2019年7月31日水曜日

28.ピンクレディーを踊った男子を見て衝撃を受ける

一番右が私。私の隣がいいちゃん。
真ん中に立っているのがマエさん。
一番左がちっちゃん。

 あれは5年生が終わる時の、お楽しみ会か何かの時だったのだろうか。細かくは覚えていないのだが、いいちゃんこと飯坂哲太君と、マエさんこと前園隆志君の2人が、クラスの皆の前でピンクレディーの「S.O.S」を歌いながら踊ったことがあった。
 その頃、ピンクレディーは人気が出始めて、テレビでよく見るようになっていたが、まだ誰もが真似をして踊る時代は到来していなかったし、その後の大ブレークは誰も予測していなかったと思う。まだ「ちょっと色っぽい、変わった踊りをする新人歌手」というイメージだった。
 なので、いいちゃんとマエさんが皆の前で踊る姿を見た私はかなりの衝撃を受けた。
「大人の色っぽい踊りを、小学生の男の子が皆の前で踊るなんて!」と。
 しかしそれと同時に
「小学生も踊っていいんだ! 私も覚えて踊りたい」
という気持ちが沸き上がって来た。
 さっそく私は親友のちっちゃんと一緒に、ピンクレディーの踊りを覚えることにした。私はミーちゃん、ちっちゃんはケイちゃんの担当になった。
 その頃は毎日のようにテレビ番組で歌番組が放映されていたので、番組をチェックしながら踊りを覚えた。まだ家庭用の録画機は登場していなかったので、ひたすら放映に集中して踊りを覚えるようにした。その頃から、雑誌には、よくピンクレディ―の振り付けが写真でコマ送りになって解説されたページが掲載されていたので、私たちはそういった雑誌を買って一生懸命覚えたりもした。
 「S.O.S」のヒットの後は、「カルメン’77」や「渚のシンドバッド」など連続のヒットがあった。もうその頃には日本全国の小学生から中学生、それ以上の大人たちもピンクレディーに夢中だった。
 「渚のシンドバッド」では、途中の
「♪くちびる 盗む 早業は 噂通りだわ あなた シンドバット」
という所で、ハモったりもする。私はミーちゃん、ちっちゃんはケイちゃんのパートを受け持ってハモりも練習して歌えるようになった。
 私たちが何かの催しで歌と踊りを披露するということはなかったけれど、ただ純粋に歌や踊りが楽しかった。テレビを見ていたら歌って踊らずにはいられない、そんな気持ちだったと思う。
 あの頃の小学生は、誰もが同じ気持ちだったと思う。そして誰もがピンクレディーを歌って踊ることができたのではないかと思う。
 大人になって社会人になり、職場の皆と一緒にカラオケに行く機会があった。同じ人事部に配属になった同期の女子と、何の打ち合わせもせずに、「渚のシンドバッド」をハモって踊ることができた。部長さんや課長さんたちは非常に驚いていたけれど、私たち世代にとってはそれほど珍しいことではないような気がする。
 ちなみに、その女子とはあみんの「待つわ」も完璧にハモることができた(笑)。


2019年7月27日土曜日

27.昭和な卒業アルバムを実家で発見

 実家にて望洋小学校の「卒業アルバム」なるものを見つけ、すっかり忘れていた写真をいくつか発見したので、今回はそれを掲載したいと思う。

 不入斗(いりやまず)の陸上大会において、走り幅跳びで銀メダルを取った日の写真は現存していないと思っていたが、集合写真を見つけた。それが上の一枚である。
 後列の真ん中あたり、男性の先生の左肩で一番笑っているのが私である。41番というのは、たぶん望洋小学校の番号だと思う。母によると、このゼッケンを前日の夜にあわてて縫い付けた記憶があるという。
 私の前に座っているのが2組のマコちゃんで、首にメダルをぶら下げている。たぶんソフトボール投げで入賞したのだろう。
 男子は、みそ、くっくん、谷はん、女子はオチャなども写っているので、私の記憶は正しかったようである。
不入斗陸上大会の話はこちらです⇒


