2019年8月31日土曜日

31.錦糸小のスパルタ水泳指導と、ローラースケートもできるプールの話

  横須賀の望洋小学校の授業で。
    左が私。

 小学校3年の話にさかのぼるが、通っていた錦糸小学校は、都会の真ん中にありながら、水泳の指導にかなり力を入れていた。
 たしか1級から30級くらいまで細かくあって、30級の「顔を水に付けられる」から始まっていたと思う。しょっちゅう昇級テストがあり、1つ級が取れると、水泳帽に縫い付けるひもを1本もらうことができた。だから水泳が得意な子の帽子には沢山の線が縫い付けてあった。
(これは当時の都内の小学校の共通の指導方法だったのかもしれない。似たような記憶がある人は教えてください)
 私はどちらかと言うと、水泳はあまり好きではなかったが、スパルタ教育のおかげで、10メートルの平泳ぎくらいはできるようになっていた。それは錦糸小学校の同級生の中ではかなり泳げない児童の部類だった。
 水泳帽にもほとんど線を縫い付けることができず、水泳の授業の際には、恥ずかしい、肩身の狭い気持ちで臨んでいたことを思い出す。皆に成績がわかってしまう指導法というのは、頑張る原動力になるかもしれないが、苦手意識をさらに増幅させてしまう原因でもあるように思う。

 小学校4年で横須賀の望洋小学校に引っ越してきて驚いたのは、海がすぐ近くにあるのにかなづちの子がけっこういたことである。だから新しい小学校の中では、水泳が得意な子の部類に入ってしまった。やっと楽しく水泳ができるようになった私だった。
 望洋小学校は、創立当初、プールがなかったので、馬堀海岸にある市営のプールまで出かけて授業を行っていたことを思い出す。
 そのプールは、まわりがローラースケート場になっていて、夏はプール、それ以外の季節はローラースケートという感じで、季節を問わず、授業以外でもよく遊びに行った思い出がある。夏休みの多くの時間を、あの馬堀プールで過ごしたのではないだろうか。
 プールの後は売店でジュースやアイスクリーム、お菓子などを買って食べたことも楽しかった。フリトレーの「チートス」に出会ったのもあのプールの売店だった。今ではどこでも目にするが、昭和50年頃は珍しく、あのチーズ味が特別においしく感じられたものだった。
 馬堀から少し先には、走水(はしりみず)海岸もあって、そこでもよく海水浴を楽しんでいた。横須賀に住んでいた時は、海や海岸、水泳などの夏らしさが身近にあった気がする。
 
 今日は8月31日。夏ももう終わる。今年は水着を一回も着なかった。昨年水着を着たのは泳ぐためではなく、海外旅行の海岸でちょっとだけ水を触るためだった。
 どっぷり水泳を楽しむことをしなくなってもう何年になるのだろう。
 
 

 

