2019年9月28日土曜日

35.修学旅行で日光へ

今回は、写真を数枚掲載する形で、修学旅行の思い出をつづりたいと思う。

日光東照宮の前で記念撮影。

華厳の滝の前で。
ちっちゃん小さい(笑)。
今は160㎝で私より大きくなりました。
後ろにはサワも。

旅館に到着。
高梨先生が、いきなり畳の上にゴロン。
「ああ、いい畳ねえ」と感触を味わっています。

宿泊して朝食の時間。
オチャ、マコちゃんの仲良しコンビ。
私は奥にいる赤いカーディガン。

卒業文集の私の作品。
何だか今の文章タッチと既に同じです。

日光修学旅行
私は、まだ二年か三年だったころから、早く六年生になって修学旅行に行きたい、と思っていました。
そして修学旅行の日、その時はもう、とびはねたり、さけんだりしてばかりいました。
旅館でねる時は、修学旅行の中でも一番印象に残っています。みんなとねるのは初めてだし、どうしても目がとじてくれません。
他の部屋の人たちから何回か注意があったのですが、ききめなどありません。
とうとう角井先生からしかられてしまいました。
「静かにしろ!」
それからは、もうだあれも口をきこうとはしません。そのかわり、せきばらいばかり、してしまいます。
いつの間にか私はねむってしまったみたいです。
起きてみるとまだ三時半でした。けれどねむたくなんかありません。女の子みんなで遊びました。
その日、電車に乗ってから考えました。
「ああ、もう楽しみにしていた修学旅行も終わってしまうし、小学校生活も、あと少ししかないのだなあ」と。


2019年9月23日月曜日

34.痛い黒歴史:市の音楽会でお琴を弾く

左はじ、お琴の前に座っているのが私。

 6年生の11月に、「横須賀市立小学校音楽会」が横須賀文化会館で開催されることになった。
 市内の全部の小学校が集まって、合奏を行う大きな大会である。
 私たちの望洋小学校は、軽快な「ぼくらの木馬は世界を回る」と、渋い「荒城の月」という対照的な2曲を演奏することが決まった。
 大会の1か月ぐらい前から、パート決めが行われた。写真を見ると、笛、ピアノ、オルガン、エレクトーン、ピアニカなどを演奏する生徒たちがいる。
 クラリネットを吹くオチャの姿や、フルートを吹く香澄ちゃん、ベースギターを演奏するヨネの姿も写っている。ヨネはベースを演奏するのは初めてだったらしい。オチャや香澄ちゃんも初めてだったのではないか。先生はあえて子どもたちにチャレンジをさせたのだと思う。
 私はなぜか「琴」を担当することになった。お琴は習ってもいなかったし、なぜ私が担当になったのかは謎だが、たぶんその頃からこけしのような「和の雰囲気」を醸し出していたのだろう。あまり気分は進まなかったが、一応抜擢をされたということで頑張ろうと心に誓っていた。
 数日後、学内の先生の知り合いで、お琴の先生をやっている松沢光枝先生(仮名)が、私の指導のために小学校に来てくれた。やさしいおっとりとした松沢先生の指導のもと、素人ながらもどうにか「荒城の月」のサビのフレーズが弾けるようになった。
 曲の中で、私が演奏するのはそのサビの部分だけだったが、ソロで弾かなければいけないので目立つし、責任は重大だった。

 そして当日。望洋小学校の出番が来る10分前くらいに、私はお琴のチューニングをしに舞台の袖の所へ行かなければならなかった。その時、担任の高梨麗子先生が
「一緒に行ってあげようか?」
と言ってくれたのだが、何となく手間をかけるのが申し訳ないような気がして
「いいです、大丈夫です」
と言ってしまい、一人でチューニングをすることになった。
 袖の暗い所で、いつも通りのチューニングは難しかったけれど、
(だいたいこんな感じかな?)
と適当に合わせて済ませた。その時、望洋小の2つ前の小学校が演奏中だったので、お琴の高い音を出すと、聞こえてしまうような気がして、音を出して確認することができなかった。でも大丈夫だろうと高をくくっていた。
出番前、待機している私。
この後、悲劇が!