1組の歴史年表もあった。6年に上がる時にはクラス替えはなかったので、そのまま6-1になった。「農家旋風」は5年の5月ごろに始まり、6年の6月頃に衰えたらしい(笑)。

 高梨先生(仮名)の産休のこともあった。翌年の1月に戻ったとあるので、やはり3~4か月だったようである。代用教員のアパッチ先生(ニックネーム)が来たことも書いてある。



 アパッチ先生の写真は残っていないと思っていたけれど、卒業アルバムには残っていた。昭和51年10月に箱根に行った時の写真である。
 最後列の右端に写っているのがアパッチ先生である。記憶の中では「70代に見えた」などと書いたが、実物は意外と若くてきれいだったので驚いた。
 ここに載せたのは2組の方の写真である。これと同じ構図で私たち1組の写真もあるのだが、(私のスマホの撮り方が)不鮮明だったのでこちらを掲載した。

 2組の顔ぶれを見て思い出したことがある。1組に比べると、しっかり勉強している児童が多い2組であった。望洋小学校は新興住宅地なので成績の良い子が多かったこともあり、2組では父兄から
「テストで良い点を取っているのに、通知表の評価が悪い」
と苦情があったらしい。相対評価なので成績の良い子が多いとそうなってしまう。
 2組担任の角田先生(仮名)も、しっかり学習を習慣づける指導をしていたらしい。「ホームランノート」なるものを作り、家庭学習をするように指導していたとのことである。
 1組はあまりそのような記憶がない。農家旋風が吹き荒れている1組と2組とは大違いだったのが笑える。




2019年7月18日木曜日

26.初めてのバレンタインデー

ちっちゃんと私。
修学旅行の時。
だいたいいつも二人一緒でした。

5年生の時は、ちっちゃんも私もまだ好きな男の子はいなかったけれど、いつも仲良くしているクラスの男の子たちが4人いた。
 同じマンションに住んでいたその男の子たちの家には放課後よくみんなで遊びに行った。一人の男の子のお父さんはベース(横須賀米軍基地)に勤めていたので、開放日にはお父さんが6人をベースに連れて行ってくれたりもした。
 その6人の中では「〇〇が△△のこと好きだって」という話は一切出なかったし、恋愛感情もなかったと思う。しかし何となくグループ交際をしている気分にはなっていたかもしれない。

 年が明けて昭和52年の2月のこと。私たちはテレビのコマーシャルで「バレンタインデー」なるものを知った。
 そしてある日、学校の帰り道でちっちゃんから
「ねぇねぇ、今度バレンタインデーに、あの4人にチョコレートあげない? 私たち2人からってことで」
と提案があった。
 ちっちゃんは小さくてまだ色気も何もなかったけれど、写真でもわかるようにとてもかわいらしく、活発で積極的な女の子だった。私と同じように楽しいことが大好きだった。
「うん、面白そう、あげようあげよう!」
 私はすぐに賛成をした。
 数日後の2月14日月曜日の放課後、私たちはお小遣いを出し合ってお菓子屋で「不二家ハートチョコレート」を4つ買った。当時は1つ50円だったので、それぞれ100円ずつを出し合った。
 プレゼント用のラッピングをしてもらったかどうかは全く覚えていない。もしかしたらラッピングは一切なかったかもしれない。
 それに一人一人にどうやって手渡したのかも覚えていない。たぶん4人の家に直接2人で訪ねて行って、ただ「はいっ」と手渡しをしたような気がする。男の子の方も普通に「ありがとう」ともらってくれたように思う。
 特に好きだとか告白するという目的はなかったので、ドキドキもしなかった。けれど私たちは何となくウキウキ楽しかった。あれはまぎれもなく「人生最初の」バレンタインデーだった。そして人生で一番純粋でかわいらしいバレンタインデーだったと思う。

 今回この話を掲載するにあたって、ちっちゃんに「載せてもいい?」と一応許可をもらったのだが、ちっちゃんは「え、そんなことあった?」とすっかり忘れていた。「不二家のハートチョコレート」の名前を出したら「そういえばそんなことあったかも。うっすらと思い出してきた」とのことだった。
 何しろ42年も前のことだから忘れていても不思議ではない。渡した4人の男子も忘れているかもしれない。いや、私のこの記憶自体が正しいのかどうか。本当にあったことなのかもあやしい。
 そんなわけで、いつもは本名に基づいた仮名でお話を書いているけれど、今回はその4人が誰だったのか、同級生にも判らないよう仮名も出さないようにしておこうと思う。
 

