2019年5月29日水曜日

19.ほぼ学級崩壊?ー農家への課外授業

   
写真はイメージです(横須賀写真ライブラリー)

 昭和51年頃、望洋小学校の周りには、少しずつ家が立ち並び始めていたが、久里浜方面へ抜ける吉井のあたりは、まだ山や田んぼや畑、農家が立ち並んでいた。
 ある春の日、歩いて数十分の「吉井の田んぼ」で課外授業があった。池のめだかを観察したり、農家の立ち並ぶ山道を走り回ったり。5年生の私たちにとって、それは本当に楽しい楽しい夢のような時間だった。
 その日のことが忘れられない私たちは、高梨先生に
「また吉井の田んぼ、農家に行きたい!」
「農家!農家!」
と何度もお願いした。
 しかし通常の授業もやらなくてはいけないから、そんなにしょっちゅう農家に出かけてもいられない。高梨先生は困った顔をしながら、私たちの懇願を受け流していた。
 どうしてもまた農家に行きたかった私たちは、みんなで頭をひねって作戦を練った。
「朝、先生が来たら、みんなで農家!農家!と大声で叫ぼうよ」
「そうだ、黒板いっぱいに農家の絵を描こうよ」

 数日後、その作戦は実行に移された。私たちは早めに学校に行って、農家の絵やら文字やらを黒板にめいっぱい殴り書きし、自分たちの情熱を表現した。
 事前の練習ではクラスのリーダー的存在だった、いいちゃんこと飯坂哲太君(仮名)が音頭を取った。
「じゃあ、みんなで声を合わせて。せーの!」
「農家!農家!農家!農家!」
 男子も女子もみんな一緒になって、出来る限りの大声を出した。
「いいね、その調子。じゃあ本番でも僕が、せーの、って言ったらスタートだよ。それまでは静かに着席だからね」
「OK!」
 私たちは高梨先生が教室にやって来るのが待ちきれなかった。どんな反応をするのか、そして農家に再度行くことは叶うのか。ドキドキしながら先生の到着を待った。
 しばらくすると、戸がガラガラと開いて、高梨先生の丸い顔が現れた。
「あらっ、今朝は静かねぇ」
 私たちはいつも教室内でうるさく騒いでいたのに、その日は静かに着席していたから、先生はとてもうれしそうだった。そして黒板に目を移した瞬間、リーダーの飯坂君が
「せーの!」
と合図を送った。その瞬間、一斉に
「農家!農家!農家!農家!」
という私たちの声が教室いっぱいに鳴り響いた。先生は大爆笑しながら、両手を上げて(ストップ!)のジェスチャーをした。しかしその声はいつまでも止むことがなく続いた。
「農家!農家!農家!農家!」
 高梨先生はとうとう根負けして
「わかった、わかったから。農家に連れて行くから」
と言ってくれた。私たちの勝利だった。

 数日経ってから、先生はあの吉井の田んぼの近くにある農家へ遊びに連れて行ってくれた。それは楽しかったけれど、実は私たちが一番楽しかったのは、教室で「農家!農家!」と叫んでいる瞬間だったのかもしれない。教室の退屈な授業から抜け出すこと、先生を根負けさせて自分たちの主張を通すこと、そのようなことが楽しさの本質だったのかもしれない。
 5年生の時の思い出は他にも沢山あるけれど、やはり一番印象に残っているのは、この「農家事件」である。授業ができない状態になって、ある意味「学級崩壊」と言えたかもしれない。あの自由すぎる5年1組の雰囲気は、大人になってからも心の宝物である。自由で優しかった高梨麗子先生には大変感謝している。