 そして本番。いいかげんなチューニングのせいで、とんでもなく音の外れた「荒城の月」がソロで会場全体に鳴り響いた。最初に1,2音、弦をはじいた時に
(あっ、これはまずい!)
と思ったが、中断するわけにはいかず、外れた音のまま最後までフレーズを弾き続けた。もう、針のむしろの上に座っているような気分だった。

 演奏が終わった後、誰かが気軽に
「ちょっと音が外れてたねっ」
などと笑って話しかけてくれることを期待していた。そうすれば
「えへへっ、失敗しちゃった」
と舌を出して笑い飛ばすことができたと思う。
 しかし、期待に反して、先生も友達も、誰一人として私のお琴に関してコメントしてくれる人はいなかった。どうしようもなく落ち込んでしまった私だった。
 私を抜擢してくれた先生方、お稽古をしてくれた松沢先生には本当に申し訳なかったと思う。そしてせっかくがんばって練習してきたのに、ぶちこわしてしまったことを、同級生のみんなにも大変申し訳なく思った。

 かなり落ち込んでしまったけれど、基本的に脳天気なので、数日経つと元通りになって、またサワと真二君の話で盛り上がったり、ちっちゃんと元気に走り回ったりしていたように思う。
 かなり痛い黒歴史。しかし「何事もいいかげんでは上手くいかない」という教訓も学んで、良い経験だったのではないだろうか。

 


 



2019年9月16日月曜日

33.卒業写真に一緒に写っちゃった原田真二君

 

修学旅行で。
左端の赤いカーディガンが私。

前回、私がどれほど真二君の大ファンだったかという話をしたが、同じクラスの中には私よりももっと激しい真二君ファンだった女の子がいた。
 サワこと沢井美紀子さん(仮名)は、5年生の時に引っ越してきた女の子で、6年生に上がる時はクラス替えがなかったので、2年間同じクラスで過ごした一人だった。
 彼女はクラスで一番背が高く、雰囲気も大人な感じの「頼れるお姉さん」というタイプだった(上の写真で中心にいるのがサワ)。
 私とサワ、どちらが先に真二君のファンになったかは覚えていないが、私たちは小学校6年の秋ごろから、しょっちゅう真二君の話ばかりしているミーハーな女子になっていた。
「サワ、昨日のザ・ベストテン、見たあ?」
「見た見た! 黒柳徹子さんったら真二君のこと、かわいいかわいいって言いすぎだよねぇ、もう」
 などど、どうでもいいことを朝からペチャクチャしゃべっている毎日だった。
 
 サワは私よりも激しい真二君ファンだったかもしれない、そう思う根拠が小学校の卒業写真に残っている。

 この写真のちょうど真ん中、後から2列目に赤いネクタイの背の高い女の子が写っている。これがサワなのだが、写真を拡大すると、サワの胸ポケットのあたりに、何やら黒いものが写っている。
実はこれ、真二君のブロマイドなのである。カーリーヘアが四角い写真いっぱいに写っている。
 この写真を撮る前、サワは左ポケットに真二君のブロマイドを隠し持っているのを私に見せてくれた。
「シャッターが降りる瞬間に、この写真をポケットから出す作戦なの」
とサワはいたずらっぽく笑っていた。
「わぁー、面白い! やってやって!」
 私たちははしゃぎながら撮影に臨み、そして真二君はしっかりと私たちの卒業写真に写り込んでくれた。
 ブログにはあえて精度を落として掲載しているが、実物の写真ではかなり鮮明に真二君の顔がわかる仕上がりになっている。サワと私は大喜びだった。

