2018年12月15日土曜日

43.光る泥だんごー男の子の友情


 男の子同士のプライドとか友情って、何だかかわいい、と思う。

 引っ越しが決まると、弟は他にも友達からたくさんプレゼントをもらっていたようである。私が一番印象に残っているのは「光る泥だんご」だった。
 小さい頃、泥だんごづくりにはまった人も多いと思う。公園の単なるそのへんの泥を固めて、乾かして、磨いていくと、最後には鉄の玉のような硬くてピカピカの球形になる。乾かしたりする時間も必要なので、制作には数日かかることもある。
 泥だんご作りは、一般的に年齢が上になればなるほど熟練の技を習得できる。だから自分より年上の子が作った泥だんごは、大きかったり、硬かったり、ピカピカだったりして、尊敬の対象でもあった。男の子たちは自分の作った泥だんごを友達の物とぶつけ合って、どちらが硬くて強いか競い合ったりもする。勝負に勝った強くて美しい泥だんごは、自分の価値の証でもある。子どもはそれを箱に入れて宝石のように大切に保管していた。
 引っ越しが近づいたある日、弟は家に帰って来ると、何やら見慣れない箱を手にしていた。
「その箱なあに?」
「泥だんご、もらった」
 弟は無造作に箱をテーブルの上に置いて、また外に遊びに行ってしまった。箱を開けると、やや小ぶりだが、とても硬そうな、まるで鉄のようなピカピカ光る泥だんごが1つ入っていた。あとで聞くと、公園で知り合った小学校高学年の男の子が、引っ越しのお別れ、友情のしるしとして弟にプレゼントしたとのことだった。
 その泥だんごが入った箱は、横須賀に引っ越してからもしばらく弟の机の棚に大切に保管されていた。たまに箱を開けると、泥だんごの状態は全く変わらず、硬そうにピカピカ光り輝いていた。
 今はあの泥だんご、どこに行ってしまったのだろう。まだ実家にあるのだろうか。

 下の写真、こちらは女の子同士の友情である。左から、じゅんくんの妹のひとみちゃん、さくらちゃん、私。
 ひとみちゃんが左手に持っている手提げみたいなのは、おさげ髪の女の子の顔になっている。ヤシの実をくりぬいてつくってあり、頭のところでパカっと蓋が開くようになっている。私が小さい頃、父から小笠原のお土産としてもらったものを、ひとみちゃんに譲ったのだと思う。最初、中には木の実と皮で作られたシャカシャカしたオレンジっぽいネックレスが入っていたことを覚えている。 
 女の子3人と、弟と、じゅんくん。私たち5人は、友情というよりも、本当のきょうだいのようにいつも一緒にいるのが当たり前だった。だから引っ越しをしてしまうのは、とてもさびしく、悲しい出来事でもあった。(つづく)



2018年12月14日金曜日

42.引っ越し決定&弟の初恋は!?

 子ども2人が大きくなるにつれて、錦糸町の1DKのアパートでは、家族4人が暮らすのは少々無理になってきた。そこで母はかなり前から引っ越しを考えていた。できれば持ち家、郊外のマンションでも買えたら、と思っていたけれど、全く貯金もない状態だったため、長い間、持ち家は単なる夢に過ぎなかった。
 それがある日、母は「頭金がゼロでも可」というマンションの分譲広告を新聞の中に見つけた。そのマンションは神奈川県の横須賀市にあって、今まで全くなじみのない場所だったけれど、早速応募をし、幸運にも当選することができた。
 「来年の3月末に引っ越しすることになったから。4月からは横須賀の小学校に転校することになるから」。父と母からそう聞いて、私は「へぇー、私が転校生になるの?」と少しワクワクしたことを覚えている。よくドラマにも出てくるようなシーンを頭の中で描いた。教室の前で、私が一人立っていて、先生が「今度引っ越してきた俊子さんです」と紹介するシーンである。クラスメイトの皆が「俊子さんって、どんな子だろう」と私に注目している。
 しかし現実は、横須賀のマンションは大規模開発による新興住宅地だったので、新しく小学校が1つ出来て、全員が転校生だったのである。私の甘酸っぱい転校生のシーンは、現実のものとはならなかった。
 ところで前回お話ししマリコちゃんと弟の初恋は、突然の引っ越しにより幕を下ろすことになる。お別れの日が近づいたある日、弟はマリコちゃんから絵本『しろいうさぎとくろいうさぎ』をプレゼントされた。それはマリコちゃんの家にあったもので、弟がとても気に入って何度も読んでいた絵本だった。この絵本は有名なので、お話しを知っている人も多いと思う。

