2019年7月27日土曜日

27.昭和な卒業アルバムを実家で発見

 実家にて望洋小学校の「卒業アルバム」なるものを見つけ、すっかり忘れていた写真をいくつか発見したので、今回はそれを掲載したいと思う。

 不入斗(いりやまず)の陸上大会において、走り幅跳びで銀メダルを取った日の写真は現存していないと思っていたが、集合写真を見つけた。それが上の一枚である。
 後列の真ん中あたり、男性の先生の左肩で一番笑っているのが私である。41番というのは、たぶん望洋小学校の番号だと思う。母によると、このゼッケンを前日の夜にあわてて縫い付けた記憶があるという。
 私の前に座っているのが2組のマコちゃんで、首にメダルをぶら下げている。たぶんソフトボール投げで入賞したのだろう。
 男子は、みそ、くっくん、谷はん、女子はオチャなども写っているので、私の記憶は正しかったようである。
不入斗陸上大会の話はこちらです⇒


1組の歴史年表もあった。6年に上がる時にはクラス替えはなかったので、そのまま6-1になった。「農家旋風」は5年の5月ごろに始まり、6年の6月頃に衰えたらしい(笑)。

 高梨先生(仮名)の産休のこともあった。翌年の1月に戻ったとあるので、やはり3~4か月だったようである。代用教員のアパッチ先生(ニックネーム)が来たことも書いてある。



 アパッチ先生の写真は残っていないと思っていたけれど、卒業アルバムには残っていた。昭和51年10月に箱根に行った時の写真である。
 最後列の右端に写っているのがアパッチ先生である。記憶の中では「70代に見えた」などと書いたが、実物は意外と若くてきれいだったので驚いた。
 ここに載せたのは2組の方の写真である。これと同じ構図で私たち1組の写真もあるのだが、(私のスマホの撮り方が)不鮮明だったのでこちらを掲載した。

 2組の顔ぶれを見て思い出したことがある。1組に比べると、しっかり勉強している児童が多い2組であった。望洋小学校は新興住宅地なので成績の良い子が多かったこともあり、2組では父兄から
「テストで良い点を取っているのに、通知表の評価が悪い」
と苦情があったらしい。相対評価なので成績の良い子が多いとそうなってしまう。
 2組担任の角田先生(仮名)も、しっかり学習を習慣づける指導をしていたらしい。「ホームランノート」なるものを作り、家庭学習をするように指導していたとのことである。
 1組はあまりそのような記憶がない。農家旋風が吹き荒れている1組と2組とは大違いだったのが笑える。




2019年7月18日木曜日

26.初めてのバレンタインデー

ちっちゃんと私。
修学旅行の時。
だいたいいつも二人一緒でした。

5年生の時は、ちっちゃんも私もまだ好きな男の子はいなかったけれど、いつも仲良くしているクラスの男の子たちが4人いた。
 同じマンションに住んでいたその男の子たちの家には放課後よくみんなで遊びに行った。一人の男の子のお父さんはベース(横須賀米軍基地)に勤めていたので、開放日にはお父さんが6人をベースに連れて行ってくれたりもした。
 その6人の中では「〇〇が△△のこと好きだって」という話は一切出なかったし、恋愛感情もなかったと思う。しかし何となくグループ交際をしている気分にはなっていたかもしれない。

 年が明けて昭和52年の2月のこと。私たちはテレビのコマーシャルで「バレンタインデー」なるものを知った。
 そしてある日、学校の帰り道でちっちゃんから
「ねぇねぇ、今度バレンタインデーに、あの4人にチョコレートあげない? 私たち2人からってことで」
と提案があった。
 ちっちゃんは小さくてまだ色気も何もなかったけれど、写真でもわかるようにとてもかわいらしく、活発で積極的な女の子だった。私と同じように楽しいことが大好きだった。
「うん、面白そう、あげようあげよう!」
 私はすぐに賛成をした。
 数日後の2月14日月曜日の放課後、私たちはお小遣いを出し合ってお菓子屋で「不二家ハートチョコレート」を4つ買った。当時は1つ50円だったので、それぞれ100円ずつを出し合った。
 プレゼント用のラッピングをしてもらったかどうかは全く覚えていない。もしかしたらラッピングは一切なかったかもしれない。
 それに一人一人にどうやって手渡したのかも覚えていない。たぶん4人の家に直接2人で訪ねて行って、ただ「はいっ」と手渡しをしたような気がする。男の子の方も普通に「ありがとう」ともらってくれたように思う。
 特に好きだとか告白するという目的はなかったので、ドキドキもしなかった。けれど私たちは何となくウキウキ楽しかった。あれはまぎれもなく「人生最初の」バレンタインデーだった。そして人生で一番純粋でかわいらしいバレンタインデーだったと思う。

