2019年6月6日木曜日

20.女性に成長するほのぼのかわいいお年頃

クラスメイトたちと。
後列右が私。
何となく男子たちのことも意識し始めた頃。

 5年生の頃、私はクラスの女子たちに比べると成長が早く、背も大きかった。上の写真を見てもわかる通り、私は同級生よりも少し大人びている。
 11歳になったある日のこと、母は「明日からこれを付けて学校に行きなさい」と、プレゼントのようなかわいらしい紙包みを私にくれた。中を開けてみると、みずいろのお花のレースが付いたブラジャーが入っていた。
「わぁ、かわいい」
 生まれて初めてのブラジャーだった。ちょっと恥ずかしかったけれど、翌日からはそれを付けて学校に行った。たぶんまだ他の同級生女子はブラジャーを付けていなかったと思う。
 その頃、体育の時の着替えは、男子と女子、別々だったのだろうか。詳細には覚えていない。しかし、誰か女子が気付いて
「あっブラジャーしてるの? 見せて、見せて!」
という感じで、一気にみんなが知ることになったような記憶がある。
 それに親友のちっちゃんとは、登校も下校もいつも一緒で、隠し事も一切なく、いつも互いのことを全て話していたので、きっとブラジャーのことも話したと思う。

 上の写真で私の隣に写っている新藤りか子さん(仮名)は、5年生になって新しい桜が丘の団地に引っ越してきた面白い女の子だった。新藤さんはなぜか私のことをとても気に入ってくれて、いつも私にスリスリしてきた。写真撮影の時も、私は新藤さんにスリスリされ、爆笑させられている。
 新藤さんは私のブラジャーにも興味津々だった。新藤さん自身は、まだ背も小さく痩せている女の子だったので、未知の世界へのあこがれがあったのかもしれない。だんだん大人になって、そういうお年頃になってきた私たちであった。
 
 隣のクラス、5年2組には諸田香澄さん(仮名)という女の子がいた。5年生の時に引っ越してきたので、小学校の時にはあまり話したことはなかったけれど、お互いに存在は知っていた。そして諸田香澄さんとは、中学・高校と一緒で、特に高3の時には同じクラスになってとても仲良くなった。
「としこのことは、小学校の時からよく知ってるよ。5年生の時、としこがブラジャー着けたってこと、2組でもすごい話題になったんだよ」。
 彼女は高3の時に、そんな意外な話も教えてくれた。隣のクラスにまで話が届いていたなんて。それを聞いた私は爆笑してしまった。
 ブラジャーに興味津々だったかわいらしい時代、子どもから大人に変わっていくあの時代の一コマは、ほのぼのとしていいなぁと思う。

 
 


2019年5月29日水曜日

19.ほぼ学級崩壊?ー農家への課外授業

   
写真はイメージです(横須賀写真ライブラリー)

 昭和51年頃、望洋小学校の周りには、少しずつ家が立ち並び始めていたが、久里浜方面へ抜ける吉井のあたりは、まだ山や田んぼや畑、農家が立ち並んでいた。
 ある春の日、歩いて数十分の「吉井の田んぼ」で課外授業があった。池のめだかを観察したり、農家の立ち並ぶ山道を走り回ったり。5年生の私たちにとって、それは本当に楽しい楽しい夢のような時間だった。
 その日のことが忘れられない私たちは、高梨先生に
「また吉井の田んぼ、農家に行きたい!」
「農家!農家!」
と何度もお願いした。
 しかし通常の授業もやらなくてはいけないから、そんなにしょっちゅう農家に出かけてもいられない。高梨先生は困った顔をしながら、私たちの懇願を受け流していた。
 どうしてもまた農家に行きたかった私たちは、みんなで頭をひねって作戦を練った。
「朝、先生が来たら、みんなで農家!農家!と大声で叫ぼうよ」
「そうだ、黒板いっぱいに農家の絵を描こうよ」

