2019年3月30日土曜日

13.T大に行った大河内君と、漢字のテスト(下)

春の遠足。大河内君は後列の右から2番目。保健の先生の隣。
いつも阪神の野球帽でした。
私は前列左から2番目。

 毎朝の漢字テストが終わると、S先生は教室ですぐに採点を行った。生徒たちは先生の机に群がって、先生が採点するのを見ることができた。
「ああ、惜しいなあ、このたて棒は突き抜けないんだよね」
 S先生は解説をしながら採点を行った。 
 たしか漢字テストの第1クールは、期間が短かったのか、最後まで満点を取り続ける生徒が数人いたと思う。そして第2クールは少し期間が長くなって、途中で脱落する生徒が多かった。
 私は母のサポートのおかげで、第2クールの後半も満点を取り続けていた。気が付くと脱落していないのは、大河内君と私だけになっていた。
 クラスの皆は、自分の点数も気になって先生の採点を見ていたが、私と大河内君、どちらが勝つのか、もしくは二人とも最後まで満点を取り続けられるのかにも注目していた。
 私自身は勉強に欲がなかったので、「絶対勝つぞ」という意識はなかった(もっと欲があれば人生違っていたかもしれない)。母もあまり欲がない方だったけれど、今までの続きで毎日練習につきあってくれた。
 最終日の前日まで、私も大河内君も満点を取り続け、そして迎えた最終日のこと。私は何と風邪で熱を出し、学校を休むことになってしまった。風邪は中程度で、無理をすれば出席できたかもしれない。しかし母は「最終日なんだから、少し無理をしてでも行きなさい」とは言わなかったし、私もそこまでの意地もなかった。
 朝からずっと家で寝ていると、午後の3時過ぎに電話がかかってきた。母が出て玄関から話している声が聞こえた。終わると母は私の部屋に来た。
「大河内君のお母さんからだったわ」
「えーっ」
 大河内君のお母さんからうちに電話がかかってくるのは初めてだった。授業参観日に見かけた感じだと、私の母とはちょっと格が違うハイソなお母さんだった。勉強にも熱心な雰囲気だった。大河内君はお姉さんもいたから、私の母よりも年齢は少し上だったと思う。母はいきなり電話がかかってきたことに少々緊張していた。
「大河内君のお母さん、『風邪、大丈夫ですか?』って。それから『漢字テスト、残念でしたねー、でも健康も勉強のうちですからね』、だって。なんだか悔しかったわ」
 大河内君のお母さんがうれしそうに微笑んでいる姿が浮かんできた。私もちょっと悔しかった。しかしその悔しさをばねに勉強を頑張るようになった、ということもなく、その後も私の成績はぱっとしなかった。あの漢字テストの頃が一番ピークだったかもしれない。
 ところで大河内君はT大を卒業後、某メーカーに就職し、今は中部地方でエンジニアとして活躍している。横須賀で同窓会があるときは、いつも新幹線に乗って駆け付けてくれる。小学校の時はちょっと近寄りがたくてあまり話したことはなかったけれど、大人になって話すと、楽しいし意外といいヤツだったなぁと思う。大河内君に
「お母さん、元気?」
と聞いてみたら
「もう80代で、ずいぶんくたびれてきたよ。介護はまだ必要ないけど、自分のことで精いっぱいかな。今日も遅くに実家に寄ると負担かけるから、そのまま新幹線で自宅に戻ろうかと思ってる」
とのことだった。
 皆、同級生の親は似たような状況になってきた。あの漢字テストの頃、元気で子どもの教育にもやる気で満ち溢れていた大河内君のお母さんも例外ではなかった。
 うちの母も80歳。ずいぶんくたびれてきた。小4の頃、厳しく漢字の練習に付き合ってくれたあの頃がなつかしい。
 


 


2019年3月29日金曜日

12.T大に行った大河内君と、漢字のテスト(上)