 今回この話を掲載するにあたって、ちっちゃんに「載せてもいい?」と一応許可をもらったのだが、ちっちゃんは「え、そんなことあった?」とすっかり忘れていた。「不二家のハートチョコレート」の名前を出したら「そういえばそんなことあったかも。うっすらと思い出してきた」とのことだった。
 何しろ42年も前のことだから忘れていても不思議ではない。渡した4人の男子も忘れているかもしれない。いや、私のこの記憶自体が正しいのかどうか。本当にあったことなのかもあやしい。
 そんなわけで、いつもは本名に基づいた仮名でお話を書いているけれど、今回はその4人が誰だったのか、同級生にも判らないよう仮名も出さないようにしておこうと思う。
 

2019年7月12日金曜日

25.そろばん教室に通い始める

親戚のおばさん、いとこたちと。
用賀のおばあちゃんの家の前で。
後列左が私。

 錦糸町に住んでいた頃、バレエが習いたくて教室に通っていた私だったが、横須賀に引っ越す時に辞めてしまい、4年生の時は習い事をしていなかった。


 5年生の秋ごろ、突然母が弟と私に「そろばんを習いなさい」と言った。「計算が得意になるから。お母さんも小さい頃、学校でそろばんを習ったのよ。そろばんは出来た方がいいわよ」とのことだった。
 たしかに母は毎日家計簿をつける時にそろばんを使っていた。その光景は私にとってなじみ深かった。幼児の頃は母がそろばんを使う姿をかっこよく思い、出来もしないのに指で弾いて真似して遊んだりしたこともあった。
 昭和50年頃、電卓はすでに登場していたけれど、まだ高価な時代で、日本人が計算する時はそろばんが主流だった。
 2年生だった弟は、その頃、毎日学校から帰って来ると、友達と野球をするのに忙しかった。自分の部屋にランドセルを置く時間ももったいないらしく、いつも玄関の所から部屋に向かって勢いよくランドセルを投げていた。だから「そろばんなんて習いたくないよ」と言って、母の言葉をスルーした。
 私は「そろばん、ちょっと習ってみるのも面白いかも」と思って、一人で通い始めることにした。上の写真に写っている世田谷の親戚のまみちゃんもそろばんを習っていて段位まで取っていると聞いた。まみちゃんは私よりも1歳下だったので、「私だって」と、少々刺激されたこともあったのかもしれない。
 その頃、私たちが住んでいたマンションのすぐ近くに「岡花珠算教室」というのがあった。通っている子供たちは教室名と交通標識がプリントされた黄色のビニールバッグを持ち歩いていたので、ずいぶん前から教室の存在は知っていた。
 教室の岡花先生は、とても優しい50代の夫婦だった。ダンナさんの先生はNHKアナウンサーの鈴木健二に似ていた。声にも張りがあってきびきびした先生だった。奥さんの先生はちょっと女優の小林ちとせに似ていると思っていた。
 たまに20代と思われる娘さんが手伝いで現れて、ストップウォッチで時間を計ったり、読み上げ算の時に「願いましては~」と生徒を教えることもあった。
 珠算教室には私よりも学年が下の生徒が多かった。教室には3人掛けの机と椅子が並べられ、50人以上は入れる広さだったように記憶している。子どもたちは始まる前はいつもガヤガヤと騒がしかったけれど、ストップウォッチで時間が計られ始めると、みんな集中して練習に励んでいた。
 私もやっているうちに、そろばんの面白さにはまって、意外と真面目に教室に通っていた。中学に入る頃まで通っていたかもしれない。最終的には2級まで進んだ。3桁か4桁の暗算などもできたのではないかと思う。暗算ができることはけっこう日常的に便利だった。
 しかし高校を卒業して簿記学校に通い始めてからは、暗算が全くできなくなってしまった。簿記学校では「暗算はダメ。全部電卓で計算すること」と言われていて、そうしているうちにいつのまにか暗算ができなくなってしまったのだ。
 現代はもう、そろばんを習う子どもはほとんどいないのではないだろうか。子どもの習い事の種類も増え、お受験の塾で忙しい子も多くなった。日本人も日常でそろばんを使う機会はほとんどなくなってしまったし、街のそろばん教室も、教えられる先生も減ったと思う。電卓でさえ、今ではずいぶん安価になってしまった。
 黄色いバッグを持った、沢山のこどもたちが近所を歩いている姿は、昭和のあの頃の懐かしい光景の一つだと思う。


