2018年10月30日火曜日

25.錦糸小学校に入学

 

入学式の日。一番前の列の左から4番目が私。

昭和47年の4月、私は墨田区立錦糸小学校に入学した。たしか1学年に3クラスあって、私は3組だった。担任の先生は24歳の長田美代子先生。自己紹介のために先生が黒板に名前を書いた時、「字がとても上手できれいだなあ」と思った。
 長田先生は、ほんわかした雰囲気でクラスの全員に分け隔てなく優しかった。不安がいっぱいの小学校1年生にとって、長田先生以上に理想の先生はいなかったと思う。
 錦糸小学校は、家から歩いていくと、子どもの足でだいたい15分くらいだった。途中に錦糸町駅や楽天地、映画館といった繁華街がある。大人向けのきわどい映画の絵が大きく飾られていたりして、今思えば子どもの通学路には一番適さない場所だったと思う。
 先日、池袋を歩いていた時、突然大人にまぎれてランドセルをしょった女の子が現れた。私立ではなく公立の小学校の雰囲気だった。その時「何故こんなところに小学生が?」と驚いたのだが、きっと私も小学生の時、そう思われていたのだと思う。自分ではまったく当たり前に通学をしていた。ただ今と違って子どもの数も多かったから、今の都会よりは「通学路」という雰囲気はあったのかもしれない。
 楽天地の一角に、ジュースの自動販売機があったのを覚えている。缶ジュースではなく、10円を入れると紙コップにジュースが注がれるタイプだった。機械の上の部分が噴水のようになっていて、いつもジュースが循環して流れていた。販売機にはグレープとオレンジの2台があった。私たち小学生は、ジュースが出てくる注ぎ口の部分に指を入れて、少し残っている液体をなめたりしていた。
 錦糸小学校の校庭はコンクリートでできていた。たしか1年生の夏休みに、工事が行われてコンクリートからアスファルトに変わった。ねずみ色だった校庭が、緑色に変わり、ラインなどもカラフルで楽しい雰囲気になったのを覚えている。
 たしか幼稚園の校庭もねずみ色のコンクリートでできていた。だから学校の校庭というものはコンクリートかアスファルトで出来ているものだとばかり思っていた。もう少し大きくなって、実は日本国内では土で出来ている校庭の方が多いのだと気付いた。
 同じクラスの友達のお父さんは、商売をやっている人が多かった。バー、肉の卸売り、雷おこしの製造販売など。そういう商売をやっている友達の家に遊びに行くのは本当に面白かった。(つづく)


2018年10月28日日曜日

24.ランドセルを買ってもらった時のこと、覚えていますか


ランドセルを買ってもらった頃。家族4人で鬼怒川温泉へ。

 自分のランドセルを買ってもらった時のこと、覚えていますか?
 今はランドセルにも様々な色があったり、テレビCM がずいぶん早い時期から始まったり、父方、それとも母方のどちらのおじいちゃんおばあちゃんが買ってくれるのかが大問題になったり。ずいぶん時代も変わったけれど、子どもの嬉しい気持ち、ワクワク感は今も昔も変わりがないのだと思う。
 私のランドセルは、昭和46年の秋のある日に突然、私の家に現れた。うちの父は紳士靴の会社に勤めていたので(宮内庁御用達というのが父の自慢だった)、知り合いの革の問屋さんから、卸売り価格でランドセルを買うことができた。当時たしか5000円だったと思う。
 箱に入ったランドセルは、ある朝目覚めると私の枕元にあった。前の晩、帰りの遅かった父が持って帰ってきてくれたようだった。
 箱を開けると真っ赤なランドセルが入っていた。新しい革の匂いがした。つやつやして真新しいランドセルを私はすぐに背負ってみた。急に小学生のお姉さんになった気分だった。
 入学まではかなり時間があったけれど、私はうれしくてうれしくて、毎日幼稚園に行く前に、そして幼稚園からかえってくるとすぐに箱から出して赤いランドセルを楽しんでいた。なでてみたり、マグネットの部分をカチッと鳴らして閉めたり、開けたり。背にしょって家を出て10階の廊下を歩いてみたり。とにかく新しいランドセルが嬉しくって嬉しくって仕方がなかった。
 するとある日、それを見かねた母が「あんまり出していじってると、入学する前に汚れちゃうわよ、入学までしまっておこうね」と言って、私の手の届かない、家の中で一番背の高い洋服ダンスの上に載せてしまったのだ。
 私は本当に寂しかった。あの赤いランドセルが私の手の届かないところに行ってしまった。でもいじくっていた私がいけないのだ。しょうがない。私は母に反抗もしなかった。そのかわり、毎日毎日、洋服ダンスの上の、あのランドセルが入っているボール紙の箱を眺めていた。今でもあの洋服ダンスの上に、すこし茶色がかったボール紙の箱が載っかっている光景をまざまざと思い出すことができる。
 母に最近その話をしたら、「そんなに詳しく覚えているの? 今思い返せば、かわいそうなことをしたわ。ただお母さんは入学式の時にきれいなランドセルを持たせたいと思ったのよ。でも今考えればまだ若かったし、それだけじゃなくていろいろと未熟な母親だったと思う。かわいそうにね。自由に触らせてあげればよかったね」と言っていた。
 しかし私も今思えば、ランドセルへの熱い思いは、あの時がピークだったかもしれない。入学式の時はたぶん嬉しかったと思うけれど、実はあまり覚えていない。最初にランドセルが枕元に置いてあった朝の喜び、そして箱に入ったランドセルが手の届かない洋服ダンスの上に載っていて、それを見上げていた時の気持ちはよく覚えているのに。
 想像だが、父は買うときに「今度、娘が小学校に入学するんですよ」などと、知り合いの革問屋さんに嬉しそうに話していたのかもしれない。せっかく父が私のために買ってきてくれたランドセルだったのに。 
 小学校6年生まで毎日使ったランドセル。最後にどう処分したかは全く覚えていない。ごめんなさい、そしてありがとう。

