2019年2月16日土曜日

3.小学校の校歌を作った思い出

 
(横須賀写真ライブラリより)

 新興住宅地に急遽できた望洋小学校は、はじめは校歌もなかった。
 けれどある日、担任のS先生から「校歌を全校の生徒で作ることになりました」というお話があった。生徒それぞれが詞を考えて提出し、その中で一番いい作品を校歌にするということだった。
 5.6年生も同じように歌詞を考えて提出するのだから、私たち4年生はがんばらなくてはいけない。私も一生懸命、自分なりに歌詞を考えて〆切までに提出をした。
 他の生徒たちも同様だった。中には家に持ち帰って親に考えてもらった作品を提出する子もいた。やはり大人が考えた歌詞はとても良くできているけれど、「子供らしさがない」ということで、すぐ先生たちにははじかれてしまったらしい。
 結果として同じクラスの女の子、奥田さん(仮名)の作品がみごと選ばれた。

「山の上に 建っている
眺めのいい 小学校
富士山見える 船見える
みんなの みんなの 望洋小」

 素直で、かつ情景があざやかに浮かんでくる素晴らしい作品だと思う。大人になった今、あらためてそう感じる。
 2番の歌詞もあって、サビの部分は「大きくなるぞ 望洋小」だったと思う。最初は生徒の数も少ない学校だった。4年生も男子が15人、女子が7人しかいなかった。それが毎月のように転校生が増えていき、どんどん大きくなっている最中だった。
 奥田さんは日頃から勉強ができて、作文も一番上手だった。大人っぽく、性格も穏やかな人だった。
 私はまだ小学校4年生の頃は、本当に子どもで、いつも男の子に混じって大騒ぎしているようなタイプだったので、奥田さんのことを同級生ながら尊敬していた。
 奥田さんは自分の作品が選ばれたにもかかわらず、大騒ぎをせず、とても謙虚な感じだったことを覚えている。
 その後、歌詞には少し改変があった。「大きくなるぞ」はとてもいい歌詞だけれど、いつかは規模も固定するから、等の議論が先生たちの間であったらしい。
 しかし今でも望洋小学校の正式な校歌として歌い継がれているようである。先日検索をしてみたら、望洋小のサイトがあり、メロディだけではあるが、校歌として掲載されてあった。
 奥田さんとは大人になってから同窓会で何十年ぶりに再会した。昔と変わらずしっかりしていて、いつも同窓会ではまとめ役をかって出てくれる。おだやかで大人っぽい雰囲気も変わっていなくてとても嬉しかった。
 校歌を作った時の話を聞いてみたら「歌詞の改変で、結局私が考えた部分は大幅に減ってしまったのだけれど、S先生が私の名前を作者として残すために、いろいろ奔走してくださったそうなの」とのことだった。
 担任のS先生は、以前、年賀状の書き方の回で「とても厳しく、怖かった」という話をした。しかしとても生徒思いで熱心な先生でもあった。奥田さんの話を初めて聞いて「全く知らなかった!」と驚いた。大人になってからそんな裏話を聞くのも楽しいことである。
 

2019年2月8日金曜日

2.横須賀へのカルチャーショック


横須賀の家からいつも見えていた
猿島の風景
(横須賀写真ライブラリから借用)

