2019年6月27日木曜日

23.女子だけに見せられた秘密の映画

写真はイメージです。内容とはあまり関係ありません。
校庭で。矢印が私。

 5年生のときの出来事で書き忘れてはならないことがあった。それは、たぶん他の小学校でも共通の出来事だと思う。私たち望洋小学校では、昭和51年のたしか夏ごろにあの出来事はあった。

 ある日、担任の高梨麗子先生が
「今日はこれから、女子だけ、部屋を移って映画を見ます。男子はその時間、校庭で自由に遊ぶ時間になります」
というような内容のことをクラスの皆に伝えた。その時、私たち女子たちは何故だか(あ、あの内容を見るのかな?)という想像がついたように記憶している。
 男子たちは「やったぁー」などと叫びながら、校庭に出て行った。隣の2組の担任の先生は角田昭雄先生(仮名)という当時40代の男の先生だったので、1組2組両方の男子を引き連れて校庭に出て行った。
 私たち女子は、その後別な教室へ移った。教室は黒いカーテンで遮光され真っ暗だった。カーテンの端をちょっとつまんで外を見ると、男子たちが元気にドッジボールをやっている光景が見えた。
 遮光された暗い部屋には、1組の女子の他に、2組の女子たちも全員いた。奥田さん、朝美さん、マコちゃん、オチャ、香澄ちゃんたちも座っていた。そして高梨先生の他に、保健室の山本節子先生(仮名)がいた
 最初にたしか山本先生から何か説明があって、その映画は始まった。30分程度の内容だったと思う。女の子がだんだんと大人になってくると体に起こる変化のことや、妊娠、出産のこともあったように記憶している。知っていたこともあったし、知らないこともあった。
 教育的映画だから、あまり楽しいものではなかったけれど、私たちは興味津々で静かに最後まで見ていた。
 映画が終わると、高梨先生から補足説明などがあった。「もし何かわからないことがあったら、遠慮なく私や山本先生に相談してください」というようなことだったと思う。
 5年1組の教室に帰って、しばらくすると男子たちが校庭から帰ってきた。男子たちと顔を合わせるのが何となく恥ずかしかった。私たち女子が何の映画を見たのか、男子たちは知っていたのだろうか。

 学校が終わり、下校はいつもと同じようにちっちゃんと一緒だった。
「なんか、びっくりしたねぇ」
「うん、ちょっとドキドキしたねぇ」
などと感想を述べ合いながら並んで歩いた。

 昭和のあの頃、日本のどこの小学校でも同じような時間があったと思う。今は内容もずいぶん変わった。もっと低学年でDV防止や人権も含めた教育があったり、男子も一緒に見るようになったとも聞く。
 時代や内容は変わっても、大事な教育の時間であり、私にとっても忘れがたい記憶の1つである。

2019年6月19日水曜日

22.走り幅跳び、まぐれで銀メダル

陸上大会の写真は残っていないので、「跳び」つながりで跳び箱の写真を。体が固く、それほど運動神経が良いほうではありませんでした。

 今もあるのかわからないが、私が小学校の頃は、オール横須賀市の小学生による選抜の陸上競技大会があった。
 不入斗(いりやまず)にある大きな陸上競技場で開催され、それに選抜されることは大変な名誉だった。
 たしか小学5年生と6年生が対象だったと思う。私が4年生の時には、5年生6年生の、体格が立派でスポーツが得意な先輩が選抜され、尊敬のまなざしで見ていたことを思い出す。
 
 翌年、私たちが5年生になり、夏休みが終わった頃だったと思う。先生から
「不入斗の陸上大会に出場する選手を決めるので、放課後に残ってください」
と連絡があった。
 それは全員ではなく、ある程度足が速いと思われているメンバーたちだった。男子は誰が選抜されたのかあまり覚えていないのだが、たぶん勉強もスポーツも得意だった大河内君は選ばれていたのではないか。それから足が速かったミソこと峰田洋貴君(仮名)や、クックンこと久木野栄一君(仮名)、タニはんと呼ばれていた谷橋慎一郎君(仮名)などがいたのではないかと思う。
 女子は、ちっちゃん、私、それから5年生の最初に転校してきた工藤敦子さん(仮名)など、数名が残るように言われた。
 隣の2組からは朝美さんやマコちゃん、そして5年生の時に転校してきた、オチャこと大浜由紀さん(仮名)などがいたと思う。オチャは運動神経が抜群でボーイッシュなかっこいい女子だった。同じボーイッシュなマコちゃんとは気が合うようで、二人はいつも一緒に行動していた。
 初日に全員でまず短距離競争をさせられ、たしかちっちゃんがトップで、短距離走に出場することが決まった。走り高跳びは朝美さんが選手に決まり、ほかにも幅跳び、ソフトボール投げ等の競技があって、それぞれ選手が選ばれたと思う。私は短距離の補欠になった。
 それから数日、大会の日まで放課後で練習があった。補欠の私も毎日やらなくてはならなかったけれど、いつも一緒のちっちゃんもいることだし、お気楽に遊びながらふらふらやっている感じだった。

