母方のきょうだい、おじさんおばさんたちがみんな引越しの手伝いに来てくれました。
写真は引越しの数年前、私が5歳くらいのとき。
乳母車の左端に乗っているのが弟、乳母車の右横が私。その後ろが母。
昭和50年の3月、とうとう引越しの日がやってきた。父と母と私と弟。4人はこの日、錦糸町のアパートから横須賀のマンションへ引っ越した。
今なら引越しは業者に頼むのが普通だと思うが、この時は業者に頼むことはしなかった。父の会社からトラックを二台借り、運搬は母方のおじさん、おばさんたち、そして宇崎家のおじさんおばさん、赤西家のおじさんおばさんが全部手伝ってくれた。
母は6人きょうだい。兄が3人、姉が1人、弟が1人いる。それぞれの連れ合いも当日は来てくれた。上の写真を見ても分かる通り、この頃の男性らしく皆頑丈そうである。きっと頼りになるきょうだいが沢山手伝いに来てくれて母も心強かったと思う。
ここで少し話は戻るが、横須賀のマンションを購入するまでの経緯を記述しておきたいと思う。
母が新聞広告でマンションを見つけた時、横須賀はあまりなじみがない場所だったと以前書いたが、実は一度、横須賀の津久井浜にある弟(私たちから見ると叔父さん)の会社の保養所に行ったことがあって、「横須賀はとてものどかで綺麗ないい所」だというイメージを持っていた。もしもその保養所に行っていなかったら、新聞広告を見ても引っ越そうと思わなかったかもしれない。
広告を見つけてからは、横浜にある天理ビルで開催された「説明会」に行って、申込みなど一連の手続きを終えた。横須賀の現地には引っ越すまで一度も行かなかったらしい。しかし大手の不動産の販売だったことと、マンションの部屋のパンフレットが最新式のインテリアでとてもきれいだったことから、特に躊躇もせず申込みを行ったらしい。
申込みをした家は、20倍の人気だった。後日抽選結果が郵送で知らされることになっていたが、父と母は「20倍だからダメかもしれないね」と話をしていた。
その少し前、母の母、私の祖母ががんの手術をしていて、母は用賀の近くにある病院まで一日おきでお見舞い、付き添いを行っていた。
忙しい生活の中で、マンションの抽選のことはすっかり忘れていたところ、ある日不動産会社から郵便が届き、開けてみると「当選」と書かれていたのだった。父と母は思わず抱き合って喜んだそうである。
私がその後小学校4年生から25歳まで横須賀に住んで、たくさんの友人たちと知り合うことができた。様々な偶然が重ならなかったら、今も仲良くしている横須賀の小学校、中学校、逗子の高校の友人たちと知り合うこともなかっただろう。感慨深いものがある。運命って面白いなと思う。
引越しの日、錦糸町の部屋の少ない荷物をトラックに全て積み込んだのは、お昼少し前のことだった。1台目のトラックの席に父と弟が乗り込み、2台目のトラックの席に母と私が乗り込んだ。
そしてご近所さんたちとお別れの時が来た。母は
「お世話になりました、ありがとうございました」
と、宇崎のおばさん、赤西のおばさんにトラックの席から手を振ってお礼を言った。母は少し涙ぐんでいた。じゅんくん、さくらちゃん、ひとみちゃんもビルの前で一緒にお見送りをしてくれた。
「バイバーイ!」
子供同士も、元気に手を振った。
運転手さんがトラックを発車させ、私が9年半住んだ錦糸町の10階建てのビルはどんどん小さくなっていった。(終わり)
錦糸町の話は一旦終わりますが、あと1回、17年後のじゅんくんと、うちの家族との、とても不思議な出来事を書きたいと思っています。
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