 数日後、その作戦は実行に移された。私たちは早めに学校に行って、農家の絵やら文字やらを黒板にめいっぱい殴り書きし、自分たちの情熱を表現した。
 事前の練習ではクラスのリーダー的存在だった、いいちゃんこと飯坂哲太君(仮名)が音頭を取った。
「じゃあ、みんなで声を合わせて。せーの!」
「農家!農家!農家!農家!」
 男子も女子もみんな一緒になって、出来る限りの大声を出した。
「いいね、その調子。じゃあ本番でも僕が、せーの、って言ったらスタートだよ。それまでは静かに着席だからね」
「OK!」
 私たちは高梨先生が教室にやって来るのが待ちきれなかった。どんな反応をするのか、そして農家に再度行くことは叶うのか。ドキドキしながら先生の到着を待った。
 しばらくすると、戸がガラガラと開いて、高梨先生の丸い顔が現れた。
「あらっ、今朝は静かねぇ」
 私たちはいつも教室内でうるさく騒いでいたのに、その日は静かに着席していたから、先生はとてもうれしそうだった。そして黒板に目を移した瞬間、リーダーの飯坂君が
「せーの!」
と合図を送った。その瞬間、一斉に
「農家!農家!農家!農家!」
という私たちの声が教室いっぱいに鳴り響いた。先生は大爆笑しながら、両手を上げて(ストップ!)のジェスチャーをした。しかしその声はいつまでも止むことがなく続いた。
「農家!農家!農家!農家!」
 高梨先生はとうとう根負けして
「わかった、わかったから。農家に連れて行くから」
と言ってくれた。私たちの勝利だった。

 数日経ってから、先生はあの吉井の田んぼの近くにある農家へ遊びに連れて行ってくれた。それは楽しかったけれど、実は私たちが一番楽しかったのは、教室で「農家!農家!」と叫んでいる瞬間だったのかもしれない。教室の退屈な授業から抜け出すこと、先生を根負けさせて自分たちの主張を通すこと、そのようなことが楽しさの本質だったのかもしれない。
 5年生の時の思い出は他にも沢山あるけれど、やはり一番印象に残っているのは、この「農家事件」である。授業ができない状態になって、ある意味「学級崩壊」と言えたかもしれない。あの自由すぎる5年1組の雰囲気は、大人になってからも心の宝物である。自由で優しかった高梨麗子先生には大変感謝している。



2019年5月23日木曜日

18.担任の先生とマージャンをした思い出

 
担任の高梨先生(前列右端)と女子たち。
私は前列左端。

 高梨麗子先生の家には、数名のクラスメイトたちと一緒に何回か遊びに行ったことがあった。
先生の家は、京急の堀ノ内駅が最寄だった。私が住んでいた京浜大津駅(現在は京急大津駅という名称に変わっている)の1つ隣が堀ノ内駅である。たしか先生の家までは歩いて行ったように記憶している。先生はご主人と娘さん一人の3人家族だった。ご主人はとてもスリムで、神津善行(中村メイコの夫)のような風貌の人だった。麗子先生と並ぶと対照的なキャラクターだった。
 娘さんはその頃、幼稚園の年長組くらいだったと思う。顔も体型も麗子先生と瓜二つの丸々と太ったかわいらしい女の子だった。私たちはその娘になぜか「ズバゴン」という愛称をつけた。
 ある時は先生の家で、先生も一緒にマージャンをした記憶がある。私はマージャンを知らなかったけれど、先生に教わって少しやったと思う。残念ながらその後すっかり忘れてしまって今はできない。
 「小学校の時、担任の先生とマージャンをやった」と言うと、だいたいの友人には驚かれる。高梨先生のお人柄がとても気さくで、私たち生徒にとても近しい存在だったからこそだったのだと思う。
 しかしあまりにも気さくで近しいと、子どもたちというのは先生をなめてしまい、時には暴走してしまうこともある。その話は次回詳しく書く予定である。

 ところで4年生の時の担任だった、とても厳しいS先生は、今度は2年生の弟の担任になった。2年生になった当日、弟はふさぎこんで家に帰って来た。いつもは大食いで私の残したゴハンまで食べてしまう弟だったけれど、その日は「食欲がない」と言って大好きなハンバーグを残してしまった。母によると「1年間あまり元気がなかった」らしい。

 私はそんな弟の様子には全く気付かず、S先生と離れて気さくな高梨先生の下、毎日学校で男子に混じって大騒ぎをしている体であった。(つづく)

2019年5月15日水曜日

17.5年生に進級!!