 小学校4年生になる時、私は錦糸町の家から横須賀に引っ越した。私の家は海岸線にあって、きれいな海と猿島を常に臨むことができた。家から徒歩2~3分のところでは釣りもできた。今までいた錦糸町とはまったく違う生活が始まっていた。
 小学校は坂道をかなり登った山の上にあり、毎日家から30分かけて徒歩で通った。時には雨風が強く、上から下までびしょぬれになったりもした。そのため上下の雨がっぱを小学校であっせんしてくれて、私たち生徒は雨の日はそれを着て通学することもあった。新聞配達の人が着るような、ゴム製のとても頑丈なカッパだった。
 錦糸町の小学校の校庭はアスファルトだったけれど、横須賀の小学校は土。というよりも白っぽい石ころだらけの荒れ地だった。きっと新興住宅地の造成に合わせて急遽つくったので、校庭の整備まで手が回らなかったのだと思う。私たち生徒や先生は、朝礼の後などに、よく校庭の石ころ拾いをした。それはたぶん半年くらい続き、そのうちに校庭の石もほとんどなくなり、転んでも安全な校庭が出来上がっていった。
 横須賀には防衛大学があるので、街で制服姿の防大生に会うことがよくあった。
「防大には頭がいいだけでは入れないんだよ。運動もできて、性格も良くないと受からないんだから」誰かがそう教えてくれた。
 防大の学生さんは、電車に乗っている時、席が空いていても絶対に座らない。私がある日、母と弟と一緒に京浜急行に乗っていると、席が1つ空いた。となりのおばあさんが防大生に「お兄さん、ここ空きましたよ!」と呼びかけていたことがあった。それでも防大生は固辞して席に座ることはなかった。
 横須賀には米軍基地もあって、地元の人は「ベース」と呼んでいる。横須賀の一番の繁華街、横須賀中央には、屈強なアメリカ人の軍人さんがたくさん歩いていた。今は日本国内で外国人に出会うことは珍しくないけれど、その頃、1975年頃は本当に珍しかったので、私にとっては大きなカルチャーショックだった。
 小学校の同級生のIくんのお父さんはベースに勤めていた。Iくんに誘われて一年に一度のベースの一般開放日に招かれたことがあった。広い敷地、英語で書かれた看板、何もかもがビッグサイズ。特に大きなアイスクリームを食べたことは忘れられない。本当のアメリカに来たような解放感があった。
 そういえばちょうど1975年、ダウンタウンブギウギバンドが「港のヨーコ ヨコハマ ヨコスカ」という曲を歌ってヒットしていた。クラスの男子たちは替え歌のように
「♪港のヨーコ ヨコハマ ヨコスカー」の後に「中央!」と付けて歌っていたことを思い出す。京急の「横須賀中央駅」のことである。地元の小学生ならではの替え歌だったと思う。
 その翌年には山口百恵が「横須賀ストーリー」をリリースした。あの歌詞に出てくる「急な坂道」や「海」は、まさしく私たちが暮らした横須賀の原風景だった。

2019年1月29日火曜日

1.出した年賀状にダメ出しをした先生

小学校4年生の時のクラスメイト。
たぶん小学校を卒業する時に集まって記念写真を撮ったのだと思う。
前列の白いセーターを着ているのが私。

 1月中に、年賀状に関する思い出を書こうと思いつつ、気が付くと29日。時のたつのが年々早くなる感じがする。
 今回はまた急に小学校4年の時の話に戻る。

 4年生に上がる時、私は錦糸町から引っ越して、横須賀の小学校に転校した。新興住宅地に1つ新しい小学校が設立され、まだ生徒も少なかったので1クラスだけでのスタートだった。
 担任のS先生は男性で当時40歳。勉強にも生活態度にも非常に厳しく、細かく、怖い先生だった。
 昭和51年1月、3学期の最初の日。S先生が年賀状に関して話してくれたことがどうしても忘れられない記憶として残っている。
 私たち生徒は、喪中の子ども以外、たぶん全員S先生宛に年賀状を出していた。しかしその書き方に問題があったらしい。S先生は黒板の前で、私たちの年賀状に様々なダメ出しをした。
「宛先の住所は、横須賀市から書かないといけない。市内、なんて書いては失礼になる」
私たちは震えあがり「自分の出した年賀状はどうだったろう…」と記憶をたどった。幸いなことに、私はたしか「横須賀市」から書いていたと思う。しかし「市内」と書いてしまった子は本当に気の毒だったと思う。内心ドキドキだっただろう。
「相手の名前に付ける敬称は、様でも先生でもどちらでもいいけれど…」
そのような感じで、他にも番地の書き方など、細かく延々とダメ出しは続いた。私たち生徒は静かにS先生の話を聴いていた。
 今考えると「なぜ12月に教えてくれなかったのだろう、ひどい」と思う。往々にしてS先生の指導は、今思えば理不尽なこともあったけれど、昭和の子どもだった私たちはいつもS先生の教えを素直に受け入れていた。
 S先生の話してくれた内容は、今でも事細かに覚えているし、それは私だけではなく、他のクラスメイトも同様だということを、大人になって同窓会で集まった時に知った。
「小中高といろいろな先生に担任を受け持ってもらって、他の先生にはもう年賀状なんて出さないけれど、どうしてもS先生だけにはきちんと出さないと、と思ってしまうんだよね」
「そうそう! そして住所はちゃんと横須賀市から書くんだよね」
 話をしていた全員が同意をした。そうか、毎年出し続けているのは私だけではなかったのだ。
 小学校4年の同窓会は2年に1度開催しており、S先生も毎回お招きしている。80歳になってすっかり丸くなったS先生は
「あの時は私も若かった。ちょっと言い過ぎたことも多かったと反省している」とのことだった。S先生のことが今でも苦手で同窓会に来ない生徒もいるけれど、あの厳しさが懐かしくて、毎回参加するという生徒も多い。
 昭和は遠くなり、平成ももうすぐ終わる。もう年賀状などは出していないという人も増えた。私も年号が変わる来年からはやめようかどうしようかと考えている。しかしたぶんS先生だけにはきちんと出すと思う。住所は「横須賀市」からちゃんと書いて。