 中学1年生でも、偶然サワと私は同じクラスになり、真二君ファン活動は続いた。途中から二人とも松山千春のファンにもなり、「オールナイトニッポン」を聴いて、翌朝感想を言い合ったりして楽しんでいた。
 たぶん誰か芸能人のファンになったことがある人にはわかると思うけれど、私たちは、友達同士で共通の話題で騒いだり、仲良くしたりすることが楽しかったのではないかと思う。もちろん真二君や松山千春のことは好きだったけれど…。
 まだ実物の男の子に恋をする前の、12~3歳の女の子にありがちな日々であった。

 卒業写真が登場しましたが、あと4~5回くらいくらい、このエッセイは続く予定です。 
 
 

2019年9月7日土曜日

32.ラジオで原田真二くんを知る


 昭和50年代は、ラジオ文化も盛んだった。小学6年生の頃、私はよく日曜日の午後、1時から5時まで「歌謡曲電リクベスト10」を聴いていた。リスナーの電話リクエストで順位が決まり、最後の1時間で「今週のベスト10」を流す番組である。
 昭和52年の秋のある日、第10位の中島みゆきの「わかれうた」がかかった後に、第9位として「てぃーんずぶるーす」という曲がかかり、私は雷に打たれたような衝撃を受けてしまった。原田真二君との初めての出会いだった。
 生まれて初めて聞いた、とてもハッピーでおしゃれなコード進行、英語で歌っているようなリズミカルな歌い方、失恋した男の子の歌詞(松本隆・作)にもキュンキュンしてしまうし、作曲は自身で行っている「シンガーソングライター」だと言う。その後、テレビで歌っている真二君を見てすっかり大ファンになってしまった。

 真二君はその頃、青山学院大学経済学部の1年生だった。それまでは青山学院大学のことはたぶん知らなかったと思う。「渋谷にあるおしゃれな大学」と知ってからは、非常に憧れていた。

 その頃「平凡」「明星」「近代映画」などの芸能グラビア雑誌があり、私たちティーンの情報源となっていた。友達同士で切り抜きの交換もした。
 クラスに川崎麻世のファンの安斉菜穂子さん(仮名)がいて、「近代映画」を毎月買っていた。彼女はよく私に真二君のページの切り抜きをくれた。私は毎月「明星」を買っていたので、安斉さんに川崎麻世のページをあげていた。
 私たちはその切り抜きをA4サイズのカードケースに挟んで、下敷きとして使っていた。
 真二君からは様々なことを学んだ。「好きな女優はオードリー・ヘップバーン」とインタビューに答えていることがあった。私はその後TVで放映された「ローマの休日」を見て、同じようにオードリー・ヘップバーンのファンになった。
 ボズ・スキャッグス、エルトン・ジョン、ポール・マッカートニーなど、真二君の好きなアーティストを知って、それから私も洋楽を聞くようになっていった。
 かなりの大ファンだったが、コンサートなどには行くことはなかった。まだ小学生だったので、本物の真二君に会いたいとは思いつつも、行動を起こす勇気はなかった。

 そして36年後の2013年。逗子のコンサートで初めて本物の真二君に会うことができた。
私は48歳、真二君は54歳になっていた。

 実はこの時、並んだ写真を撮ろうとして、勝手に真二君の後ろに入り込んだ私であった。係りの人に取り押さえられている姿までもがカメラに収まっていた。非常に迷惑なファンである(笑)。
 ごめんなさい。でも真二君は私の永遠のあこがれの人なのです。どうぞお許しください。
 