2018年10月25日木曜日

23.川に落としてしまったゴルフクラブ


ビルの屋上で。
左から、弟、私、さくらちゃん、じゅんくん

 前回お話した公園の正式名称は「堅川公園」という。まあたまに犬の落とし物に遭遇するが、当時はそれほど住民たちは気にせず、キャッチボールをしたり、トンボ取りをしたり、楽しんで使っていた。ここはすぐ横に川があったので、トンボも沢山いたようである。私の父はトンボ取りが得意で、ここでよく弟にトンボの取り方などを教えていた。あの時の父はまるで少年のようだった。懐かしい。堅川公園は都会の中の貴重な自然という感じだった。
 堅川公園といえば、うちの隣に住むじゅん君のお父さんのことも思い出す。じゅん君のお父さんは、第3回にも紹介したように、豪快で楽しいことにお金を使うのが大好きな人だった。一時期はボウリングにはまり、高価なマイボールにマイシューズを買って、私たちの住む10階の廊下をレーンに見立て、日夜ボールを転がして練習をしていた。これにはうちの家族も、さくらちゃんの赤西家もビックリだったが、毎日子どもたちがガチャガチャとうるさい昭和時代は、そんな大人がいても笑って見過ごしていたのだった。
 じゅん君のお父さんは、しばらくするとゴルフに凝りだした。また高価なクラブを買い、堅川公園で日夜練習に励んでいたが、ある日のこと、クラブを大きく振った瞬間、握った手をゆるめてしまい、何とクラブを川の中にポチャンと落としてしまったのだ。
 その時、じゅん君とうちの弟も一緒にいて、その光景を眺めていた。すぐにじゅん君のお父さんは家に戻り、お母さんに事情を説明した。そこでかなりお父さんは責められたとは思うが、二人はまた川に戻って来て、クラブが落ちている状況を確認した。
 そしてすぐにじゅん君のお母さんは「ひもをつけた強力磁石で回収」することを思い付いた。早速、強力磁石を金物屋で購入し、ひもにくくりつけ、川に沈めた。じゅん君のお母さんの読みは大成功。無事に高価なゴルフクラブを回収することができたのだった。
 いつも宇崎家は、お父さんが何かしでかして、しっかり者のお母さんがフォローする、という構図だったなあ。そんな感じで、うちの近所はいつも何かしら事件があって、退屈しないところだったなあ(笑)