2019年1月20日日曜日

私の就活、「とらばーゆ」を買った日

 
就職活動をする少し前の私。

今回は20歳頃の就活の話をしたいと思う。
 昭和時代の就職活動、私の頃は今とずいぶん違っていた。あの頃は10月1日の解禁日が厳密に守られていたし、学校からの推薦で企業を受験して、ほぼ一社目で決める学生も多かったように思う。
 私は10月1日、学校からの推薦で某証券会社に受験しに行き、いきなり不合格になってしまった。後で知ったのだが、学校枠とは別ですでに縁故の学生が合格することが決まっていて、学校に貼りだされていた求人票はダミーだった。私は運悪くその会社を受けてしまったのだ。
 大体の人が一社目で決まってしまうため、そこで落ちてしまうと、条件のいい会社はほとんど残っていない状態だった。すぐに数社受けてみたけれど、何となくピンと来なくて、内定をもらっても辞退を繰り返していた。それが10月から11月いっぱい続いていた。
 就職氷河期の世代からしたら贅沢な悩みと言われてしまうかもしれないが、その頃の私はかなり落ち込んで悩んでいた。「もうどこにも就職できないかもしれない」。景気も悪くなかったので、ほとんどの同級生たちは条件のいい企業から内定をもらっていた。友人たちと顔を合わせることも嫌になっていた。
 そんな時、母だったか友人だったかは忘れたけれど「中途採用の募集で新卒も可、っていう求人もあるから、そういうのを探してみれば?」とアドバイスを受け、「そうだ、その線も探してみよう」と思った。
 そして早速、都内のアルバイトに行く途中、京急の横須賀中央の駅の売店で「とらばーゆ」を買った。それはリクルートが80年代に創刊した女性向けの転職情報誌だった。京急の快速品川行の中でパラパラとめくっている時、私は「外資系」と書いてある一つの会社に興味を持った。渋谷に本社があって、建物の写真もきれいだった。何となく「この会社で働いてみたい」と思い、早速履歴書を送った。
 その後はトントン拍子で事が進んだ。書類審査を通り、採用試験にも合格し、12月に内定をもらうことができた。私はその外資系企業「Y」に新卒として入社した。配属は人事部だった。
 結局その会社には20年近くお世話になったし、仕事の関係で夫とも知り合った。夫が転勤になり、帯同した先で大学院に入学し、大学に教員の職を得ることもできた。雇用の研究は、その会社に入らなかったら、そして人事部に配属されなかったらやっていなかったはずである。
 あの日、あの時、あの場所(横須賀中央駅)で、「とらばーゆ」を買っていなかったら、私の人生は全く違うものになっていたと思うし、今知り合いになっている多くの友人たちとも見知らぬ他人のままだったはずである。
 だから「とらばーゆ」には感謝したい。今では男女別の募集採用は禁止されているから、とらばーゆが存在していたこと自体が昭和的と言えるかもしれない。今でもネット上のサイトやフリーペーパーの形で継続していて、女性限定の募集ではなく、女性が多い職種の募集を中心に掲載しているようである。