 しろいうさぎと くろいうさぎ、二ひきのちいさなうさぎが、ひろい もりのなかに、すんでいました。
 まいあさ、二ひきは、ねどこからはねおきて、いちにちじゅう、いっしょに たのしくあそびました。
 でもあるとき、くろいうさぎは、とてもかなしそうなかおをしました。
 心配になったしろいうさぎがたずねると、くろいうさぎはいいます。「ぼく、ねがいごとをしているんだよ。いつの いつも、いつまでも、きみといっしょにいられますようにってさ」。
 するとしろいうさぎは「ねえ、そのこと、もっといっしょうけんめいねがってごらんなさいよ」といいます。
「これからさき、いつも きみといっしょに いられますように!」
「じゃ、わたし、これからさき、いつもあなたと いっしょにいるわ」

 まるでくろいうさぎは弟で、しろいうさぎはマリコちゃんだと思った。絵本の中で二匹はたしか最後に結婚をしてハッピーエンドになるお話だったと思う。弟とマリコちゃんは、絵本のようにはいかなかったけれど、きっと、うさぎたちのように「ずっと一緒にいたい」と思ったのではないかと思っている。
 
 今回で42回となった私の錦糸町の昔話も、そろそろ終わりが近づいて来た。引っ越しまで、あと2~3回、話を続けたいと思う。

今でもこの絵本は実家にあって、それを写真に写しました。






2018年12月12日水曜日

41.番長になれた?弟の初恋?


 第35回で「弟が番長になれなくって登園拒否をした」という話を書いた。入園当初はそうだったけれど、年長組に上がる頃には、番長、というか一番のリーダー的存在にはなれたのではないかと思っている。
 リーダーは、ただ腕力が強いだけではなれない。優しさとか信用とか、それに仲間だけではなく、上の人にも気に入られないとリーダーにはなれない。
 弟は赤ちゃんの頃から女の子や女の人(オバサンも含む)にとても好かれる男の子だった。全ての女性に愛想がよく、まめで親切にすることを恥ずかしがらないからだと思う。だから弟は、幼稚園で担任の先生以外にも人気があった(先生は全員女性)。別なクラスの若い先生からも弟に年賀状が届いたりして、母は非常に驚いていた。
 墨田二葉幼稚園では、毎年年長組の園児たち全員で鼓笛隊を作るのが習わしだったが、弟は、鼓笛隊の大だいこ担当を指名された。大だいこは鼓笛隊のトップで、一人だけのパートである。たぶん先生たちからリーダーとして認識されていたからだと思う。
 2枚目の写真で、大だいこの弟の前に写っている女の子が、指揮を担当しているマリコちゃんである。指揮者も通常、一番しっかりした子が選ばれるパートである。マリコちゃんはかわいくて、幼稚園生ながら本当にしっかりした女の子だった。写真には背筋をしっかり伸ばし、堂々と指揮棒をあやつるマリコちゃんの姿が写っている。
 これは私の推測だが、マリコちゃんは弟の初恋の人だったと思っている。同じビルに住んでいたマリコちゃんと弟は、よく家を行き来していて仲良しだった。女の子に優しい弟だから、たぶんマリコちゃんも好意を抱いていたのではないかと思う。
 ところでその頃の私はというと、小学校一年生から三年生の間は、特に好きな男の子はいなかった。男の子たちに混じって紅一点で遊ぶこともよくあったけれど、好きという感情は全くなかった。
 幼稚園の時は「隊長」にあんなにぞっこんだった私だが、残念ながら錦糸小学校には好きなタイプの男の子はいなかったようである。

