2019年2月8日金曜日

2.横須賀へのカルチャーショック


横須賀の家からいつも見えていた
猿島の風景
(横須賀写真ライブラリから借用)

 小学校4年生になる時、私は錦糸町の家から横須賀に引っ越した。私の家は海岸線にあって、きれいな海と猿島を常に臨むことができた。家から徒歩2~3分のところでは釣りもできた。今までいた錦糸町とはまったく違う生活が始まっていた。
 小学校は坂道をかなり登った山の上にあり、毎日家から30分かけて徒歩で通った。時には雨風が強く、上から下までびしょぬれになったりもした。そのため上下の雨がっぱを小学校であっせんしてくれて、私たち生徒は雨の日はそれを着て通学することもあった。新聞配達の人が着るような、ゴム製のとても頑丈なカッパだった。
 錦糸町の小学校の校庭はアスファルトだったけれど、横須賀の小学校は土。というよりも白っぽい石ころだらけの荒れ地だった。きっと新興住宅地の造成に合わせて急遽つくったので、校庭の整備まで手が回らなかったのだと思う。私たち生徒や先生は、朝礼の後などに、よく校庭の石ころ拾いをした。それはたぶん半年くらい続き、そのうちに校庭の石もほとんどなくなり、転んでも安全な校庭が出来上がっていった。
 横須賀には防衛大学があるので、街で制服姿の防大生に会うことがよくあった。
「防大には頭がいいだけでは入れないんだよ。運動もできて、性格も良くないと受からないんだから」誰かがそう教えてくれた。
 防大の学生さんは、電車に乗っている時、席が空いていても絶対に座らない。私がある日、母と弟と一緒に京浜急行に乗っていると、席が1つ空いた。となりのおばあさんが防大生に「お兄さん、ここ空きましたよ!」と呼びかけていたことがあった。それでも防大生は固辞して席に座ることはなかった。
 横須賀には米軍基地もあって、地元の人は「ベース」と呼んでいる。横須賀の一番の繁華街、横須賀中央には、屈強なアメリカ人の軍人さんがたくさん歩いていた。今は日本国内で外国人に出会うことは珍しくないけれど、その頃、1975年頃は本当に珍しかったので、私にとっては大きなカルチャーショックだった。
 小学校の同級生のIくんのお父さんはベースに勤めていた。Iくんに誘われて一年に一度のベースの一般開放日に招かれたことがあった。広い敷地、英語で書かれた看板、何もかもがビッグサイズ。特に大きなアイスクリームを食べたことは忘れられない。本当のアメリカに来たような解放感があった。
 そういえばちょうど1975年、ダウンタウンブギウギバンドが「港のヨーコ ヨコハマ ヨコスカ」という曲を歌ってヒットしていた。クラスの男子たちは替え歌のように
「♪港のヨーコ ヨコハマ ヨコスカー」の後に「中央!」と付けて歌っていたことを思い出す。京急の「横須賀中央駅」のことである。地元の小学生ならではの替え歌だったと思う。
 その翌年には山口百恵が「横須賀ストーリー」をリリースした。あの歌詞に出てくる「急な坂道」や「海」は、まさしく私たちが暮らした横須賀の原風景だった。

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