2019年7月4日木曜日

24.高梨先生の産休と、アパッチ先生登場

ふくよかな体型だった高梨麗子先生(右端)。

 あれはたしか、5年生の秋、9月の25日くらいだったと思う。下校の前の時間に担任の高梨先生から重大発表があった。
「実は二人目の赤ちゃんが生まれることになったので、10月からしばらく産休に入ります」。
「ええっ?」
 私たち5年1組の生徒はびっくり仰天して一斉に大声を上げた。
 あの時、高梨先生は妊娠何か月だったのだろう。そしてどのくらいの期間、休んだのだろう。細かいことは覚えていないし、徐々にお腹が大きくなっていく高梨先生の姿もあまり記憶がない。先生はふくよかな体型だったため、お腹があまり目立たなかったのではないかと思う。
「来月から、代理の先生が来ます」
「えーっ、どんな先生ですか?」
「女性の先生で、梅沢サダ先生(仮名)といいます。産休の補助を専門にされて、様々な学校を担当されてきたベテランの先生です」。

 そして10月の初日から、私たちの担任は梅沢サダ先生になった。梅沢先生はあの頃、何歳だったのだろう。私の記憶の中では70代だったように思えるのだが、まさか定年が55歳か60歳の時代に70代の先生がいるはずがない。しかし顔には多くのしわが刻まれ、まさに「おばあさん」という感じの女性だった。
 5年1組の悪ガキたちは早速、梅沢先生に「アパッチ」というあだ名をつけた。その頃にテレビで放映された『アパッチ』というネイティブアメリカンの映画に出てきた俳優に、しわの感じがそっくりだったからである。
 アパッチと言うあだ名は、梅沢先生にはもちろん内緒だったが、男子達は梅沢先生が教室に到着すると、みんなで一斉に、しかし気付かれないくらいの小さな声で「アパッチ、アパッチ、アパッチ、アパッチ・・・」と合唱するのだった。私たち女子は笑いをこらえるのに必死だった。
 高梨先生が産休に入る前、生徒たちは自由奔放に毎日を送っていたけれど、梅沢先生はとても厳しく、きっちりとした先生だったので、私たちはそのギャップに少々ついていけない感じだった。相変わらず全体的にいつも騒いだり、時間にルーズだったりしていたので、梅沢先生が来てから毎日しょっちゅう叱られるようになってしまった。
 梅沢先生は、よく給食が終わると、教室の後ろにある水道のところで歯磨きをした。それが歯ブラシを使って磨くのではなく、自分の人差し指で歯を磨くのだった。たしか歯磨き粉も使わず、塩を使っていたように記憶している。
 なぜそんなことを覚えているのかはわからない。それ以外のことはあまり覚えていないし、梅沢先生の写真も残っていない。決して冷たい先生ではなかったと思うし、むしろ教育熱心で生徒思いだったかもしれないと、今になると思ったりもする。
 しかしあの頃は生徒たちに全く好かれていなかったし、梅沢先生自身も好かれようとして愛想よくすることもなかったように思う。
 様々な学校を転々として、産休代理という大事な仕事をこなし、毅然とした態度で教鞭をとっていた梅沢先生だった。あの頃もしかしたら50代だったのだろうか。今の私と同じくらいだったということになる。
 今、私も学校で教えるという仕事をしているが、学生には嫌われたくないと思ってしまうし、愛想を振りまいてしまうこともある。今になると、梅沢先生のあの毅然とした態度を尊敬してしまう。
 高梨先生はたぶん3~4か月くらい休んだのではないだろうか。出産後は無事に復帰されたので、梅沢先生はまた他の学校に異動になった。その後どうされているかは全く聞いていない。