2018年10月23日火曜日

22.幼稚園の頃の恥ずかしい記憶


錦糸町の家のベランダで

 このブログでは既に沢山の恥ずかしい思い出を書いてきた。書いているうちに、自分のことというよりも、自分の孫(娘より)のことのように思えてきている。錦糸町に住む6歳の孫、トコちゃんという自由で元気な女の子の話を書いている気分になってきている。もう時代も変わり、あまりにも昔のことすぎて、自分と繋がっているように思えないというのが正直なところである。
 ということで今回も恥ずかしい、でも懐かしい思い出を書いていきたいと思う。
 写真は私が弟の匂いを嗅いでいるところである。小さい頃の弟はミルクのような本当にいい匂いがして、私はいつもこのように弟の匂いを嗅いで楽しんでいた。しつこく匂いを嗅ぐので、弟は嫌がってよく泣いていた。私が弟を泣かしている現場の写真も残っている。今は弟もオジサンになってしまったけれど、この頃は本当に可愛かったなぁ。
 他にも恥ずかしい思い出はいっぱいある。住んでいた錦糸町のビルの前に、「サルビア」という喫茶店があって、お店の前の花壇にはサルビアの花が植えてあった。誰かが「サルビアの花を引っこ抜いて吸うと甘いんだよ」と教えてくれた。私たちビルの子どもたちはみんな、その喫茶店のサルビアの、中心に突き出た花弁を引っこ抜いてチュウチュウ吸っていた。今思えばあの頃の東京の空気汚染は今よりもひどかったのではないだろうか。お店の人に見つかったことはなかったけれど、見つかったらこっぴどく怒られたことだろう。
 それから幼稚園の頃の最も恥ずかしい記憶といえば、トイレに間に合わなかった日のことである。それはある冬の日の出来事だった。寒かったので私はお気に入りのピンク色のつなぎを履いて、その上に制服のスモッグを着て出掛けた。
 たぶんお昼頃だったと思う。私は寒くて急にトイレに行きたくなった。それほど急を要していたわけではなかったが、トイレの個室に到着した瞬間に安心してしまったのだ。そこからスモッグとつなぎを脱がなくてはいけなかったのに、幼稚園の子にとって、それは手早くできるものではなかった。結局、間に合わずに漏らしてしまった。
 あの恥ずかしい記憶を、私はしばらく引きずっていた。お気に入りのつなぎはしばらく履けなくなったし、トイレには早めに行く習慣が身についた。今でも「個室に入ったからと言って油断しちゃダメ」と自分に言い聞かせている。これはきっと老後に役立つだろう(笑)。
 最後にもうひとつ。ウ⚪コを漏らしたことはなかったが、こどもの頃、私たちは「ウ⚪コ公園」と呼んでいた公園があった。今は犬の散歩の時、飼い主には厳しく「お持ち帰り」が義務づけられている。しかし多くの大人は覚えていると思うけれど、それはほんの少し前までスタンダードではなかったのだ。そういうわけで、ちょっと人通りが閑散としていたその公園は、そのような「愛称」で呼ばれていた。これも昭和ならではのエピソードのように思う。


 

2018年10月20日土曜日

21.東京都慰霊堂

 
東京都慰霊堂で

大人になってから錦糸町界隈を歩くと、道が本当に碁盤の目のようにきれいに並んでいると感じる。子どもの頃はそれが当たり前だと思っていたけれど、それは悲しい出来事の痕跡、関東大震災と昭和の戦争で焼け野原になってしまったことの痕跡なのだ。
 幼稚園くらいの時、横網にある「東京都慰霊堂」に行った。お堂の中に何枚もの関東大震災の絵がかけてあった。激しい炎の中で逃げ惑う人々。子どもにとって忘れられない恐ろしい光景だった。
 ここは現在「東京都慰霊堂」という名前になっているが、サイトで確認すると戦争の犠牲者もまつるため、昭和20年代にその名称になったらしい。その前は「震災記念堂」という名称だった。
 考えてみると、私が生まれた昭和40年は、関東大震災からたったの40年、戦争が終わってたったの20年だったのだ。バブルがはじけてもう20年以上が経つことを考えると、20年は短い。私が生まれたのは戦後すぐだったと言ってもおかしくはない。
 私が小さい頃、駅前にはまだ傷痍軍人さんが軍服姿でラッパを吹きながらもの乞いをしていた。片手を包帯でつっていたりして、ラッパの響きがもの悲しかった。しかし大人たちの中には「あれは本当の軍人さんじゃない、演技なんだよ」と言う人もいた。
 最近同い年の福岡出身の方と話していたら、傷痍軍人さんは福岡にもいたそうである。全国にいたのだろうか。いずれにしても昭和の都会の光景だろう。遠い昔の出来事になってしまった。