2019年5月23日木曜日

18.担任の先生とマージャンをした思い出

 
担任の高梨先生(前列右端)と女子たち。
私は前列左端。

 高梨麗子先生の家には、数名のクラスメイトたちと一緒に何回か遊びに行ったことがあった。
先生の家は、京急の堀ノ内駅が最寄だった。私が住んでいた京浜大津駅(現在は京急大津駅という名称に変わっている)の1つ隣が堀ノ内駅である。たしか先生の家までは歩いて行ったように記憶している。先生はご主人と娘さん一人の3人家族だった。ご主人はとてもスリムで、神津善行(中村メイコの夫)のような風貌の人だった。麗子先生と並ぶと対照的なキャラクターだった。
 娘さんはその頃、幼稚園の年長組くらいだったと思う。顔も体型も麗子先生と瓜二つの丸々と太ったかわいらしい女の子だった。私たちはその娘になぜか「ズバゴン」という愛称をつけた。
 ある時は先生の家で、先生も一緒にマージャンをした記憶がある。私はマージャンを知らなかったけれど、先生に教わって少しやったと思う。残念ながらその後すっかり忘れてしまって今はできない。
 「小学校の時、担任の先生とマージャンをやった」と言うと、だいたいの友人には驚かれる。高梨先生のお人柄がとても気さくで、私たち生徒にとても近しい存在だったからこそだったのだと思う。
 しかしあまりにも気さくで近しいと、子どもたちというのは先生をなめてしまい、時には暴走してしまうこともある。その話は次回詳しく書く予定である。

 ところで4年生の時の担任だった、とても厳しいS先生は、今度は2年生の弟の担任になった。2年生になった当日、弟はふさぎこんで家に帰って来た。いつもは大食いで私の残したゴハンまで食べてしまう弟だったけれど、その日は「食欲がない」と言って大好きなハンバーグを残してしまった。母によると「1年間あまり元気がなかった」らしい。

 私はそんな弟の様子には全く気付かず、S先生と離れて気さくな高梨先生の下、毎日学校で男子に混じって大騒ぎをしている体であった。(つづく)

2019年5月15日水曜日

17.5年生に進級!!

 
5年1組のメンバー
私は最後列の左から2番目

 昭和51年の4月、私は望洋小学校の5年生に進級した。1年前、望洋小の周りは、ほとんど何もなかったけれど、1年の間に建設ラッシュがあり、沢山の家が立ち並んだ。
 特に「桜が丘団地」(通称)という大きな団地が望洋小学校のすぐ前に建設されたことで、急に多くの転校生が増え、学校内も様変わりした。
 私たちの学年は1クラスだけだったのが、2クラスになった。私は5年1組に割り振られ、同じクラスにはちっちゃんがいた。ヨネやカノキャン、永岡君、奥田さん、朝美さん、マコちゃんたちは5年2組になって分かれてしまった。
 ちょっと寂しかった。しかし新しい出会いもあった。
 4年1組のメンバーは、どちらかというとおぼっちゃんっぽい男子が多かったけれど、桜が丘団地に引っ越してきたメンバーは、すごく元気ですばしっこく、スポーツが得意な男子が多かった印象がある。女子も個性的な楽しい子が多かった。
 5年1組の担任は、高梨麗子先生(仮名)という新しく転任してきた30代の先生だった(後ろから2列目の左端)。名前は麗しいのだけれど、写真でもわかる通り、見た目はコロコロとして、とてもかわいらしい先生だった。私たちは早速、先生に「おにぎり」というあだ名を付けた。
 高梨先生はヘビースモーカーで、ちょっとしゃがれた声をしていた。いつも愛車の軽をワイルドに運転していた。コロコロっとした車のデザインは先生にぴったりだった。
 いわゆる「学校の先生」タイプではなかったし、私たちのお母さんとも全然違ったタイプだった。
 そんな高梨先生は、教育方針も自由だった。いや、特に「方針」というものは持ってなかったのだと思う。
 私たちはそんな高梨先生のもとで、とても自由奔放な、楽しい1年間を送ることができた。(つづく)
 

36.【最終回】小学校を卒業、そして・・・

 日光修学旅行が終わった頃、卒業制作の話が高梨先生からあった。 「何か6年1組として記念になるものを作って、小学校の中に残しましょう」  花壇を作るとか、遊び道具を作るとか、いくつか案があったと思うが、話し合いの結果、「トーテムポール」を作ることになった。1組と...