2019年8月31日土曜日

31.錦糸小のスパルタ水泳指導と、ローラースケートもできるプールの話

  横須賀の望洋小学校の授業で。
    左が私。

 小学校3年の話にさかのぼるが、通っていた錦糸小学校は、都会の真ん中にありながら、水泳の指導にかなり力を入れていた。
 たしか1級から30級くらいまで細かくあって、30級の「顔を水に付けられる」から始まっていたと思う。しょっちゅう昇級テストがあり、1つ級が取れると、水泳帽に縫い付けるひもを1本もらうことができた。だから水泳が得意な子の帽子には沢山の線が縫い付けてあった。
(これは当時の都内の小学校の共通の指導方法だったのかもしれない。似たような記憶がある人は教えてください)
 私はどちらかと言うと、水泳はあまり好きではなかったが、スパルタ教育のおかげで、10メートルの平泳ぎくらいはできるようになっていた。それは錦糸小学校の同級生の中ではかなり泳げない児童の部類だった。
 水泳帽にもほとんど線を縫い付けることができず、水泳の授業の際には、恥ずかしい、肩身の狭い気持ちで臨んでいたことを思い出す。皆に成績がわかってしまう指導法というのは、頑張る原動力になるかもしれないが、苦手意識をさらに増幅させてしまう原因でもあるように思う。

 小学校4年で横須賀の望洋小学校に引っ越してきて驚いたのは、海がすぐ近くにあるのにかなづちの子がけっこういたことである。だから新しい小学校の中では、水泳が得意な子の部類に入ってしまった。やっと楽しく水泳ができるようになった私だった。
 望洋小学校は、創立当初、プールがなかったので、馬堀海岸にある市営のプールまで出かけて授業を行っていたことを思い出す。
 そのプールは、まわりがローラースケート場になっていて、夏はプール、それ以外の季節はローラースケートという感じで、季節を問わず、授業以外でもよく遊びに行った思い出がある。夏休みの多くの時間を、あの馬堀プールで過ごしたのではないだろうか。
 プールの後は売店でジュースやアイスクリーム、お菓子などを買って食べたことも楽しかった。フリトレーの「チートス」に出会ったのもあのプールの売店だった。今ではどこでも目にするが、昭和50年頃は珍しく、あのチーズ味が特別においしく感じられたものだった。
 馬堀から少し先には、走水(はしりみず)海岸もあって、そこでもよく海水浴を楽しんでいた。横須賀に住んでいた時は、海や海岸、水泳などの夏らしさが身近にあった気がする。
 
 今日は8月31日。夏ももう終わる。今年は水着を一回も着なかった。昨年水着を着たのは泳ぐためではなく、海外旅行の海岸でちょっとだけ水を触るためだった。
 どっぷり水泳を楽しむことをしなくなってもう何年になるのだろう。
 
 

 

2019年8月24日土曜日

30.演劇クラブに入る

 6年生になった時、授業とは別に全員が何か好きなクラブに属して活動する、ということがあった。 
 私は演劇クラブに入会した。その頃、思春期の女子の例にもれず、テレビドラマや芸能界にとても興味を持っている女の子だった。
 4年生の時は「将来は幼稚園の先生」などと書いていたが、高学年になると「どこかの劇団の舞台女優になって、その後はテレビで活躍」なんてことまでイメージしていた。人前で話したり、人に何かを伝えたり、感動させたりすることに興味があったのだと思う。
 ただ「美人女優」になれないことは幼い私でもわかっていた。だから大竹しのぶや樹木希林のような演技派に漠然と憧れていたのだった。
 上の写真の左の方に、シナリオらしきものを2人で持っている女子の1人が私である。一緒にシナリオを持っているのが5年生の時に転校してきたムラチこと村木宏美さん(仮名)である。ムラチは、おとなしいけれどしっかりしていて優しい感じの女の子だった。とても手先が器用で、その頃女子の間で流行っていたマスコット作りなども得意だった。
 右端に立っているサングラスをかけた上下黒の男性が顧問だった。6年2組の担任だった角田昭雄先生(仮名)である。
 角田先生は、ちょっとアングラ劇団の男優のようにも見えるが、特に厳しい指導があったわけでもなく、みんなで和気あいあいと「演劇ごっこ」をしていた感じである。頻度も隔週か、月に一度程度だったと思う。実際に何か劇を発表したとか、そういう記憶はない。
 中高の部活とは違って、他のクラブもゆるい感じで行われていた。たぶん中学に向けて、授業とは別の趣味活動への順応といった目的があったのではないだろうか。
 アルバムには、写真新聞クラブ、手芸クラブ、マンガクラブ、将棋クラブ、音楽クラブ、ポートボールクラブなど、多彩なクラブが載っていて、皆授業時間とは別な、楽しそうな笑顔を見せている。
「遊び研究クラブ」というのもあった。いつでも一緒だったちっちゃんは、遊び研究クラブに属していた。写真の一番手前に写っているのがちっちゃんである。両ひざに置いた手と笑顔がかわいらしい。
 遊びを研究するクラブ、とはいったいどんなことをやっていたのだろう。ちっちゃんに聞いたら「校庭で手つなぎ鬼をやったり、室内ではカルタや百人一首をやっていたような。いろいろな遊びをしていたよ。研究は特にしていなかったと思う」とのことだった。  
 たぶんクラブ活動の目的は、自発的に何か自分の好きなものを選んで取り組むこと、お友達づくり、みんなと協力したり、楽しんだりすることだったのだと思う。クラブ活動を通じて、数年後の中高の部活動などもイメージできたと思う。
 クラブ活動があったこと、アルバムを見るまでは実はすっかり忘れていたのだが、振り返ると意外と大事な経験だったのかもしれない。