2018年12月10日月曜日

40.総武快速線の開通、三越のお子様ランチ

私が生まれた昭和40年、国鉄の錦糸町駅には、黄色い総武線のみが走っていた。それが昭和47年の7月、津田沼と東京の間に総武快速線が開通し、錦糸町の駅から東京に乗り換えなしで行けるようになった。
 私は鉄道マニアではないけれど、子ども心に総武快速線は新しくてかっこいい電車だと思った。クリーム色に紺色の線が入った早い電車は、全く新しい時代の乗り物のように感じた。馬喰町のあたりから地下にもぐるのも斬新だった。
 総武快速線で一番思い出にあるのは、新日本橋駅にある三越へよく出かけたことである。あの頃のデパートは、どの階も混んでいて活気があった。お中元やお歳暮の時期に出かけたり、洋服を買ったりするのが目的だった。
 母はだいたいバーゲンで洋服を買っていた。山積みにされた洋服に、母のような30代から40代くらいの女性たちが群がって洋服の取り合いをしていた。今ではあまり見かけなくなった光景だと思う。小さかった私と弟は、人混みの中で迷子にならないように頑張って母を待っていた。
 ひととおり買い物が終わると、デパートの最上階にある食堂でお子様ランチを食べる。「三越」と書いた旗の立っているチキンライス、スパゲッティ、ハンバーグ、エビフライ、ヤクルト、そして何かおもちゃがおまけで付いていた。いつの時代も、お子様ランチは子どもたちにとってワクワク嬉しいものだと思う。
 日本橋三越は、お子様ランチの発祥の地としても有名である。昭和5年に「御子様洋食」というのが初めて提供されたらしい。私たち子どもはそれから約40年後に食べていたことになる。自分が50年以上生きてきて、あっという間だったから、昭和5年はそれほど昔ではなかった気がしてしまう。
 そういえば、家でもたまに母がお子様ランチを作ってくれることがあったっけ。母の作ってくれたお子様ランチも嬉しかった。お茶碗で型を作ったチキンライスに、ちゃんと旗も立っていた。私と弟は「わーい、お子様ランチだー」と喜んで食べていた。
 下の写真は、錦糸町の狭い家で食事をしている私と弟である。母がお子様ランチを作ってくれる時は、この茶色いお皿に盛りつけてくれていた思い出がある。
 当時にしてはテーブルでの食事だったし、新しい暮らしだったのだと思うが、今見ると大昔の光景である。穴が規則的に空いたボードを壁に貼り付けて、お玉や茶こし、まな板なんかを下げるのが当時の流行りだった。懐かしいなぁ。