笛を吹いているのが私。
その後ろに水道と鏡が写っている。
この位置で梅沢先生はいつも歯を磨いていた。
写真は4年生の時。





2019年6月27日木曜日

23.女子だけに見せられた秘密の映画

写真はイメージです。内容とはあまり関係ありません。
校庭で。矢印が私。

 5年生のときの出来事で書き忘れてはならないことがあった。それは、たぶん他の小学校でも共通の出来事だと思う。私たち望洋小学校では、昭和51年のたしか夏ごろにあの出来事はあった。

 ある日、担任の高梨麗子先生が
「今日はこれから、女子だけ、部屋を移って映画を見ます。男子はその時間、校庭で自由に遊ぶ時間になります」
というような内容のことをクラスの皆に伝えた。その時、私たち女子たちは何故だか(あ、あの内容を見るのかな?)という想像がついたように記憶している。
 男子たちは「やったぁー」などと叫びながら、校庭に出て行った。隣の2組の担任の先生は角田昭雄先生(仮名)という当時40代の男の先生だったので、1組2組両方の男子を引き連れて校庭に出て行った。
 私たち女子は、その後別な教室へ移った。教室は黒いカーテンで遮光され真っ暗だった。カーテンの端をちょっとつまんで外を見ると、男子たちが元気にドッジボールをやっている光景が見えた。
 遮光された暗い部屋には、1組の女子の他に、2組の女子たちも全員いた。奥田さん、朝美さん、マコちゃん、オチャ、香澄ちゃんたちも座っていた。そして高梨先生の他に、保健室の山本節子先生(仮名)がいた
 最初にたしか山本先生から何か説明があって、その映画は始まった。30分程度の内容だったと思う。女の子がだんだんと大人になってくると体に起こる変化のことや、妊娠、出産のこともあったように記憶している。知っていたこともあったし、知らないこともあった。
 教育的映画だから、あまり楽しいものではなかったけれど、私たちは興味津々で静かに最後まで見ていた。
 映画が終わると、高梨先生から補足説明などがあった。「もし何かわからないことがあったら、遠慮なく私や山本先生に相談してください」というようなことだったと思う。
 5年1組の教室に帰って、しばらくすると男子たちが校庭から帰ってきた。男子たちと顔を合わせるのが何となく恥ずかしかった。私たち女子が何の映画を見たのか、男子たちは知っていたのだろうか。

 学校が終わり、下校はいつもと同じようにちっちゃんと一緒だった。
「なんか、びっくりしたねぇ」
「うん、ちょっとドキドキしたねぇ」
などと感想を述べ合いながら並んで歩いた。

 昭和のあの頃、日本のどこの小学校でも同じような時間があったと思う。今は内容もずいぶん変わった。もっと低学年でDV防止や人権も含めた教育があったり、男子も一緒に見るようになったとも聞く。
 時代や内容は変わっても、大事な教育の時間であり、私にとっても忘れがたい記憶の1つである。

2019年6月19日水曜日

22.走り幅跳び、まぐれで銀メダル

陸上大会の写真は残っていないので、「跳び」つながりで跳び箱の写真を。体が固く、それほど運動神経が良いほうではありませんでした。

 今もあるのかわからないが、私が小学校の頃は、オール横須賀市の小学生による選抜の陸上競技大会があった。
 不入斗(いりやまず)にある大きな陸上競技場で開催され、それに選抜されることは大変な名誉だった。
 たしか小学5年生と6年生が対象だったと思う。私が4年生の時には、5年生6年生の、体格が立派でスポーツが得意な先輩が選抜され、尊敬のまなざしで見ていたことを思い出す。
 