 
5年1組のメンバー
私は最後列の左から2番目

 昭和51年の4月、私は望洋小学校の5年生に進級した。1年前、望洋小の周りは、ほとんど何もなかったけれど、1年の間に建設ラッシュがあり、沢山の家が立ち並んだ。
 特に「桜が丘団地」(通称)という大きな団地が望洋小学校のすぐ前に建設されたことで、急に多くの転校生が増え、学校内も様変わりした。
 私たちの学年は1クラスだけだったのが、2クラスになった。私は5年1組に割り振られ、同じクラスにはちっちゃんがいた。ヨネやカノキャン、永岡君、奥田さん、朝美さん、マコちゃんたちは5年2組になって分かれてしまった。
 ちょっと寂しかった。しかし新しい出会いもあった。
 4年1組のメンバーは、どちらかというとおぼっちゃんっぽい男子が多かったけれど、桜が丘団地に引っ越してきたメンバーは、すごく元気ですばしっこく、スポーツが得意な男子が多かった印象がある。女子も個性的な楽しい子が多かった。
 5年1組の担任は、高梨麗子先生(仮名)という新しく転任してきた30代の先生だった(後ろから2列目の左端)。名前は麗しいのだけれど、写真でもわかる通り、見た目はコロコロとして、とてもかわいらしい先生だった。私たちは早速、先生に「おにぎり」というあだ名を付けた。
 高梨先生はヘビースモーカーで、ちょっとしゃがれた声をしていた。いつも愛車の軽をワイルドに運転していた。コロコロっとした車のデザインは先生にぴったりだった。
 いわゆる「学校の先生」タイプではなかったし、私たちのお母さんとも全然違ったタイプだった。
 そんな高梨先生は、教育方針も自由だった。いや、特に「方針」というものは持ってなかったのだと思う。
 私たちはそんな高梨先生のもとで、とても自由奔放な、楽しい1年間を送ることができた。(つづく)
 

2019年4月27日土曜日

16.転校生の加納君の悩み


4月には22人しかいなかったクラスメイト、年が明けたころには30人以上に増えていました。最後列の真ん中あたり、三つ編みの朝美さんの左が加納君。

 私が横須賀で住んでいた新しいマンション群には、最初5階建てが9棟あった。その後、時期をずらして7階建てと11階建ての2つの高層が新たに建設され、さらにたくさんの転校生が増えていった。
 高層マンションに引っ越してきた転校生の一人、加納公平君(仮名)は、優しい感じの男の子だった。色白で丸顔。全体がふわっとしたマシュマロのようなイメージの子だった。
 彼は川崎市内から転校してきたのだが、転校の数か月前からある悩みを抱えていた。理科の授業で「化膿菌」という言葉を学んでから、クラスのみんなに「加納菌」と呼ばれるようになってしまったのだ。
 授業の前に教科書でその言葉を見つけた時、(これはやばいことになるぞ)と彼は思った。案の定、先生が「化膿菌」を紹介した時に、クラスの皆がうれしそうに加納君の方を振り向いた。加納君は何事もなかったように笑顔を作っていたけれど、心の中は非常に傷ついていた。
 自分の名前に「菌」を付けて呼ばれることほど悲しいことはない。いじめの常とう手段である。いじめる方はあまり悪意を感じていないことがまた厄介である。
 加納君の一縷の望みは「もうすぐ横須賀に転校する」ということだった。しばらくの間我慢し、数か月後、加納君は私たちの望洋小学校4年1組に転校してきた。
 転校の日、担任のS先生が皆の前で加納君を紹介すると、さっそく休み時間には数人の男子が加納君の周りに集まってきた。
「僕は米本って言うんだ。ヨネって呼ばれてる。こっちは井上君、イノッピって呼ばれてるよ」
 明るく積極的な米本君は、加納君にそう自己紹介し、最後に
「ところで加納君は、川崎の小学校で何て呼ばれてたの?」
と聞いた。
 加納君は困ってしまった。何と答えようか。嘘を言うのもいけないことだし、でも正直に言ってしまったらまた「加納菌」と呼ばれてしまう。
 しばらく悩んでから意を決し、小さな声で、もごもごと
「か、かのう、きん…」
と答えた。
 加納君の白い顔はみるみる真っ赤になり、少々口も震えていた。それを見ていたヨネやイノッピは、川崎の小学校で何があったのか、全てを察したのだった。そして
「よし、じゃあ、この学校では、カノキャンて呼ぶのはどう?」
と新たな呼び名を提案した。
「うん、カノキャン、いいねぇ」
 加納君は米本君の優しさと機転が、涙が出るほどうれしかった。
 それからは加納君の名前に「菌」を付けて呼ぶ子は誰もいなかったし、いつまでも「カノキャン」と呼ばれるようになったのだった。

 大人になってから、久しぶりに同窓会で加納君に会った時、一人の女子が
「そういえば、カノキャンっていう呼び名は、どうして付いたの?」
と突然聞いた。そこでカノキャンは、私たちに川崎の小学校の話やヨネが名付けてくれた話を聞かせてくれた。
 私も全く知らない話だった。切ないけれど、ちょっと感動する友情物語を、ぜひ書き残しておきたいと思った次第である。
(この話を書くことは加納君本人から快諾をいただいています。若干脚色はありますが、事実に基づいています)
 
 
 