音楽の時間。大だいこが私。
小だいこが大河内君。
私は一番前に座っているマコちゃんと目が合ってニッコリしている。

 前回、弟は小1からずっとオールAだったという話をした。それに比べて私はいつも成績は中くらいでパッとしなかった。あまり「勉強をちゃんとがんばろう」という意識もなかった。音楽や図工も楽しむのは好きだけれど、何事も飽きっぽく、雑な感じだったと思う。
 よく「新興住宅地の子どもは成績が良い」と言われる。望洋小学校も例にもれず、勉強のできる子が多かった。その中でもずば抜けて成績が良かったのが大河内将文君(仮名)だった。
 大河内君は8年後に、予想通り国立のT京大学の理科二類に合格する秀才で、小4の時も常にテストは100点を取るのが当たり前だった。いい成績を取っても特に自慢するわけでもなく、いつも淡々としていた。中学生のお姉さんも秀才で、鎌倉にある横浜国立大の付属中学に行っているという噂だったから、きっと成績がいいことが当たり前の環境だったのだと思う。
 彼は勉強だけではなくスポーツもできたし、性格も決して悪いわけではなかったのだが、担任のS先生にはあまり好かれていなかった記憶がある。S先生は大河内君に対して「勉強ができるからといっていい気になるな」的な発言をよくしていた。今どきの「褒めて伸ばす」教育とは正反対の方針だった。
 とにかくS先生は目立つ生徒が嫌いだった。逆に私のような中途半端なぼんやりした生徒のことをよく褒めた。
「としこさんは明るいし、楽しいし、性格がいい」
というような誉め言葉をよくかけてくれた。本当に性格が良かったのかどうかは定かではない。単にS先生の好みの問題だったと思う。概して女の子、そして弱い子などには優しいS先生であった。決して悪い先生ではなかった。
 そんな中途半端な私が、一度だけ大河内君と成績を争ったことがある。
 小4のクラスでは、一時期、毎朝「漢字テストの時間」というのがあった。漢字ドリルを使って毎日10問ずつテストを行い、それが1クール20回くらい続く。1年で2~3クールくらい繰り返されただろうか。前日に範囲が出題されるので、きちんと予習をしていけば満点が取れるのだが、予習をしても小さいミスをしてしまったりで、20回全て満点を取るのは難しかった。
 基本的にうちの母は、子どもたちの勉強にはノータッチだったけれど、なぜかこの漢字テストの時だけは毎日勉強に付き合ってくれた。家に帰ってから翌日の範囲を何度も練習し、翌朝学校に行く前に模擬テストをし、母が採点をしてくれる。私も国語だけは嫌いではなかったので、その時は集中して漢字の勉強を続けることができた。(つづく)

2019年3月21日木曜日

11.年上の女性にモテモテだった弟

いとこのお兄さん、お姉さんを独占してご満悦な弟。
用賀にて。

 マコちゃんは、またこれからの話の中でちょくちょく登場すると思う。今回は錦糸町編でよく登場した、弟のことを書きたいと思う。
 三歳下の弟は、引っ越しをして望洋小学校の1年生として入学した。担任の森屋まさ枝先生(仮名)は、当時新婚の26歳。ご主人は中学校でバスケットの顧問もやっている体育の先生だった。
 赤ちゃんの時から愛想がよく、年上の女性にモテモテの弟は、森屋先生にも可愛がられ、毎日楽しい小学校生活を送っていたようである。
 その頃、放課後に6年生の生徒が1年生の生徒と遊んであげたり、めんどうをみてあげる時間のようなものがあった。校庭で6年生と遊ぶ弟たちを何度か見かけたことがある。登校や下校も行動を共にし、安全を確保するという目的もあったと思う。
 弟は6年生のお姉さんたちともすぐ仲良くなった。特に同じ団地に住んでいた中原典子ちゃん(仮名)とは仲良くなって、弟の話にもよく「典子ちゃん」の名前は登場していた。典子ちゃんはおしゃれで、少したれた目がかわいく、アイドルのような雰囲気を持っていた。4年生の私から見ると、もう大人のお姉さんという感じで、あこがれの存在の一人だった。
 ある日の朝のこと。私は弟よりも早く家を出て小学校に向かった。弟はまだ支度ができておらず、出発までは時間がかかりそうだった。
 私はいつも通りにちっちゃんやマコちゃんたちと一緒に、家から30分、途中に急な坂道の続く通学路を一生懸命歩いて小学校を目指した。
 その日は途中から雨も降ってきた。傘は持っていたけれど坂道のあたりになると雨は強くなり、やっと学校に着いた時は、元気な私たちでさえも疲労困憊という感じだった。
 校舎に入ったところで、濡れた服をタオルで拭きながら、ふと1年生の教室を見ると、私よりも後に家を出たはずの弟が、涼しい顔をしてこちらを見ていた。服は全く濡れたようには見えなかった。
(あれっ、おかしいなぁ、どうしてこんな早く学校に着いているんだろう)
 家に帰ってから母に「今朝、こんなことがあって…」
と弟の話をしたら、母も
「おかしいわねえ、としこよりもかなり遅く、家を出て行ったのに」
と理由が全くわからないようだった。
 その後、母が弟に聞いてみると、何と弟は典子ちゃんと一緒に京急の路線バスで通学をしていたことがわかった。その日だけだったか、毎日だったのかは覚えていないが、母も私も、弟の人懐っこさというか、年上の女性とすぐ仲良くなるキャラクターには笑ってしまった。
 弟は、私と違ってとても要領がよく、家で勉強を全くしなくても、1年生の1学期からずっと成績はオールAだった。スポーツもできたし、リーダー的存在で、女の子にもモテていた。1年生の時は毎日楽しい小学校生活を送っていたと思う。
 しかし「調子に乗っていると後で痛い目にあう」と、私の担任のS先生も言っていたように、2年生の時に悲劇が訪れる。何と担任がS先生になってしまうのである。以前書いたように、弟みたいなタイプに対してS先生は最も厳しく接するので、まさしく悲劇だった。
 その件は、もう少し先、私が5年生になる話になったら詳しく書きたいと思う。