2018年12月7日金曜日

39.モヒカン刈りの怖い人と友達だった、じゅんくんと弟

男の子同士、じゅんくんと弟は本当の兄弟のようでした。

 赤ちゃんの頃から私にいつもくっついていた弟も、幼稚園に入るとだんだんと男の子らしくなって、遊ぶ相手も変わっていった。一番の仲良しは隣に住んでいたじゅんくん。じゅんくんは弟より2歳上の昭和41年生まれ。本当の兄と弟のようにいつもつるんで遊んでいたことを思い出す。
 男の子の友人関係は、女の子の私には理解不能だった。何となく軍隊のように序列があって、じゅんくんと弟には主従があるように見えた。あらためて写真を見ると、じゅんくんはちょっと反抗的で年下の男の子があこがれるようなニヒルな風情がある。彼は運動神経が良く、すばしっこい男の子だった。錦糸堀公園やビルの屋上を縦横無尽に駆け回るじゅんくん。小さい時の2歳の違いは大きい。弟もじゅんくんに置いていかれないよう、いつも全力疾走でくっついて遊んでいた。
 男の子たちは勝負が大好き。ある日、ビルの階段の何段目から飛び降りることができるか競争になった。もちろん年上のじゅんくんの方が高い所から飛び降りることができる。しかし負けず嫌いの弟は、じゅんくんに負けまいと実力以上の無理をして、結局またケガをして帰ってきた。何度ケガをしても懲りない弟だった。 
 じゅんくんと弟には、他にも多くの男友達がいた。同じビルの別な階に住む、私と同級生の栄一くんとか、公園の横にある食堂の息子の和弘くんなど。小学校高学年の男の子たちともいつの間にか友達になって、よく公園で野球などをして遊んでいた。(ちなみに栄一くんの妹は、弟と同じ幼稚園に通っていたマリコちゃん。たぶん弟の初恋の人)
 じゅんくんと弟は、もう少し年上の人たち、大人ともよく友達になった。ある頃から、弟は私と母に「ウルトラマンのおっちゃんが…」とよく言うようになった。「ウルトラマンのおっちゃん?何それ」と最初は理解できない私と母であった。
 しかしある日、錦糸堀公園で弟とじゅんくんが、モヒカン刈りの怖そうな青年と、笑い転げながら会話をしている姿を見かけた。何とそれが弟の言う「ウルトラマンのおっちゃん」だったのだ。
 モヒカン刈りのその青年は、公園横のバーで働いているようだった。まだ夜にならない夕方、開店の準備をしている時に、弟たちは会話を交わすようになったらしい。強面にモヒカン頭。堅気の大人たちなら絶対に近寄れない部類の若者だったが、無邪気な弟たちはいつも笑い転げながらその若者と会話をしていた。きっとその若者もやんちゃな子どもたちと会話ができて嬉しかったのだと思う。いつも面白いギャグのようなセリフで弟たちの相手をしてあげていた。
 50歳になった弟は、今でも人懐っこくて、どんな部類の人たちとも仲良くできるところは変わっていない。じゅんくんは25歳の時に病気で還らぬ人となった。じゅんくんは今、天国でどんな52歳になっていることだろう。



2018年12月4日火曜日

38.忘れ物の女王

 清澄庭園かどこか。
一見しっかりしているように見えるけれど、
忘れ物をよくしていた2年生から3年生の頃

 この一連の昔話を友人に読んでもらい感想を聞くと「よく昔のことを覚えているね、記憶力がいいんだね」と言われる。
 しかし小さい頃の私は、いつも何かしら考え事をしていてぼーっとしていた。あまりにもぼーっとしているので母が心配して「何考えているの?」と話しかけると、「あの雲、象さんみたい」と私は空を指さしながら答えたという。
 日曜日にはよく家族で清澄庭園や里見公園などへ遊びに出かけることがあったが、到着した途端、私は「ねえ早く帰ろうよ」とつまらなそうに言って、よく両親に叱られた。現実にどこかに遊びに行くよりも、頭の中で空想しているほうが好きだったのかもしれない。自分ではあまり意識していなかったが、現実逃避をしているちょっと変わった一面もあったのだと思う。
 そんな私は、小学校に入ってから忘れ物をすることが多かった。宿題だったり、提出物だったり。自分では「次は気を付けよう」と思うのだが、忘れ物をする癖はなおらなかった。
 3年生になると、クラス替えがあり、同時に担任の先生も替わった。1.2年生の時は若くて優しい長田美代子先生だったけれど、3年生になると50代のベテラン、川端志津先生が担任になった。
 川端先生は教育に厳しいことで有名だった。勉強だけではなく、生活習慣に関してもしつけをきちんとする方針だった。掃除のしかた、雑巾の絞り方なども川端先生は事細かに教えてくれた。忘れ物に関しても厳しく、忘れ物をした生徒の名前を棒グラフにして教室の後ろに貼りだしていた。1つ忘れ物をすると、自分の名前の棒に自分で書き加えるシステムになっていた。
 私は自分の名前が貼りだされるのは恥ずかしいと思ったけれど、どうしても忘れ物をしてしまう癖は治らなかった。それでもあまり悩んでいたわけでもなく、母にも相談せず、内緒にしていた。
 しかしある授業参観の日に、母はそのグラフを目の当たりにしてしまったのだった。何とその時、私は忘れ物の数が他の誰よりもダントツで多く、棒グラフが一人だけひょーんと高い状態だった。母は他のお母さんたちの前でとても恥ずかしい思いをしたと言う。
 その後しばらく母は、私が学校に行くときに「忘れ物はないの?」と聞くようになった。しかしそれはあまり意味をなさなかった。「宿題が出されたこと」自体を忘れてしまっているのだから。常に私の返事は「忘れ物?ないよ!」だった。そして学校で授業が始まると「ああ、今日も忘れ物をしてしまった」と気付くのであった。
 そんな子供だった私が今、学校で教員をやっているのだから、人生は本当にわからないものである。