2019年8月24日土曜日

30.演劇クラブに入る

 6年生になった時、授業とは別に全員が何か好きなクラブに属して活動する、ということがあった。 
 私は演劇クラブに入会した。その頃、思春期の女子の例にもれず、テレビドラマや芸能界にとても興味を持っている女の子だった。
 4年生の時は「将来は幼稚園の先生」などと書いていたが、高学年になると「どこかの劇団の舞台女優になって、その後はテレビで活躍」なんてことまでイメージしていた。人前で話したり、人に何かを伝えたり、感動させたりすることに興味があったのだと思う。
 ただ「美人女優」になれないことは幼い私でもわかっていた。だから大竹しのぶや樹木希林のような演技派に漠然と憧れていたのだった。
 上の写真の左の方に、シナリオらしきものを2人で持っている女子の1人が私である。一緒にシナリオを持っているのが5年生の時に転校してきたムラチこと村木宏美さん(仮名)である。ムラチは、おとなしいけれどしっかりしていて優しい感じの女の子だった。とても手先が器用で、その頃女子の間で流行っていたマスコット作りなども得意だった。
 右端に立っているサングラスをかけた上下黒の男性が顧問だった。6年2組の担任だった角田昭雄先生(仮名)である。
 角田先生は、ちょっとアングラ劇団の男優のようにも見えるが、特に厳しい指導があったわけでもなく、みんなで和気あいあいと「演劇ごっこ」をしていた感じである。頻度も隔週か、月に一度程度だったと思う。実際に何か劇を発表したとか、そういう記憶はない。
 中高の部活とは違って、他のクラブもゆるい感じで行われていた。たぶん中学に向けて、授業とは別の趣味活動への順応といった目的があったのではないだろうか。
 アルバムには、写真新聞クラブ、手芸クラブ、マンガクラブ、将棋クラブ、音楽クラブ、ポートボールクラブなど、多彩なクラブが載っていて、皆授業時間とは別な、楽しそうな笑顔を見せている。
「遊び研究クラブ」というのもあった。いつでも一緒だったちっちゃんは、遊び研究クラブに属していた。写真の一番手前に写っているのがちっちゃんである。両ひざに置いた手と笑顔がかわいらしい。
 遊びを研究するクラブ、とはいったいどんなことをやっていたのだろう。ちっちゃんに聞いたら「校庭で手つなぎ鬼をやったり、室内ではカルタや百人一首をやっていたような。いろいろな遊びをしていたよ。研究は特にしていなかったと思う」とのことだった。  
 たぶんクラブ活動の目的は、自発的に何か自分の好きなものを選んで取り組むこと、お友達づくり、みんなと協力したり、楽しんだりすることだったのだと思う。クラブ活動を通じて、数年後の中高の部活動などもイメージできたと思う。
 クラブ活動があったこと、アルバムを見るまでは実はすっかり忘れていたのだが、振り返ると意外と大事な経験だったのかもしれない。

2019年8月10日土曜日

29.キャンディ♡キャンディ、「なかよし」を本屋さんで買っていた頃

 
キャンディ♡キャンディのLPレコード

 昭和51年5月から、私は少女向けまんが雑誌「なかよし」を買っていた。同じ少女まんが雑誌で「りぼん」もあったのだが、きっと本屋さんで表紙を見て「なかよし」の方を気に入ったのだと思う。
「なかよし」といえば「キャンディ♡キャンディ」である。私が買い始めた頃、すでにお話は佳境に入っていた。初恋の人アンソニーは事故で他界していて、キャンディはテリィのことを愛し始めていた頃だった。舞台はアメリカとスコットランド。タータンチェックやバグパイプなどを生まれて初めて知ったのも、この物語の中だった。
 私はお話しに夢中になり、毎月発売日には近所の本屋さん「大津書房」に急いで行って買っていた。その頃は300円だった。レターセットなどの付録も沢山付いていて、錦糸町の友達との文通などに大切に使っていた。
 昭和51年の10月からは、テレビでの放映もスタートした。放映の初日はドキドキしながらテレビの前で楽しみに待っていた。しかし「なかよし」の原画とはどこか違うタッチ、雑な感じの絵に心底がっかりした記憶がある。大ファンだっただけにその落胆は大きかった。
 とは言いながらも毎週しっかりテレビはみていた。それに主題歌などが入ったLPレコードも買って何度も何度も聴いたり歌ったりしていた。よほどはまっていたのだと思う。
 今はあんなふうに、発売日を楽しみにするとか、好きな曲を何度も聴くとか、そういうことは一切なくなってしまったなと、あの頃を懐かしく思う。年齢もあるのだろうけれど、物に対する有難みが時代と共に薄れてしまったと思う。
 あの頃通った「大津書房」も、数年前に京急大津を訪れた時、すでに無くなっていた。店主のオバサンがいつも立ち読みの客に目を光らせていて怖かった。そんなことも懐かしい。
 今は大きな駅の本屋さんもなくなりつつあって寂しい。横須賀中央にあった「平坂書房」もなくなっていたのには驚いた。
 変化は早い。でもそれだけもう長く生きているということなのかもしれない。
 

36.【最終回】小学校を卒業、そして・・・

 日光修学旅行が終わった頃、卒業制作の話が高梨先生からあった。 「何か6年1組として記念になるものを作って、小学校の中に残しましょう」  花壇を作るとか、遊び道具を作るとか、いくつか案があったと思うが、話し合いの結果、「トーテムポール」を作ることになった。1組と...