2019年1月14日月曜日

「忘れ物の女王」再び


 私は中学3年間、軟式テニス部に属していた。上手でもなかったし、球拾いばかりであまり楽しくなかったけれど、なぜか「部活を途中で辞めることは良くない」という昭和の日本人的な考えから、何とか3年間続けて、卒業アルバムの写真におさまることができた。
 真ん中の列の真ん中、センターに位置しているのが私である。私が着ているシャツをよく見ると、襟なしで、他のメンバーとは違う柄が描かれているのがわかる。
 この時、数日前に「〇月〇日に、卒業アルバムのための集合写真を撮るので、公式ユニフォームを必ず持ってくるように」というお達しがあった。しかし当日私はすっかりそのことを忘れていて、いつも練習用に着ている絵が書いてあるTシャツだけを持ってきてしまったのだ。
「あっ、どうしよう!ユニフォーム忘れちゃった」
 それに気づいた時はかなりあせった。他のメンバーは全員きちんとヨネックスのユニフォームを持ってきていた。一人一枚ずつしか持っていないから、貸してもらうことはできない。かなりのピンチであった。
 しかしそこは「忘れ物の女王」歴も長い私である。開き直って何とセンターにずうずうしく位置し、堂々と撮影に臨んだのである。若干体を右にねじって、背をこごめて、前の友人の頭で隠れるようにしているようにも見える。
 40年近く経って、あらためて見てみると、写真は小さいし言わなければ気づかれない程度である。先日母に話して見てもらったけれど「あら、そういえばそうね」と言っただけだった。
 あの時はピンチだと思ってあせったけれど、意外と時が過ぎると大丈夫なことって多いような気がする。でも忘れっぽい私だから、他にもきっとテニス部のみんなには迷惑をかけたことも多かったと思う。ゴメンナサイ! 

2019年1月10日木曜日

けつバットとパセリ、大好きだった先生の思い出

 前回、中学校2年生の時の話をして、その時のこと、昭和的なことを思い出したので書きたいと思う。
 2年の時に担任だったK先生(男性)は、とても生徒から人気があって、私もあこがれていた一人だった。当時K先生は27歳。体育の先生だったのでスポーツマンでカッコよく、厳しさの中に優しさがあるところも人気のポイントだった。
 そんなK先生は、生徒が何か悪いことをすると「けつバット」のお仕置きをすることで有名だった(これがとても昭和的だと思う)。教室の黒板の横には、野球のバットよりも少し大きめで太い木の棒がいつも立てかけてあった。
 お仕置きされる生徒は、黒板のチョーク置き場に手を置いて、みんなの方にお尻を向ける。そしてK先生はお尻めがけて力いっぱいバットを振るのだった。
 お仕置きされる子は、だいたい決まっていた。ちょっとワルの男子生徒たち。遅刻をしたり、忘れ物をしたり。一人だけではなく数人一緒にお仕置きされることもあった。けつバットされた男子生徒は「いたたたたーっ!」とお尻をさすりながら教室を走り回った。クラスの皆がその様子を見て笑った。ちょっと大げさで、みんなを笑わせようとしているのかなと思った。
 私もその後、たしか何か忘れ物をしたかで(小学校からの延長で、忘れ物はたまにしていたと思う!)けつバットをされたと思う。実際にけつバットをお尻に受けると、かなりの痛さだった。それまで見ていただけの時はわからなかったけれど、体全体にジーンと来る痛みで、けっこう応えた。ふざけていたように見えた男子生徒のリアクションは冗談ではなかったのだ。
 その頃、私は何となく自意識過剰で、K先生に気に入られているような気もしていたので、少しは手加減してくれるかな、などと浅はかな期待もしていたが、まったくそのようなことはなく、K先生はどの生徒にも平等にお仕置きをした。
 なぜK先生に特別に気に入られていたように思ったのだろう。1つ覚えているのは、ある日のお弁当の時間のことである。私たち生徒がお弁当箱を広げて食べていると、いつもはその時間に来ないはずのK先生がなぜか突然現れ、女子生徒が固まって食べている場所に近づいてきて、皆のお弁当箱の中身をじろじろと物色し始めたのだった。私たち生徒はK先生のことが大好きだったので、そういうふうにK先生にかまってもらうことがうれしくて仕方がなく、みんなでキャーキャー騒いだ(青春だなぁ)。
 そのうちにK先生は私のお弁当に入っているパセリを勝手につまんでぱくっと食べてしまった。私はうれしくって仕方がなかった。それで「きっと私を気に入ってくれている」と勘違いしてしまったのだが、よく考えればそういう冗談にはパセリが一番無難だったのだと思う。
 K先生は私たちと同じ学区の県立Z高校から国立のT大学に進み、体育の先生になったと聞いていた。K先生にあこがれていた私は、同じ県立のZ高校を選んで進学をしたくらいK先生のことを尊敬していた。まあ、成績がちょうどZ高校に入るレベルだったということもあるが、ほぼ同じレベルでO女子高というのが家の近くにあって徒歩で通えたのに、あえて遠いZ高校を選んだのは、K先生の影響が大きかったと思う。
 2011年に中学の同窓会があって、K先生とも数十年ぶりに再会した。体罰に対して厳しい目が向けられるようになり、もうけつバットはかなり早い時期にやめたということを聞いた。そしてすっかりロマンスグレーになったK先生は、私のことを覚えていてくれてファーストネームで呼んでくれた。うれしかった。K先生は
「君のお父さんは、たしか八百屋さんだったよな?」と聞いてきた。しかしうちの父は普通の会社のサラリーマンだった。私は「八百屋の娘はケイコちゃんですよ」と答えた。
 少し、いやかなり残念な気持ちになったけれど、先生という職業は、多くの生徒を相手にしているのだから当然だと思う。私の顔を覚えていてくれただけでも感謝したいと思う。


