の話が高梨先生からあった。 「何か6年1組として記念になるものを作って、小学校の中に残しましょう」  花壇を作るとか、遊び道具を作るとか、いくつか案があったと思うが、話し合いの結果、「トーテムポール」を作ることになった。1組と...