2018年12月2日日曜日

37.アグネス・チャンの歌をいつも歌っていた頃


小学校2年生ごろ。母方のいとこたちと。
灯篭の隣が私。
昔はいとこがいっぱいいた時代でした。

 アグネスのファンになったのは、たしか小学校1年生から2年生の頃だったと思う。あの頃のアグネスは20歳前後だっただろうか。妖精のような容姿と、舌足らずな高い声が本当にかわいかった。
 私は10チャンネルで毎週夜8時から放映されている「ベスト30歌謡曲」という番組が楽しみで仕方がなかった。司会は愛川欽也だったと思う。アグネスが白い衣装で「草原の輝き」や「ポケットいっぱいの秘密」などを歌う姿は本当に妖精のようだった。(その頃ガロの「学生街の喫茶店」などもよく1位になっていた)。
 私は毎月、小学館の「小学1年生」や「小学2年生」を買っていて、付録だった歌謡曲の歌詞を書いた本を大切にしていた。それを見ながらよく部屋の真ん中でアグネス・チャンの歌を歌っていた。直立不動でマイクを持つしぐさをしながら、アグネスになりきって高い声でものまねをしていた。
 観客は母と弟だけ。というか錦糸町の家は1DKワンフロアのとても小さな住まいだったので、母と弟は私の歌を強制的に聞かされていたのだった。母に「その変な歌い方はやめたほうがいい」とよく言われたけれど、まったく聞く耳を持たない私だった。
 クラスの同級生の中にも、アグネスのファンは多かった。「みつ」こと三矢久美ちゃん(仮名)もファンの一人で、彼女とはアグネスの話題で仲良くなっていった。
 錦糸小学校の同級生の家は、お店や会社を営んでいる家が多く、みつの家は肉の卸売業を営んでいた。彼女の家に最初に遊びに行った時は驚いた。家の建物に入ると、牛だか豚だかの大きな胴体の半身がたくさんぶらさがっていたのである。その肉の間をすりぬけて私たちはみつの部屋に行き、アグネス・チャンの歌を一緒に歌ったりして楽しんでいた。
 みつは私の狭い家にもよく遊びにきてくれた。歌を歌う以外、何をして遊んでいたのかはあまり覚えていない。しかしわりと遅くまで二人で遊んでいたらしい。
 母は「5時ぐらいになって、みつに『そろそろお母さんが心配するから帰った方がいいんじゃない?』と言うと『ううん、心配しないから大丈夫』と言って帰らなかったのよ。おうちでご商売をしていたから、ご両親も忙しかったのかしらね。暗くなるし心配だったけれど、それよりもあまり遅くなると夕飯を出してあげた方がいいかしら、なんてことも気になっちゃって。その頃うちは本当にぎりぎりの生活だったから、お魚だとか、食べ物も人数分しか買っていなかったの」と言う。
 そんなささいなことを覚えている母に驚いた。子どもの私は一度もひもじい思いをしたことがなかったけれど、あの頃の母は子どもにそう思わせないよう、一生懸命やりくりをしていたのだ。有難いと思う。

36.【最終回】小学校を卒業、そして・・・

 日光修学旅行が終わった頃、卒業制作の話が高梨先生からあった。 「何か6年1組として記念になるものを作って、小学校の中に残しましょう」  花壇を作るとか、遊び道具を作るとか、いくつか案があったと思うが、話し合いの結果、「トーテムポール」を作ることになった。1組と...