2018年12月10日月曜日

40.総武快速線の開通、三越のお子様ランチ

私が生まれた昭和40年、国鉄の錦糸町駅には、黄色い総武線のみが走っていた。それが昭和47年の7月、津田沼と東京の間に総武快速線が開通し、錦糸町の駅から東京に乗り換えなしで行けるようになった。
 私は鉄道マニアではないけれど、子ども心に総武快速線は新しくてかっこいい電車だと思った。クリーム色に紺色の線が入った早い電車は、全く新しい時代の乗り物のように感じた。馬喰町のあたりから地下にもぐるのも斬新だった。
 総武快速線で一番思い出にあるのは、新日本橋駅にある三越へよく出かけたことである。あの頃のデパートは、どの階も混んでいて活気があった。お中元やお歳暮の時期に出かけたり、洋服を買ったりするのが目的だった。
 母はだいたいバーゲンで洋服を買っていた。山積みにされた洋服に、母のような30代から40代くらいの女性たちが群がって洋服の取り合いをしていた。今ではあまり見かけなくなった光景だと思う。小さかった私と弟は、人混みの中で迷子にならないように頑張って母を待っていた。
 ひととおり買い物が終わると、デパートの最上階にある食堂でお子様ランチを食べる。「三越」と書いた旗の立っているチキンライス、スパゲッティ、ハンバーグ、エビフライ、ヤクルト、そして何かおもちゃがおまけで付いていた。いつの時代も、お子様ランチは子どもたちにとってワクワク嬉しいものだと思う。
 日本橋三越は、お子様ランチの発祥の地としても有名である。昭和5年に「御子様洋食」というのが初めて提供されたらしい。私たち子どもはそれから約40年後に食べていたことになる。自分が50年以上生きてきて、あっという間だったから、昭和5年はそれほど昔ではなかった気がしてしまう。
 そういえば、家でもたまに母がお子様ランチを作ってくれることがあったっけ。母の作ってくれたお子様ランチも嬉しかった。お茶碗で型を作ったチキンライスに、ちゃんと旗も立っていた。私と弟は「わーい、お子様ランチだー」と喜んで食べていた。
 下の写真は、錦糸町の狭い家で食事をしている私と弟である。母がお子様ランチを作ってくれる時は、この茶色いお皿に盛りつけてくれていた思い出がある。
 当時にしてはテーブルでの食事だったし、新しい暮らしだったのだと思うが、今見ると大昔の光景である。穴が規則的に空いたボードを壁に貼り付けて、お玉や茶こし、まな板なんかを下げるのが当時の流行りだった。懐かしいなぁ。

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