2018年10月17日水曜日

20.おはようこどもショーに出演


 ちょうど私が緑幼稚園に入学した46年の4月に、テレビ番組の仮面ライダーが始まっている。あの頃仮面ライダー役をやっていたのは藤岡弘(、は付かない時代)だった。
 たぶん全国の男の子も同じだったと思うけれど、うちの弟も夢中になって毎週見ていた。そしてカメラを向けると必ずこの仮面ライダーの変身ポーズ。まさに馬鹿の一つ覚えである。
 何故男の子は仮面ライダーにはまるのか、女の子には全く理解ができない。
 私が好きだったのは、やはり「魔法使いサリー」「ひみつのアッコちゃん」など。生まれて初めて買ってもらったレコードは「アタックNo.1」「あかねちゃん」「ムーミン」の主題歌が入っているものだった。
 うちは実を言うと、札幌オリンピックの年、1972年にやっとカラーテレビを買っているので、たぶん多くのアニメは白黒で見ていたのではないかと思う。それでも全く不自由も不満もなかったし、楽しく毎日マンガを楽しんでいた記憶がある。
 東京12チャンネルで夕方6時45分ぐらいから毎日やっていたマンガもよく見ていた。「ポパイ」「ウッドペッカー」「チキチキマシン猛レース」など。あの番組は、やはり関東のみでやっていたのだろうか。
 それからマンガではないけれど「ピンポンパン」「おはようこどもショー」も懐かしい。特に「おはようこどもショー」の体操のコーナーは、視聴者が参加できるようになっていて、うちと宇崎家、赤西家も一緒にスタジオに遊びに行き、テレビ出演も果たしたという思い出もある。
 あの時私は小学校に上がっていて、心の中で(こどもの番組に出演するなんて恥ずかしい)などと思い、スタジオには行ったけれど、カメラには写らず、母たちと一緒に撮影を見ていた記憶がある。母に「何で出ないの?」と聞かれて、自分の気持ちを説明するのも恥ずかしく、とてももどかしかった。 
 後日放映もされて、弟たちはちゃんとテレビ出演を果たしたのだった。都会の子どもならではの体験だったと思う。
 あの頃の体操のお兄さんは峰竜太、お姉さんは海老名みどりだった。二人の騒動がワイドショーで流れる度に、私はあの日本テレビのスタジオに行った時の気持ちを思い出すのである。


2018年10月13日土曜日

19.亀戸天神のくず餅、舟和の芋ようかん、そして…


 写真は亀戸天神の藤の花である。平成30年の今はもっときれいに咲き誇っているが、昭和40年代はこんな感じだった。
 亀戸天神のお土産の定番は船橋屋のくず餅。あのプルプルした冷たいくず餅に、きなこと黒蜜をかけるシンプルな和菓子は思い出深い。
 それから舟和の芋ようかんも懐かしい。こちらは浅草が本店だが、錦糸町界隈にはいくつか店舗があり、私にとってはこどもの頃の思い出の味の一つである。
 家から歩いて錦糸町の駅の手前、江東デパートと通りを挟んだ正面には、人形焼きのお店もあった。お店の中には人形焼きを作っている機械もあった。包み紙には本所七不思議の「おいてけ掘」の言い伝え、タヌキのような絵が描いてあったのを覚えている。
 今は洋菓子も含め、もっと美味しいお菓子が沢山あるけれど、あの頃はまだ市販のチョコレートやスナック菓子の種類も限られていて、どれも小さな子どもにとっては特別なものだった。
 幼稚園の頃のお菓子のエピソードがある。私はものもらいの一種、霰粒腫(さんりゅうしゅ)が目にできてしまい、眼科で手術を受けることになった。
 手術は小さな病院で30分程度で終わる軽いものだった。しかし目の中を切る手術だったので小さな子どもには大変な経験だった。怖かったし痛かったけれど、どうにか耐え、無事手術を終えた。
 その時、心配していた母は、私が全く泣かずに耐えたので、約束をしていたわけでもないが何かおもちゃでもごほうびに買ってあげたいと思ったらしい。
「偉かったね、何か欲しいもの、ある? 何でもいいよ」。
 母はお人形やゲームなどのおもちゃをねだられることを想像していたらしいのだが、私は何と「かっぱえびせん」と答えたらしい。
 その頃は確かにかっぱえびせんが大好きだった。カルビーでもまだサッポロポテトやバーベキュー味も発売されていない頃だった。あの頃の私にとって、かっぱえびせんが一番美味しいスナック菓子だったのである。
「かっぱえびせんでいいの? いいよ、買ってあげるよ」
 母は私のことがいじらしくなってぎゅっと抱きしめたそうである。
 それにしてもかっぱえびせんだなんて。本当にいじらしいというか、いじましいというか。昭和のかわいらしい子どもだったなぁと我ながらに思う。

36.【最終回】小学校を卒業、そして・・・

 日光修学旅行が終わった頃、卒業制作の話が高梨先生からあった。 「何か6年1組として記念になるものを作って、小学校の中に残しましょう」  花壇を作るとか、遊び道具を作るとか、いくつか案があったと思うが、話し合いの結果、「トーテムポール」を作ることになった。1組と...