2019年2月28日木曜日

6.同じ苗字の女の子、朝美さん

小学校の同級生、上級生たちと。
真ん中のスカートをはいているのが私。
(写真は加工しています)

 小4に上がった4月最初の登校日のこと。
 S先生がアイウエオ順に、クラスメイトの名前を読み上げていった。男子から始まり、女子の名前を呼び始め、私の苗字は「菊池」だから、比較的最初の方に呼ばれる。
 「菊池・・・アサミさん」
 S先生は大きなはっきりした声で、そう読み上げた。
(えっ、私の名前はアサミじゃありません、としこです。なぜ??間違ってます!)
 1秒にも満たない瞬間だったが、私は頭の中でそう考え、非常に狼狽した。
 するとすぐに、前の席に座っていた一人の女の子が、すらっとした長い腕を「はい!」と上に挙げたのだった。
(なあんだ。同じ苗字の子がいたんだ)
 私が同級生の菊池朝美さん(仮名)のことを知った瞬間だった。
 それにしても、小4の同級生の女の子は7人しかいなかったのに、同じ苗字が2人もいるなんて。錦糸小学校では、同じ苗字の子に会ったことはなかった。たぶん親戚以外で生まれて初めて同じ苗字の子に出会ったのだと思う。私の驚きは大きかった。
 朝美さんは、偶然にも同じ団地の同じ棟に住んでいたこともあり、すぐに仲良くなった。2つ上のお姉さんがいたせいか、大人っぽく穏やかな性格で、とてもおしゃれだった印象がある。
 この写真では、私の向かって左側にいる赤いパンタロンをはいているのが朝美さんである。背がすらっとして足が長く、腰まである長い髪がトレードマークで、その髪をいつも三つ編みにしていた。
 朝美さんは全体的にバンビのようなイメージの女の子だった。足がとても速く、走るときは小鹿のように軽やかな姿だった。運動会の時にはリレーの選手に選ばれて、皆の注目を浴びていた(運動会の話は、追って詳しく書きたいと思う)。
 錦糸町では「トコちゃん」と呼ばれていた私だったが、横須賀に引っ越してからは「としこさん」とか「としこ」と呼ばれるようになった。他のクラスメイトは苗字で呼ばれることが多かったけれど、朝美さんと私だけは、区別するためにファーストネームで呼ばれていた。小学校の同級生が「としこ」と呼んでいたので、中学、高校の同級生も皆「としこ」と呼ぶようになった。
 結局その習慣が、50歳を過ぎた今でも続いている。同級生の男の子からもSNSなどで私だけ「としこ!」とファーストネームで呼び捨てにされるのは、小4の時からの名残である。朝美さんがいなかったら、きっと違う呼び方をされていたのではないかと思う。
 でも子どもの時から変わらずファーストネームで呼び捨てにされるのは、意外と嬉しいものなので、あの時、朝美さんがいてくれてよかったなぁ、なんて思う今日この頃である。

同級生の女の子は最初、
7人しかいませんでした。
真ん中の白いカーディガンが私。

 


2019年2月24日日曜日

5.昭和の男の子たち

遠足に行った日。
2列目の向かって右から4番目が私。

 昔、昔、昭和の小学生の男の子たちは、みんな自分のひいきの野球チームの帽子をかぶっていた。上の写真を見ると、いかにも「昭和だなぁ」と思う。ズボンの丈も、今の小学生と違って短い。
 ちなみに前回の話で「悪ガキ」として登場した永岡有二くんは、2列目の向かって右から2番目に写っている。元気なスマイルに悪ガキ感がにじみ出ている。
 しかし小学生の男の子というのは、基本的にみんな元気で、しょうもない生き物である。だから4年1組でも、永岡くん以外の男の子たちもけっこう元気で、いつも楽しそうにふざけていた。
 この写真の遠足の日も、私たちクラスの皆は、気分が高ぶって、いつもよりもはしゃいで大声を出したり、ふざけたりしていた。
 朝、クラスメイトたちは、リュックサックと水筒を下げ、先生に「おはようございます!」と元気に明るく挨拶をして、教室に集まってきた。
 米本達郎くん(仮名)は、成績のよい生徒だったけれど、頭の回転が早く機転が利くので、いつもジョークを言ってふざけている男の子だった。その米本くんは、教室に入って来た時に、「おはようございます」ではなく、満面の笑みで「さようなら!」と大声で言った。するとクラスのみんながどっと笑い転げたのだった。私もそのふざけた感じと、言葉のギャップがおかしくて大声で笑った。
 しかし真面目なS先生だけは違った。米本くんのふざけた感じが気に入らなかったのか、「さようなら、と言うなら、このまま帰りなさい!」と真顔で米本くんを叱ったのだった。
 教室の中には、急にピリッとした空気が漂った。米本くんは帰らなかったけれど、それまでのふざけた感じが止まり、急におとなしくなってしまった。少々気の毒な感じもした。
 S先生は日頃から、ふざけたり、大声を出したりして目立とうとする生徒があまり好きではなかったように思う。ふざけて目立つ生徒だけではなく、勉強ができて目立つ生徒にもS先生は厳しかった。「いい気になっていると、そのうちに痛い目に遭うから気を付けるように」というような、教訓めいたことをいつも話していた。
 たしかにそれは、これから大人になっていく中で、役に立つ処世術だったかもしれない。遠足の朝も、ふざけている生徒たちを安全に引率するためには、少々厳しくすることも必要だったのかもしれない。
 ところで米本くんだが、彼は今では立派な商社マンになって世界を渡り歩いている。同窓会にも忙しいスケジュールを調整して来てくれる。あの遠足の日の思い出を、自ら話題にし、「ほんとにあの時はビビったよ~」と、面白おかしく話してくれる笑顔は、小学校4年生の時から変わっていない。
 