 そして大会の数日前になり、幅跳びの選手がけがでもしたのだろうか、詳細は覚えていないが、急に「補欠メンバーから走り幅跳びの選手を選ぶ」という話になって、3~4人の女子が砂場で幅跳びをやらされた。
 全員あまり距離は出なかったけれど、一応私が一番いい記録(たしか3m3cm)が出たということで、選手になることが決まった。その頃の私は、同級生の中でも成長が早く、背も高かったのが良かったのかもしれない。
 家に帰ると、ちょうど用賀のおばあちゃんが来ていた。選手になったことを報告するととても喜んでくれて「じゃあ、いい運動靴を買ってあげる」と言って、一緒に近所の小さな靴屋さんに行った。買ってもらったのは白地に赤と青の線が入ったひも靴だった。靴底にギザギザがある、ちゃんとした運動用のシューズを買ってもらったのは生まれて初めてだった。
 それまでは運動会でリレーの選手として走った時も、普段履いている子供用の運動靴を履いていた。昭和のあの頃、小学生たちはまだスポーツメーカーのシューズなど持っている子はいなかった。
 私が買ってもらったのもブランドメーカー品ではなかったし、今考えれば昭和っぽいシューズだったけれど、おばあちゃんに買ってもらったことがとてもうれしく、当日は頑張れそうな気がしてきた。

 そして当日。不入斗の大会には、全市内から多くのアグレッシブな感じの小学生が集まってきた。望洋小学校にはいないタイプの、ちょっと不良っぽい女の子も沢山いた。
「ベイシティ ローラーズのファン」
「私も!」
などと会話している女子たちがいたのを覚えている。その時初めてベイシティローラーズという名前を知り、その後ベイシティローラーズを聴くたびにあの日のことを思い出す。
 私は気後れはしたけれど、緊張することはなく、いつも通り走り幅跳びを行った。
 すると跳躍の2回目に、自分でもスカッとするような、空を舞う感じの距離を跳んだ気がした。測定の先生が
「3m88cm」
と大きな声で言った。今までの最高は3m30cmくらいだったから、測り間違えかな?とも思ったけれど、まあいいや、良かった、いい記録が出たんだと思った。
 結局私は第2位、銀メダルを取ることになって表彰台に上がった。優勝した子の記録は3m92cmで、4cmの差だった。
 うちに帰って母に報告すると、とてもうれしそうに
「すごい、やったわね!としこは本番に強い子なのよ!」
と言った。母が喜んでくれたのはとても嬉しかったけれど、私は淡々としていた。それほど努力もしなかったし、入賞しようとして必死にもならなかった。もっと頑張っていれば嬉しかったのかもしれないが。
 結局「本番に強い子」という母の言葉を、素直な私は信じてしまい、その後も勉強やスポーツで努力することもなく「本番でどうにかなるだろう」という生活を送ってしまった。あの不入斗の大会のまぐれ入賞が、私にとって本当に良いことだったのかどうかはわからない。

 用賀のおばあちゃんの写真も載せておきます。
優しくて大好きでした。
私が3歳くらいのころ。

2019年6月14日金曜日

21.ドロケイ?ケイドロ?ドロジュン?