2019年8月10日土曜日

29.キャンディ♡キャンディ、「なかよし」を本屋さんで買っていた頃

 
キャンディ♡キャンディのLPレコード

 昭和51年5月から、私は少女向けまんが雑誌「なかよし」を買っていた。同じ少女まんが雑誌で「りぼん」もあったのだが、きっと本屋さんで表紙を見て「なかよし」の方を気に入ったのだと思う。
「なかよし」といえば「キャンディ♡キャンディ」である。私が買い始めた頃、すでにお話は佳境に入っていた。初恋の人アンソニーは事故で他界していて、キャンディはテリィのことを愛し始めていた頃だった。舞台はアメリカとスコットランド。タータンチェックやバグパイプなどを生まれて初めて知ったのも、この物語の中だった。
 私はお話しに夢中になり、毎月発売日には近所の本屋さん「大津書房」に急いで行って買っていた。その頃は300円だった。レターセットなどの付録も沢山付いていて、錦糸町の友達との文通などに大切に使っていた。
 昭和51年の10月からは、テレビでの放映もスタートした。放映の初日はドキドキしながらテレビの前で楽しみに待っていた。しかし「なかよし」の原画とはどこか違うタッチ、雑な感じの絵に心底がっかりした記憶がある。大ファンだっただけにその落胆は大きかった。
 とは言いながらも毎週しっかりテレビはみていた。それに主題歌などが入ったLPレコードも買って何度も何度も聴いたり歌ったりしていた。よほどはまっていたのだと思う。
 今はあんなふうに、発売日を楽しみにするとか、好きな曲を何度も聴くとか、そういうことは一切なくなってしまったなと、あの頃を懐かしく思う。年齢もあるのだろうけれど、物に対する有難みが時代と共に薄れてしまったと思う。
 あの頃通った「大津書房」も、数年前に京急大津を訪れた時、すでに無くなっていた。店主のオバサンがいつも立ち読みの客に目を光らせていて怖かった。そんなことも懐かしい。
 今は大きな駅の本屋さんもなくなりつつあって寂しい。横須賀中央にあった「平坂書房」もなくなっていたのには驚いた。
 変化は早い。でもそれだけもう長く生きているということなのかもしれない。
 

36.【最終回】小学校を卒業、そして・・・

 日光修学旅行が終わった頃、卒業制作の話が高梨先生からあった。 「何か6年1組として記念になるものを作って、小学校の中に残しましょう」  花壇を作るとか、遊び道具を作るとか、いくつか案があったと思うが、話し合いの結果、「トーテムポール」を作ることになった。1組と...