 

2019年2月23日土曜日

4.わたしのしょうらいの希望


 小学校4年の時の担任のS先生は、当時「かもめ」という父兄向けの通信を毎週ガリ版で印刷・発行していた。週に2回の時もあったように思う。とにかくまめで几帳面で教育熱心だった。
 上の写真は、「かもめ」に掲載された、私が作文で書いた「しょうらいの希望」である。この時は私だけではなく全員の作文が掲載された。数年前の同窓会の時、S先生が参加者全員にコピーを持ってきてくれた。S先生の字は、ガリ版の原紙のマス目にきっちりおさまるように書かれていて読みやすい。几帳面な人柄がにじみ出ている。
 内容を読んでみると、もうこの頃から私の文章スタイルは今とほとんど変わっていないことがわかる。母のセリフで状況を伝えているところなどは、このブログと全く同じである。
 3年生の時の「小さい子」というのは、錦糸町のさくらちゃんのことだろう。50を過ぎてこんなブログを書いていることを思うと、私の原点はそこにあって、結局戻ってくるのはそこなのだという気がしている。
 ところで「ようちえんなんて、小さい子のめんどうで、たいへんだぜ」という2番目のセリフは誰が言ったのだろう。「ぜ」という語尾から、男の子だろうと推測されるが、これはたぶん、同じクラスの永岡有二くん(仮名)ではないかと思っている。
 永岡くんは同じ団地の中で、私が住んでいた棟の隣の棟に住んでいた。背が高くがっちりした体格で、声も大きく元気な男の子だった。しょっちゅう私をからかったり、ちょっかいを出したりする、いわゆる「悪ガキ」だった。このセリフはその頃の関係性からも、いかにも永岡くんが言いそうなセリフである。
 小学校4年生くらいになると、男の子よりも女の子の方が少し大人っぽくなってくる。いつも私は永岡くんのことを「うるさいなぁ、しょうもないなぁ」と思っていたけれど、中学に入ると、永岡くんは急に勉強ができるようになって、その後20歳の同窓会の時には、いつの間にか国立のH橋大学に入学していて驚いてしまった。
 今ではビジネスマンとして偉くなっているけれど、同窓会で会うと永岡くんと私との会話は小学校4年生の時と変わらない。同級生って本当に不思議な存在だと思う。
 
 

2019年2月16日土曜日

3.小学校の校歌を作った思い出

 
(横須賀写真ライブラリより)

 新興住宅地に急遽できた望洋小学校は、はじめは校歌もなかった。
 けれどある日、担任のS先生から「校歌を全校の生徒で作ることになりました」というお話があった。生徒それぞれが詞を考えて提出し、その中で一番いい作品を校歌にするということだった。
 5.6年生も同じように歌詞を考えて提出するのだから、私たち4年生はがんばらなくてはいけない。私も一生懸命、自分なりに歌詞を考えて〆切までに提出をした。
 他の生徒たちも同様だった。中には家に持ち帰って親に考えてもらった作品を提出する子もいた。やはり大人が考えた歌詞はとても良くできているけれど、「子供らしさがない」ということで、すぐ先生たちにははじかれてしまったらしい。
 結果として同じクラスの女の子、奥田さん(仮名)の作品がみごと選ばれた。