2019年3月15日金曜日

10.その後のマコちゃん

七夕の頃
紺のワンピースが珍しく女の子っぽいマコちゃん。
右隣が私。

 マコちゃんとは、小学校を卒業後も同じ中学に進んだ。彼女はソフトボール部に入部し、エースのピッチャーだった。ボーイッシュなマコちゃんにソフト部のユニフォームはとても似合っていたし、ピッチャーとしての活躍ぶりは目立っていてかっこよかった。
 高校は別の学校に進み、その後は疎遠になっていたが、高校を卒業した後に開催した小学校の同窓会で再会できた。マコちゃんはサラサラの髪を長く伸ばし、見た目はすっかりエレガントな女性になっていて、同級生みんなを驚かせた。
 20代30代は仕事や家庭・子育てで皆忙しい時期である。同窓会をすることもなく時はあっという間に流れていった。
 そして2011年の秋に、中学の同級生が全クラス合同の同窓会を企画してくれた。私たちは46歳になっていた。東日本大震災の直後ということもあり、旧友との「絆」を懐かしく思い、多くの同級生が参加をした。一緒に卒業したのは400人くらいだったと思うが、100人以上の人が出席するという、とても大きな同窓会になった。
 高校までずっと一緒だったちっちゃんと私は、久しぶりにマコちゃんに会えることも楽しみにして会場へ向かった。しかし会場にはマコちゃんの姿はなかった。朝美さんも来れなかったようだし、きっと調整がつかなかったのだろう。
 と想像していた私たちに、誰かがこう教えてくれた。
「マコちゃんは、30代の時、病気か何かで亡くなったらしい」
 ちっちゃんと私は、その場で絶句した。あんなに、一番元気だったマコちゃんが亡くなるはずはない。そんなことは全く想像できなかったし、信じたくもなかった。
 なぜ亡くなったのか。「らしい」という伝聞のみで、その後も詳しく知っている人に聞いてはいないので、実は今でも私は信じられていない。何かの間違いで、実は生きていて突然来年の同窓会に来るような気もしている。あえてきちんと事実を確かめないようにしているのかもしれない。
 今でも私の耳の中には、「としこブー!」と私を呼ぶ、マコちゃんの元気な声が残っている。一生忘れることはできない。
 マコちゃんと出会ったのは昭和50年、今から44年前のこと。あっという間の44年だった。きっとこれからの44年の方がもっと早く過ぎることだろう。
 44年後、私はたぶんもうあの世にいると思う。そうしたらマコちゃんと再会して、また小学校4年生だったあの時のように「としこブー!」と呼んで欲しい。そして一緒に男の子みたいに大声で騒いだり遊んだりできるのではないかと楽しみにしている。



 