 翌年、私たちが5年生になり、夏休みが終わった頃だったと思う。先生から
「不入斗の陸上大会に出場する選手を決めるので、放課後に残ってください」
と連絡があった。
 それは全員ではなく、ある程度足が速いと思われているメンバーたちだった。男子は誰が選抜されたのかあまり覚えていないのだが、たぶん勉強もスポーツも得意だった大河内君は選ばれていたのではないか。それから足が速かったミソこと峰田洋貴君(仮名)や、クックンこと久木野栄一君(仮名)、タニはんと呼ばれていた谷橋慎一郎君(仮名)などがいたのではないかと思う。
 女子は、ちっちゃん、私、それから5年生の最初に転校してきた工藤敦子さん(仮名)など、数名が残るように言われた。
 隣の2組からは朝美さんやマコちゃん、そして5年生の時に転校してきた、オチャこと大浜由紀さん(仮名)などがいたと思う。オチャは運動神経が抜群でボーイッシュなかっこいい女子だった。同じボーイッシュなマコちゃんとは気が合うようで、二人はいつも一緒に行動していた。
 初日に全員でまず短距離競争をさせられ、たしかちっちゃんがトップで、短距離走に出場することが決まった。走り高跳びは朝美さんが選手に決まり、ほかにも幅跳び、ソフトボール投げ等の競技があって、それぞれ選手が選ばれたと思う。私は短距離の補欠になった。
 それから数日、大会の日まで放課後で練習があった。補欠の私も毎日やらなくてはならなかったけれど、いつも一緒のちっちゃんもいることだし、お気楽に遊びながらふらふらやっている感じだった。

 そして大会の数日前になり、幅跳びの選手がけがでもしたのだろうか、詳細は覚えていないが、急に「補欠メンバーから走り幅跳びの選手を選ぶ」という話になって、3~4人の女子が砂場で幅跳びをやらされた。
 全員あまり距離は出なかったけれど、一応私が一番いい記録(たしか3m3cm)が出たということで、選手になることが決まった。その頃の私は、同級生の中でも成長が早く、背も高かったのが良かったのかもしれない。
 家に帰ると、ちょうど用賀のおばあちゃんが来ていた。選手になったことを報告するととても喜んでくれて「じゃあ、いい運動靴を買ってあげる」と言って、一緒に近所の小さな靴屋さんに行った。買ってもらったのは白地に赤と青の線が入ったひも靴だった。靴底にギザギザがある、ちゃんとした運動用のシューズを買ってもらったのは生まれて初めてだった。
 それまでは運動会でリレーの選手として走った時も、普段履いている子供用の運動靴を履いていた。昭和のあの頃、小学生たちはまだスポーツメーカーのシューズなど持っている子はいなかった。
 私が買ってもらったのもブランドメーカー品ではなかったし、今考えれば昭和っぽいシューズだったけれど、おばあちゃんに買ってもらったことがとてもうれしく、当日は頑張れそうな気がしてきた。

 そして当日。不入斗の大会には、全市内から多くのアグレッシブな感じの小学生が集まってきた。望洋小学校にはいないタイプの、ちょっと不良っぽい女の子も沢山いた。
「ベイシティ ローラーズのファン」
「私も!」
などと会話している女子たちがいたのを覚えている。その時初めてベイシティローラーズという名前を知り、その後ベイシティローラーズを聴くたびにあの日のことを思い出す。
 私は気後れはしたけれど、緊張することはなく、いつも通り走り幅跳びを行った。
 すると跳躍の2回目に、自分でもスカッとするような、空を舞う感じの距離を跳んだ気がした。測定の先生が
「3m88cm」
と大きな声で言った。今までの最高は3m30cmくらいだったから、測り間違えかな?とも思ったけれど、まあいいや、良かった、いい記録が出たんだと思った。
 結局私は第2位、銀メダルを取ることになって表彰台に上がった。優勝した子の記録は3m92cmで、4cmの差だった。
 うちに帰って母に報告すると、とてもうれしそうに
「すごい、やったわね!としこは本番に強い子なのよ!」
と言った。母が喜んでくれたのはとても嬉しかったけれど、私は淡々としていた。それほど努力もしなかったし、入賞しようとして必死にもならなかった。もっと頑張っていれば嬉しかったのかもしれないが。
 結局「本番に強い子」という母の言葉を、素直な私は信じてしまい、その後も勉強やスポーツで努力することもなく「本番でどうにかなるだろう」という生活を送ってしまった。あの不入斗の大会のまぐれ入賞が、私にとって本当に良いことだったのかどうかはわからない。

 用賀のおばあちゃんの写真も載せておきます。
優しくて大好きでした。
私が3歳くらいのころ。

2019年6月14日金曜日

21.ドロケイ?ケイドロ?ドロジュン?