「山の上に 建っている
眺めのいい 小学校
富士山見える 船見える
みんなの みんなの 望洋小」

 素直で、かつ情景があざやかに浮かんでくる素晴らしい作品だと思う。大人になった今、あらためてそう感じる。
 2番の歌詞もあって、サビの部分は「大きくなるぞ 望洋小」だったと思う。最初は生徒の数も少ない学校だった。4年生も男子が15人、女子が7人しかいなかった。それが毎月のように転校生が増えていき、どんどん大きくなっている最中だった。
 奥田さんは日頃から勉強ができて、作文も一番上手だった。大人っぽく、性格も穏やかな人だった。
 私はまだ小学校4年生の頃は、本当に子どもで、いつも男の子に混じって大騒ぎしているようなタイプだったので、奥田さんのことを同級生ながら尊敬していた。
 奥田さんは自分の作品が選ばれたにもかかわらず、大騒ぎをせず、とても謙虚な感じだったことを覚えている。
 その後、歌詞には少し改変があった。「大きくなるぞ」はとてもいい歌詞だけれど、いつかは規模も固定するから、等の議論が先生たちの間であったらしい。
 しかし今でも望洋小学校の正式な校歌として歌い継がれているようである。先日検索をしてみたら、望洋小のサイトがあり、メロディだけではあるが、校歌として掲載されてあった。
 奥田さんとは大人になってから同窓会で何十年ぶりに再会した。昔と変わらずしっかりしていて、いつも同窓会ではまとめ役をかって出てくれる。おだやかで大人っぽい雰囲気も変わっていなくてとても嬉しかった。
 校歌を作った時の話を聞いてみたら「歌詞の改変で、結局私が考えた部分は大幅に減ってしまったのだけれど、S先生が私の名前を作者として残すために、いろいろ奔走してくださったそうなの」とのことだった。
 担任のS先生は、以前、年賀状の書き方の回で「とても厳しく、怖かった」という話をした。しかしとても生徒思いで熱心な先生でもあった。奥田さんの話を初めて聞いて「全く知らなかった!」と驚いた。大人になってからそんな裏話を聞くのも楽しいことである。
 

2019年2月8日金曜日

2.横須賀へのカルチャーショック


横須賀の家からいつも見えていた
猿島の風景
(横須賀写真ライブラリから借用)

 小学校4年生になる時、私は錦糸町の家から横須賀に引っ越した。私の家は海岸線にあって、きれいな海と猿島を常に臨むことができた。家から徒歩2~3分のところでは釣りもできた。今までいた錦糸町とはまったく違う生活が始まっていた。
 小学校は坂道をかなり登った山の上にあり、毎日家から30分かけて徒歩で通った。時には雨風が強く、上から下までびしょぬれになったりもした。そのため上下の雨がっぱを小学校であっせんしてくれて、私たち生徒は雨の日はそれを着て通学することもあった。新聞配達の人が着るような、ゴム製のとても頑丈なカッパだった。
 錦糸町の小学校の校庭はアスファルトだったけれど、横須賀の小学校は土。というよりも白っぽい石ころだらけの荒れ地だった。きっと新興住宅地の造成に合わせて急遽つくったので、校庭の整備まで手が回らなかったのだと思う。私たち生徒や先生は、朝礼の後などに、よく校庭の石ころ拾いをした。それはたぶん半年くらい続き、そのうちに校庭の石もほとんどなくなり、転んでも安全な校庭が出来上がっていった。
 横須賀には防衛大学があるので、街で制服姿の防大生に会うことがよくあった。
「防大には頭がいいだけでは入れないんだよ。運動もできて、性格も良くないと受からないんだから」誰かがそう教えてくれた。
 防大の学生さんは、電車に乗っている時、席が空いていても絶対に座らない。私がある日、母と弟と一緒に京浜急行に乗っていると、席が1つ空いた。となりのおばあさんが防大生に「お兄さん、ここ空きましたよ!」と呼びかけていたことがあった。それでも防大生は固辞して席に座ることはなかった。
 横須賀には米軍基地もあって、地元の人は「ベース」と呼んでいる。横須賀の一番の繁華街、横須賀中央には、屈強なアメリカ人の軍人さんがたくさん歩いていた。今は日本国内で外国人に出会うことは珍しくないけれど、その頃、1975年頃は本当に珍しかったので、私にとっては大きなカルチャーショックだった。
 小学校の同級生のIくんのお父さんはベースに勤めていた。Iくんに誘われて一年に一度のベースの一般開放日に招かれたことがあった。広い敷地、英語で書かれた看板、何もかもがビッグサイズ。特に大きなアイスクリームを食べたことは忘れられない。本当のアメリカに来たような解放感があった。
 そういえばちょうど1975年、ダウンタウンブギウギバンドが「港のヨーコ ヨコハマ ヨコスカ」という曲を歌ってヒットしていた。クラスの男子たちは替え歌のように
「♪港のヨーコ ヨコハマ ヨコスカー」の後に「中央!」と付けて歌っていたことを思い出す。京急の「横須賀中央駅」のことである。地元の小学生ならではの替え歌だったと思う。
 その翌年には山口百恵が「横須賀ストーリー」をリリースした。あの歌詞に出てくる「急な坂道」や「海」は、まさしく私たちが暮らした横須賀の原風景だった。

36.【最終回】小学校を卒業、そして・・・

 日光修学旅行が終わった頃、卒業制作の話が高梨先生からあった。 「何か6年1組として記念になるものを作って、小学校の中に残しましょう」  花壇を作るとか、遊び道具を作るとか、いくつか案があったと思うが、話し合いの結果、「トーテムポール」を作ることになった。1組と...