2019年3月10日日曜日

9.マコちゃんが大泣きした日

初夏のある日、観音崎で。
左から、私、山下さん、ちっちゃん、マコちゃん、朝美さん。

 マコちゃんは、よく私たちの名前に「ブー」を付けて呼んでいた。「としこブー」とか「朝美ブー」、「奥田ブー」という感じで、とても大きな声で元気よく呼ぶのだった。  
 ちっちゃんとは「てめー!」と男の子のように呼び合っていて、そのうちにお互いを「てめーともだち~」と呼称するようになっていた。
 そのような元気な面もありつつ、前回書いたように、写真を撮る時に手をつないできたりして、かわいらしい面もあった。
 マコちゃんのことで忘れられない出来事がある。あれは夏休みが明けた2学期の登校日初日、昭和50年9月1日月曜日のことだった。
 私は久しぶりにクラスメイトたちと会えることを楽しみにして小学校へ行った。しかしマコちゃんと顔を合わせた瞬間、私はその変貌ぶりに言葉を失ってしまった。蜂にでも刺されたのだろうか、顔がはれ、目がつりあがって、全くの別人のような顔になっていたのだった。
 今の私だったら「どうしたの?」と普通に聞けるけれど、その時は何と言葉を発していいのか全く分からず、何もなかったように急いで目をそらしただけだった。
 マコちゃんは顔を隠すわけでもなく、普通に笑みをたたえていた。けれど何も言葉は発しなかった。気軽に「蜂にさされちゃって~」などと説明があるわけでもなかった。笑顔は作っていたけれど、心の中は必死だったのだと思う。
 私たち生徒は、席についてS先生が来るのを待っていた。マコちゃんは私の前の席に座っていた。するとマコちゃんのななめ前に座っていた男子(誰だったかは覚えていない)が、マコちゃんに何か話掛けたようだった。何を言ったのかは聞こえなかったが、その瞬間、マコちゃんは突然大きな声でわんわん泣き始めたのだった。きっと顔のことを何か言われたのだろう。私はどうしていいかわからず、ただマコちゃんが大きな声で泣くのを聞いていた。
 その日は始業式だったので、学校は午前中だけだった。私は家に帰ってからもマコちゃんのことが頭から離れなかった。
「いったいなぜ顔が腫れていたのだろう。ずっとあのままの顔だったらどうしよう」。
 あの日の衝撃は、私の10年間の人生の中で、1.2を争うくらいの大きな出来事だった。
 しかし翌日学校に行ってみると、マコちゃんの顔はいつも通りの顔に戻っていて、キャラクターもまた男の子のように元気なマコちゃんに戻っていた。
 私はほっとしたけれど、一体あれは何だったのだろう。蜂にさされたのでは、と思っていたけれど、本当のところはわからない。
 結局今となっては、あの時の理由をマコちゃん本人から聞くことは、永遠に出来なくなってしまった(つづく)。
 
 

2019年3月6日水曜日

8.白熱の運動会リレー

小4の運動会の日。
左から朝美さん、マコちゃん、私、
ちっちゃん、奥田さん。
(写真は加工しています)

 秋の運動会では、いつも最後に「全学年カラー対抗リレー」があった。それぞれの学年ごとに男子4人、女子4人、あわせて48人の生徒が選ばれて、1年生から6年生までの6人が1つのチームになってバトンをつなぐ。赤、緑、みずいろ、黄色の4チームがあった。
 錦糸小学校にいた時、私は足が速いと思ったことは一度もなかった。しかし望洋小学校の秋の運動会では、全学年リレーの選手に選ばれてしまった。小4の女の子は、秋までに転校生も含めて10人しかいなかった。そのうち選手は1学年で4人なので、平均的な速さでも選ばれたわけである。 
 4年生で一番足が速かったのは朝美さんだった。2番がちっちゃん、3番がマコちゃん、そして私は4番目だった。
 リレーの場面もきちんと写真で残っている。上の写真は、3年生の女子から4年生の女子にバトンをつなぐ場面である。右端に緑のたすき(実際はみずいろ。経年で色変化)をかけた女子がわかると思う。これが朝美さんがスタートする瞬間である。美しいフォームから、いかにも足が速いことが伝わってくる。
 2レーンでは黒っぽいたすき(実際は緑)のチームがバトンをつないでいる。朝美さんの陰に隠れて写っているのがマコちゃんである。
 3レーンで、今にもバトンをもらおうとしている黄色いたすきが私である。良いフォームのように我ながら思う。
 4レーンでは赤い帽子をかぶったちっちゃんが、3年生の選手が来るのを待っている。なかなか拮抗した良いレース展開である。
 

