平成4年(1992年)10月2日、家族4人で両国へお相撲を見に行きました。
昭和50年3月に、私たち一家は錦糸町から横須賀へ引っ越し、その後も錦糸町の宇崎家、赤西家とは交流を続けた。互いの家に遊びに行ったり、母親同士は電話で連絡を取りあったり。
そのうちに宇崎家は都内の別な場所に引っ越し、赤西家は名古屋に移り住んだ。私たちはみな、錦糸町を離れていた。
昭和の終わりから平成にかけて、子どもたちはそれぞれ就職をする時期になっていた。弟は就職して2年目の秋に、会社の関係で大相撲のマス席のチケットをもらってきた。私たち家族はめったにないチャンスに喜び、平日だったけれど、父も休暇を取って、4人そろって両国国技館で大相撲を楽しんだ。忘れもしない、平成4年10月2日のことだった。
帰る際、急に「錦糸町のあのビル、今はどうなっているだろうね、見に行ってみようか」という話になった。両国から錦糸町へは一駅。4人で総武線に乗って、小さい頃に住んでいたあの建物に向かった。
母と私と弟の3人は、引っ越してからも何度か小学生の頃に遊びに来ていたが、父も含めた4人で来たのは引っ越し以来初めてのことだった。
しばらくぶりの建物は少し古びていたけれど、あの頃とあまり変わりがなかった。エレベーターで10階に上がり、私たちが住んでいた部屋の前まで行った。
「ここでいつもじゅんくんやさくらちゃん、ひとみちゃんたちと遊んでいたんだよね」
何となく昔のイメージよりも小さく感じた。単に自分が大きくなったからだと思う。もう知っている人も住んでいないので、ビルへの訪問はほんの数分で、私たちは帰ってきた。
その後、年が明けて、赤西家のおばさんからうちに電話がかかってきて、じゅんくんが秋に亡くなったとの知らせを受けた。難病のクローン病だった。子どもたちが大きくなってからは、それほど頻繁に連絡を取っていなかったので、じゅんくんが病気と闘っていたということは知らなかった。
赤西家のおばさんとさくらちゃん、うちの母と私の4人は、早速宇崎家に弔問した。宇崎のおばさんは気丈に元気だった。じゅんくんの妹、ひとみちゃんは小さい頃、気が強くて、奈良美智が描く子供のように、いつもちょっと不機嫌そうな表情がトレードマークだった。それが20歳になって、とてもニコニコしているお嬢さんに変わっていた。悲しくしている様子を私たちに見せないようにしているのかと思うと、よけい悲しくなってしまった。
あの時、私はまだ27歳。今思うと宇崎のおばさんに気の利いた言葉を何も伝えられなかったことを悔やんでいる。今の私だったらもう少しいろいろと話すことができたのに。
じゅんくんのお仏壇と写真を見ても、もうこの世にじゅんくんがいないということは全く信じられなかった。今仕事に行っていて、そのうち帰ってくるんじゃないかという気がした。
位牌に刻まれた日付を見ると「10月2日」となっていた。その日は、私たち家族が大相撲観戦の後、錦糸町のあのビルを訪問した日だった。私たちはその偶然に驚いた。「じゅんくんが呼んだのかしら」。誰かがそんなことを言った。そんな偶然ってあるのだろうか。
あの時じゅんくんは、あの家の前にいて、私たちのことを見ていたのかもしれない。天国に行く前に、私たちに会いたいと思ってくれていたとしたら嬉しい。きっとそうだよね、だって私とじゅんくん、この世に生を受けて、お互いに一番最初に友達になった間柄だもの。
じゅんくんは昭和41年の11月生まれだったから、26歳のお誕生日が来る少し前、25歳であの世に行ってしまった。でもじゅんくんがこの世にいたこと、そしていつも一緒に遊んだことは決して忘れないからね。
2,3歳頃のじゅんくんと私。
奈良美智の描く子どもっぽかったひとみちゃん(右)。
気が強い感じがかわいかったなぁ。
左はさくらちゃん。