2019年7月12日金曜日

25.そろばん教室に通い始める

親戚のおばさん、いとこたちと。
用賀のおばあちゃんの家の前で。
後列左が私。

 錦糸町に住んでいた頃、バレエが習いたくて教室に通っていた私だったが、横須賀に引っ越す時に辞めてしまい、4年生の時は習い事をしていなかった。


 5年生の秋ごろ、突然母が弟と私に「そろばんを習いなさい」と言った。「計算が得意になるから。お母さんも小さい頃、学校でそろばんを習ったのよ。そろばんは出来た方がいいわよ」とのことだった。
 たしかに母は毎日家計簿をつける時にそろばんを使っていた。その光景は私にとってなじみ深かった。幼児の頃は母がそろばんを使う姿をかっこよく思い、出来もしないのに指で弾いて真似して遊んだりしたこともあった。
 昭和50年頃、電卓はすでに登場していたけれど、まだ高価な時代で、日本人が計算する時はそろばんが主流だった。
 2年生だった弟は、その頃、毎日学校から帰って来ると、友達と野球をするのに忙しかった。自分の部屋にランドセルを置く時間ももったいないらしく、いつも玄関の所から部屋に向かって勢いよくランドセルを投げていた。だから「そろばんなんて習いたくないよ」と言って、母の言葉をスルーした。
 私は「そろばん、ちょっと習ってみるのも面白いかも」と思って、一人で通い始めることにした。上の写真に写っている世田谷の親戚のまみちゃんもそろばんを習っていて段位まで取っていると聞いた。まみちゃんは私よりも1歳下だったので、「私だって」と、少々刺激されたこともあったのかもしれない。
 その頃、私たちが住んでいたマンションのすぐ近くに「岡花珠算教室」というのがあった。通っている子供たちは教室名と交通標識がプリントされた黄色のビニールバッグを持ち歩いていたので、ずいぶん前から教室の存在は知っていた。
 教室の岡花先生は、とても優しい50代の夫婦だった。ダンナさんの先生はNHKアナウンサーの鈴木健二に似ていた。声にも張りがあってきびきびした先生だった。奥さんの先生はちょっと女優の小林ちとせに似ていると思っていた。
 たまに20代と思われる娘さんが手伝いで現れて、ストップウォッチで時間を計ったり、読み上げ算の時に「願いましては~」と生徒を教えることもあった。
 珠算教室には私よりも学年が下の生徒が多かった。教室には3人掛けの机と椅子が並べられ、50人以上は入れる広さだったように記憶している。子どもたちは始まる前はいつもガヤガヤと騒がしかったけれど、ストップウォッチで時間が計られ始めると、みんな集中して練習に励んでいた。
 私もやっているうちに、そろばんの面白さにはまって、意外と真面目に教室に通っていた。中学に入る頃まで通っていたかもしれない。最終的には2級まで進んだ。3桁か4桁の暗算などもできたのではないかと思う。暗算ができることはけっこう日常的に便利だった。
 しかし高校を卒業して簿記学校に通い始めてからは、暗算が全くできなくなってしまった。簿記学校では「暗算はダメ。全部電卓で計算すること」と言われていて、そうしているうちにいつのまにか暗算ができなくなってしまったのだ。
 現代はもう、そろばんを習う子どもはほとんどいないのではないだろうか。子どもの習い事の種類も増え、お受験の塾で忙しい子も多くなった。日本人も日常でそろばんを使う機会はほとんどなくなってしまったし、街のそろばん教室も、教えられる先生も減ったと思う。電卓でさえ、今ではずいぶん安価になってしまった。
 黄色いバッグを持った、沢山のこどもたちが近所を歩いている姿は、昭和のあの頃の懐かしい光景の一つだと思う。