2019年1月6日日曜日

横須賀時代の話…YMOとウォークマン

 錦糸町の話が終わってから、続編を書いて欲しいとの要望をたくさんいただきました。ありがとうございます。
 あの一連の話は、実は構想2年をかけました。同じようにはすぐ書けないと思いますが、昭和のこと、思い出したことを、順不同ですがメモ的に書いていこうかと思います。おつきあいいただければ幸いです。

 先日、テレビでYMOの特集が放映され、中学校2年生の時のことを思い出した。私は横須賀市立馬堀中学校2年10組の生徒だった。たしか秋に文化祭があって、クラスで劇を発表することになり、放課後、その練習をしていた時のことだった。
 教室には私の他に、5~6人の男子女子がいて、みんな真面目に劇の練習をするというよりは、何となく雑談をしたり、プロレスの技をかけあったりして楽しんでいる感じだった。
 クラスメイトの一人、ナガサカ君は、窓際の机に座って、頭にヘッドフォンのようなものを付けて黙っていた。ヘッドフォンから出ているコードは、ナガサカくんの手の中にある箱のようなものにつながっていた。
「あ、それ何だっけ、CMで見たことある」私が聞くと、
「ウォークマンって言うんだよ」とナガサカ君は答え、ヘッドフォンを渡してくれた。さっそく私はヘッドフォンをかぶり、音楽を聴いてみた。YMOの「RYDEEN」がかかっていた。
「うわー、すごいねぇ」
 1979年10月。私が初めて、ウォークマンというものを使った瞬間だった。YMOの曲は、それ以前に聴いたことはあったか、なかったか、定かではないけれど、とにかく新しい時代の音楽という感じがしたし、それをウォークマンなんていう新しい時代の機械で、家ではなく外で聴くというシチュエーションに衝撃を受けていた。
 あの頃YMOの人気は驚異的だった。誰もが全ての曲を知っていた。レコードを買えない子も、持っている子から借りてテープに録音して聴いていた。小学生だったうちの弟もYMOにはまり、坂本龍一のシンセサイザーにあこがれて「ピアノを習いたい」と言い出し、また母は困っていたことを記憶している。
 その後、私はウォークマンを買うことはなかったように思う。中高生には高かったし、周りの友達もそんなにたくさんの人は持っていなかったと思う。社会人になってから、CDウォークマンは買った記憶がある。それももう今の時代、使われていない過去の製品になってしまった。時代の流れは早すぎる。


 

36.【最終回】小学校を卒業、そして・・・

 日光修学旅行が終わった頃、卒業制作の話が高梨先生からあった。 「何か6年1組として記念になるものを作って、小学校の中に残しましょう」  花壇を作るとか、遊び道具を作るとか、いくつか案があったと思うが、話し合いの結果、「トーテムポール」を作ることになった。1組と...