 
 そして次の写真は、私たち4年生が一周して、5年生にバトンを渡すシーンである。1番にバトンを受け取っていた朝美さんはもう走り終えたのだろう、写っていないが、右端にはマコちゃんが5年生にバトンを渡す瞬間が写っている。
 写真の真ん中には、黄色いたすきをかけた私が空中を舞うように走っている。
 その後ろから、ちっちゃんが必死に走ってきている。バトンをもらった時よりも、私との距離を縮めて追い上げてきているように見える。 
 この後、6年生までバトンをつなぎ、最後にどこのチームが勝ったのかは記憶していないが、とても楽しい思い出だったことは覚えている。
 この記事の一番上に掲載した、5人で写っている写真は、たしか運動会が終わった後に撮影したものだと思う。とても楽しそうな雰囲気が伝わってくる。
 よく見ると、私の右手とマコちゃんの左手がつながれている。これを見た瞬間に、「そういえばこの時、マコちゃんがうれしそうに近寄ってきて手をつないできたなぁ」ということを思い出した。
 少し涙が出てしまった。涙の理由は追々、書いていきたいと思う。

2019年3月4日月曜日

7.エレガントさんとボーイッシュさん


4年生の最初の登校日に撮った写真。
生徒は1学年22人だけでした。

 前回は「小4の女子は、始め7人しかいなかった」という話をした。
 上の写真の上部に女の子が7人写っている。最初の登校日だったので、自分以外はどのような性格なのか全く知らなかったはずなのだが、なぜか「エレガントさん」たちと「ボーイッシュさん」たちできれいに分かれて並んでいる。
 向かって一番右、一番背が高い山下郁恵さん(仮名)と、その隣の笹島由美さん(仮名)は、とても上品なエレガントさんだった。決して大声を出したりしない、女の子らしい女の子たちで、二人のお母様たちもお上品な雰囲気だった。
 笹島さんは小学校卒業後、私立の中学に行ってしまったけれど、数年前に同窓会で再会した。3年前、私の父が他界した時に喪中はがきを出したら、とても丁寧な心温まるお手紙を送ってくれた。私も手紙を書くのが好きなので、感謝の手紙を送り、それからしばらく手紙のやりとりが続いた。人の心にそっと寄り添う笹島さんの人柄は、小学校の時から全く変わっていなかったので嬉しかった。
 笹島さんの向かって左隣、白いカーディガンが、先日校歌の回で紹介した奥田久子さん。その隣が菊池朝美さん。そしてその隣のチェックのジャンパーを着ているのが私である。菊池朝美さんはエレガントな面もありつつ、スポーツ万能という面もあり、ちょうど7人の真ん中にいるのがふさわしい。
 私の隣にいる、青いレイヤードルックが、この後、中学、高校とずっと親友になる荻野愛美さん(仮名)である。背がとても小さく、「前の学校ではちっちゃいから、ちっちゃんと呼ばれていたの」と言うので、望洋小でも「ちっちゃん」と呼ぶようになった。小さいけれどとても活発な女の子で、クラスの中でも目立つ存在だった。
 その隣、一番左にいる白いベレー帽がマコちゃんこと金井真佐子さん(仮名)。7人の中でも一番ボーイッシュな女の子だった。ちょっといたずらっ子な面もあって、よく朝美さんの長い三つ編みを引っ張ったりして遊んでいた。この時はスカートをはいているが、基本的にズボンを履いていることが多く、いつも少々外またで歩いていた。
 7人それぞれ個性があって、とても愛らしいメンバーたちだった。私はもっぱらちっちゃんやマコちゃんと一緒に騒々しく遊んでいた。
 下の写真は、秋の遠足あたりだろうか。3人の転校生が加わって10人になっている。私は一番左のはじっこで、やはりちっちゃんやマコちゃんと一緒に並んでいる。マコちゃんが私のお弁当箱に手を伸ばしているのがとても笑える。マコちゃんらしい。
 S先生は写真を撮るのが趣味で、小4の時には沢山の写真を撮ってもらった。このように自然な一瞬の光景を残してもらえたのも、ひとえにS先生のおかげである。

36.【最終回】小学校を卒業、そして・・・

 日光修学旅行が終わった頃、卒業制作の話が高梨先生からあった。 「何か6年1組として記念になるものを作って、小学校の中に残しましょう」  花壇を作るとか、遊び道具を作るとか、いくつか案があったと思うが、話し合いの結果、「トーテムポール」を作ることになった。1組と...