2019年7月4日木曜日

24.高梨先生の産休と、アパッチ先生登場

ふくよかな体型だった高梨麗子先生(右端)。

 あれはたしか、5年生の秋、9月の25日くらいだったと思う。下校の前の時間に担任の高梨先生から重大発表があった。
「実は二人目の赤ちゃんが生まれることになったので、10月からしばらく産休に入ります」。
「ええっ?」
 私たち5年1組の生徒はびっくり仰天して一斉に大声を上げた。
 あの時、高梨先生は妊娠何か月だったのだろう。そしてどのくらいの期間、休んだのだろう。細かいことは覚えていないし、徐々にお腹が大きくなっていく高梨先生の姿もあまり記憶がない。先生はふくよかな体型だったため、お腹があまり目立たなかったのではないかと思う。
「来月から、代理の先生が来ます」
「えーっ、どんな先生ですか?」
「女性の先生で、梅沢サダ先生(仮名)といいます。産休の補助を専門にされて、様々な学校を担当されてきたベテランの先生です」。

 そして10月の初日から、私たちの担任は梅沢サダ先生になった。梅沢先生はあの頃、何歳だったのだろう。私の記憶の中では70代だったように思えるのだが、まさか定年が55歳か60歳の時代に70代の先生がいるはずがない。しかし顔には多くのしわが刻まれ、まさに「おばあさん」という感じの女性だった。
 5年1組の悪ガキたちは早速、梅沢先生に「アパッチ」というあだ名をつけた。その頃にテレビで放映された『アパッチ』というネイティブアメリカンの映画に出てきた俳優に、しわの感じがそっくりだったからである。
 アパッチと言うあだ名は、梅沢先生にはもちろん内緒だったが、男子達は梅沢先生が教室に到着すると、みんなで一斉に、しかし気付かれないくらいの小さな声で「アパッチ、アパッチ、アパッチ、アパッチ・・・」と合唱するのだった。私たち女子は笑いをこらえるのに必死だった。
 高梨先生が産休に入る前、生徒たちは自由奔放に毎日を送っていたけれど、梅沢先生はとても厳しく、きっちりとした先生だったので、私たちはそのギャップに少々ついていけない感じだった。相変わらず全体的にいつも騒いだり、時間にルーズだったりしていたので、梅沢先生が来てから毎日しょっちゅう叱られるようになってしまった。
 梅沢先生は、よく給食が終わると、教室の後ろにある水道のところで歯磨きをした。それが歯ブラシを使って磨くのではなく、自分の人差し指で歯を磨くのだった。たしか歯磨き粉も使わず、塩を使っていたように記憶している。
 なぜそんなことを覚えているのかはわからない。それ以外のことはあまり覚えていないし、梅沢先生の写真も残っていない。決して冷たい先生ではなかったと思うし、むしろ教育熱心で生徒思いだったかもしれないと、今になると思ったりもする。
 しかしあの頃は生徒たちに全く好かれていなかったし、梅沢先生自身も好かれようとして愛想よくすることもなかったように思う。
 様々な学校を転々として、産休代理という大事な仕事をこなし、毅然とした態度で教鞭をとっていた梅沢先生だった。あの頃もしかしたら50代だったのだろうか。今の私と同じくらいだったということになる。
 今、私も学校で教えるという仕事をしているが、学生には嫌われたくないと思ってしまうし、愛想を振りまいてしまうこともある。今になると、梅沢先生のあの毅然とした態度を尊敬してしまう。
 高梨先生はたぶん3~4か月くらい休んだのではないだろうか。出産後は無事に復帰されたので、梅沢先生はまた他の学校に異動になった。その後どうされているかは全く聞いていない。



笛を吹いているのが私。
その後ろに水道と鏡が写っている。
この位置で梅沢先生はいつも歯を磨いていた。
写真は4年生の時。





36.【最終回】小学校を卒業、そして・・・

 日光修学旅行が終わった頃、卒業制作の話が高梨先生からあった。 「何か6年1組として記念になるものを作って、小学校の中に残しましょう」  花壇を作るとか、遊び道具を作るとか、いくつか案があったと思うが、話し合いの結果、「トーテムポール」を作ることになった。1組と...