運動会の時に撮影。
放課後も男子達に混じって駆け回っていました。
矢印が私。

 私たちはドロケイとか、ドロジュンと呼んでいたけれど、地域によって様々な呼び名がある遊びを、子どもの頃、誰もが一度はやったことがあると思う。メンバーを「泥棒」と「警察」の半分に分けてやる、鬼ごっこの一種である。 私がこの遊びを放課後に盛んにやったのは、小学校5年生の時だった。
 前にも書いたように、5年生になった時、うちのマンション群の中に、新しく11階建てと7階建てのマンションが建設された。この2つのマンションが逃走の場で、牢屋はマンションの前にあるゴミ置き場だった。
 毎回メンバーは全部で15人くらいだっただろうか。私とちっちゃん以外は全部男子だった。今までの話にも登場したカノキャン、ヨネ、永岡君、いいちゃんなどと一緒に駆け回っていた。
 2つのマンションにはそれぞれ窓のあるエレベーターが付いていた。全ての階に停まるのではなく、3階おきくらいで、電車の急行のように通り過ぎてしまう階もあった。私が泥棒組でエレベーターを使って逃走している時、通り過ぎてしまう階に、誰か警察組の男子がいたりするのが窓から見えた。
「あ、としこみっけ!!」
「つかまらないよー、バイバーイ」
 男子は必死に階段を使って追いかけてきたが、エレベーターには勝てなかった。とても悔しそうにしている様子が楽しくてしょうがなかった。男子達は運動の得意な、すばしっこい子が多かった。そんな彼らを出し抜くのは快感だった。
 マエさんと呼ばれていた前園隆志君(仮名)は、後にバスケットボールの名選手になった。現在は某医学系の大学職員として活躍している。私も大学の仕事関係で前園君にはお世話になったことがある。
 前園君は、昔から人の面倒見が良く、小学校の時から友達を大切にする男の子だった。以前書いたエピソード、4年生の時の話で、遠足の朝にヨネがふざけて「さようなら」と言ったら、S先生に「さようならと言うなら帰れ!」と叱られてしまったという話があったと思う。それには続きがあって、落ち込んでしまったヨネに寄り添い、なぐさめて元気を出させてくれたのがマエさんだった。
 他にも今はANAの整備士になったセイちゃんこと藤原誠治君(仮名)や、グッチョこと溝口義人君(仮名)などがいた。セイちゃんは久しぶりに同窓会で会った時、ANAの整備士の制服が似合いそうな、素敵な人に成長していた。ドラマに出てきそうな雰囲気だった。
 グッチョは、私たち家族が住んでいた家の、下の階に住んでいた男子で、いろいろとうちの家族のプロフィールと偶然が重なっていた。理恵ちゃんという3歳下の妹がいて、私と同じ誕生日だった。それにグッチョの誕生日は、私の弟と同じ日だったのだ。さらにうちの母とグッチョのお母さんは同じ名前、漢字まで同じだった。
 彼は東工大の大学院から某ウォシュ〇ットの会社に就職した。同窓会では和式ウォシュ〇ットの開発の話を教えてくれてみんなが大爆笑だった。
「お尻の位置決めが定まらないから、水がピューッと頭上から降ってきてねぇ」
 試行錯誤を重ね、無事に和式用も商品化されたらしいが、あまり買う人もいなかったのか、90年代には販売終了になってしまったらしい。
 こうやって書いていたら、また同窓会をしたくなってきたなぁ。他にも楽しいメンバーはいっぱいいるのだけれど、またの機会に書いていきたいと思う。

2019年6月6日木曜日

20.女性に成長するほのぼのかわいいお年頃

クラスメイトたちと。
後列右が私。
何となく男子たちのことも意識し始めた頃。

 5年生の頃、私はクラスの女子たちに比べると成長が早く、背も大きかった。上の写真を見てもわかる通り、私は同級生よりも少し大人びている。
 11歳になったある日のこと、母は「明日からこれを付けて学校に行きなさい」と、プレゼントのようなかわいらしい紙包みを私にくれた。中を開けてみると、みずいろのお花のレースが付いたブラジャーが入っていた。
「わぁ、かわいい」
 生まれて初めてのブラジャーだった。ちょっと恥ずかしかったけれど、翌日からはそれを付けて学校に行った。たぶんまだ他の同級生女子はブラジャーを付けていなかったと思う。
 その頃、体育の時の着替えは、男子と女子、別々だったのだろうか。詳細には覚えていない。しかし、誰か女子が気付いて
「あっブラジャーしてるの? 見せて、見せて!」
という感じで、一気にみんなが知ることになったような記憶がある。
 それに親友のちっちゃんとは、登校も下校もいつも一緒で、隠し事も一切なく、いつも互いのことを全て話していたので、きっとブラジャーのことも話したと思う。

 上の写真で私の隣に写っている新藤りか子さん(仮名)は、5年生になって新しい桜が丘の団地に引っ越してきた面白い女の子だった。新藤さんはなぜか私のことをとても気に入ってくれて、いつも私にスリスリしてきた。写真撮影の時も、私は新藤さんにスリスリされ、爆笑させられている。
 新藤さんは私のブラジャーにも興味津々だった。新藤さん自身は、まだ背も小さく痩せている女の子だったので、未知の世界へのあこがれがあったのかもしれない。だんだん大人になって、そういうお年頃になってきた私たちであった。
 
 隣のクラス、5年2組には諸田香澄さん(仮名)という女の子がいた。5年生の時に引っ越してきたので、小学校の時にはあまり話したことはなかったけれど、お互いに存在は知っていた。そして諸田香澄さんとは、中学・高校と一緒で、特に高3の時には同じクラスになってとても仲良くなった。
「としこのことは、小学校の時からよく知ってるよ。5年生の時、としこがブラジャー着けたってこと、2組でもすごい話題になったんだよ」。
 彼女は高3の時に、そんな意外な話も教えてくれた。隣のクラスにまで話が届いていたなんて。それを聞いた私は爆笑してしまった。
 ブラジャーに興味津々だったかわいらしい時代、子どもから大人に変わっていくあの時代の一コマは、ほのぼのとしていいなぁと思う。

 
 


36.【最終回】小学校を卒業、そして・・・

 日光修学旅行が終わった頃、卒業制作の話が高梨先生からあった。 「何か6年1組として記念になるものを作って、小学校の中に残しましょう」  花壇を作るとか、遊び道具を作るとか、いくつか案があったと思うが、話し合いの結果、「トーテムポール」を作ることになった。1組と...