2019年4月24日水曜日

15.ちっちゃんと歌ったGメン76

工作の時間に人形劇の人形を作りました。
中央がちっちゃん。

 望洋小学校に転校してから、一番長く一緒の時間を過ごしたのは、ちっちゃんこと荻野愛美さん(仮名)だった。彼女は私と同じマンション群に住んでいて、登下校も必ず毎日一緒だった。
 以前にも書いたが、彼女はクラスでも一番小さかったので、「ちっちゃん」と呼ばれていた。小学校3年まで住んでいた横浜の小学校でも、ちっちゃんと呼ばれていたらしい。
 横浜出身のちっちゃんは、よく会話の語尾に「~じゃん」を使っていた。錦糸町から引っ越してきた私にとって、最初それは驚きだった(今では私も普通に使っているが)。
 望洋小学校の生徒は、同じ横須賀市内から引っ越してきた子も多かった。その子たち、特に男の子たちは会話の語尾に「~だべ」を多用していた。東京から引っ越してきた私にとって、「だべ」は「じゃん」以上に衝撃的だった。何だかひどく田舎者になった気がして、
(絶対、だべ、は使わないぞ!)
 と心の中で誓っていた。今では元SMAPの中居くん(藤沢出身)が「だべ」を全国区にしてくれた。隔世の感がある。
 ちっちゃんは活発な女の子で、陸上、ボール競技など、全ての体操競技が得意だった。私が大の苦手だった器械体操なども得意だった。そういえば、あの頃、まだ望洋小学校には体育館がなく、1つの教室に体操マットを敷いて器械体操の授業をやっていたことを思い出す。体育館が完成したのはいつのことだったろう。
ちっちゃんは音楽も得意で、今でいう「絶対音感」を持っていた。全ての曲をドレミファで歌うことができたし、車のクラクションなどもドレミで表現できた。
 その頃、よく私たちはテレビ番組の主題歌を替え歌にして、登下校中に一緒に歌っていた。特にお気に入りだったのは「Gメン75」だった。
 「Gメン75」は、たしかTBS系で、土曜日の夜9時からやっていた番組である。丹波哲郎がボスだった。
 小4の頃の私は、毎日9時には眠くなって寝てしまう生活だった。Gメン75がある日は頑張って起きて見ていたことを思い出す。
 ちっちゃんも私と同様、Gメン75の放映を楽しみにしていた。そして私たちはいつからか、マコちゃんなどクラスの数人をメンバーにして「Gメン76」という架空の物語を作り上げるようになっていた。
 ちゃんと「Gメン76」のテーマ曲も作った。本家の番組では「追憶」というエンディング曲があり、歌詞は「♪いつか来た道、あの街角・・・」という感じだったが、「Gメン76」のテーマ曲は
「♪いつか来た学校、あの望洋小学校・・・」という感じだった。
 私たちは登下校の途中で、よく「Gメン76」の歌を歌っていた。まだ子供で、本当に他愛のない、かわいらしい時代だったと思う。
 二人とも、あまり勉強には興味がなく、いつも元気に、毎日楽しく暮らしていた。
 ちっちゃんは今も元気で、一番頑張っているのは子どもの教育だと思う。子どもが小学校の頃からお受験なども頑張っていた。私たちが小学校の頃、楽しくお気楽な日々を過ごしていたことは、きっと子どもには内緒にしているに違いない(笑)。

2019年4月3日水曜日

14.Pパン=PTA推奨パンツ?


 

 望洋小学校は全員が転校生だったので、みんなの体操着もまちまちだった。前の小学校の校章がプリントされた体操着を着ている子も多かった。それでもみんな気にせず、誰かを仲間外れにするわけでもなく、3年生まで着ていた体操着をそのまま着ていた。
 その頃、特徴があったのは女子の体操着である。ボトムのデザインが様々だった。ちょうちんブルマー(昭和!)の子や、男子と同じような形のショートパンツで色が紺や黒だったりするものを履いている子もいた。
 私が履いていたのはPパンだった。Pパンという名称が正しいのかどうか、念のため検索をしてみたら、正式名称はPTA推奨パンツで、「横須賀だけで通用する名称」と書かれたサイトをいくつか発見した。
 たしか東京に住んでいた時からPパンと呼んでいたような気もするが定かではない。
 それになぜ「PTAが推奨」なのだろう。推測するに、ふだんスカートの下などに、これを履くことが推奨されていたのではないだろうか。私も母から必ずPパンを下に履くように言われていたことを思い出す。
 これから友人たちにも聞いて確かめてみたいと思っている。 

36.【最終回】小学校を卒業、そして・・・

 日光修学旅行が終わった頃、卒業制作の話が高梨先生からあった。 「何か6年1組として記念になるものを作って、小学校の中に残しましょう」  花壇を作るとか、遊び道具を作るとか、いくつか案があったと思うが、話し合いの結果、「トーテムポール」を作ることになった。1組と...