運動会の時に撮影。
放課後も男子達に混じって駆け回っていました。
矢印が私。

 私たちはドロケイとか、ドロジュンと呼んでいたけれど、地域によって様々な呼び名がある遊びを、子どもの頃、誰もが一度はやったことがあると思う。メンバーを「泥棒」と「警察」の半分に分けてやる、鬼ごっこの一種である。 私がこの遊びを放課後に盛んにやったのは、小学校5年生の時だった。
 前にも書いたように、5年生になった時、うちのマンション群の中に、新しく11階建てと7階建てのマンションが建設された。この2つのマンションが逃走の場で、牢屋はマンションの前にあるゴミ置き場だった。
 毎回メンバーは全部で15人くらいだっただろうか。私とちっちゃん以外は全部男子だった。今までの話にも登場したカノキャン、ヨネ、永岡君、いいちゃんなどと一緒に駆け回っていた。
 2つのマンションにはそれぞれ窓のあるエレベーターが付いていた。全ての階に停まるのではなく、3階おきくらいで、電車の急行のように通り過ぎてしまう階もあった。私が泥棒組でエレベーターを使って逃走している時、通り過ぎてしまう階に、誰か警察組の男子がいたりするのが窓から見えた。
「あ、としこみっけ!!」
「つかまらないよー、バイバーイ」
 男子は必死に階段を使って追いかけてきたが、エレベーターには勝てなかった。とても悔しそうにしている様子が楽しくてしょうがなかった。男子達は運動の得意な、すばしっこい子が多かった。そんな彼らを出し抜くのは快感だった。
 マエさんと呼ばれていた前園隆志君(仮名)は、後にバスケットボールの名選手になった。現在は某医学系の大学職員として活躍している。私も大学の仕事関係で前園君にはお世話になったことがある。
 前園君は、昔から人の面倒見が良く、小学校の時から友達を大切にする男の子だった。以前書いたエピソード、4年生の時の話で、遠足の朝にヨネがふざけて「さようなら」と言ったら、S先生に「さようならと言うなら帰れ!」と叱られてしまったという話があったと思う。それには続きがあって、落ち込んでしまったヨネに寄り添い、なぐさめて元気を出させてくれたのがマエさんだった。
 他にも今はANAの整備士になったセイちゃんこと藤原誠治君(仮名)や、グッチョこと溝口義人君(仮名)などがいた。セイちゃんは久しぶりに同窓会で会った時、ANAの整備士の制服が似合いそうな、素敵な人に成長していた。ドラマに出てきそうな雰囲気だった。
 グッチョは、私たち家族が住んでいた家の、下の階に住んでいた男子で、いろいろとうちの家族のプロフィールと偶然が重なっていた。理恵ちゃんという3歳下の妹がいて、私と同じ誕生日だった。それにグッチョの誕生日は、私の弟と同じ日だったのだ。さらにうちの母とグッチョのお母さんは同じ名前、漢字まで同じだった。
 彼は東工大の大学院から某ウォシュ〇ットの会社に就職した。同窓会では和式ウォシュ〇ットの開発の話を教えてくれてみんなが大爆笑だった。
「お尻の位置決めが定まらないから、水がピューッと頭上から降ってきてねぇ」
 試行錯誤を重ね、無事に和式用も商品化されたらしいが、あまり買う人もいなかったのか、90年代には販売終了になってしまったらしい。
 こうやって書いていたら、また同窓会をしたくなってきたなぁ。他にも楽しいメンバーはいっぱいいるのだけれど、またの機会に書いていきたいと思う。

36.【最終回】小学校を卒業、そして・・・

 日光修学旅行が終わった頃、卒業制作の話が高梨先生からあった。 「何か6年1組として記念になるものを作って、小学校の中に残しましょう」  花壇を作るとか、遊び道具を作るとか、いくつか案があったと思うが、話し合いの結果、「トーテムポール」を作ることになった。1組と...