2019年4月27日土曜日

16.転校生の加納君の悩み


4月には22人しかいなかったクラスメイト、年が明けたころには30人以上に増えていました。最後列の真ん中あたり、三つ編みの朝美さんの左が加納君。

 私が横須賀で住んでいた新しいマンション群には、最初5階建てが9棟あった。その後、時期をずらして7階建てと11階建ての2つの高層が新たに建設され、さらにたくさんの転校生が増えていった。
 高層マンションに引っ越してきた転校生の一人、加納公平君(仮名)は、優しい感じの男の子だった。色白で丸顔。全体がふわっとしたマシュマロのようなイメージの子だった。
 彼は川崎市内から転校してきたのだが、転校の数か月前からある悩みを抱えていた。理科の授業で「化膿菌」という言葉を学んでから、クラスのみんなに「加納菌」と呼ばれるようになってしまったのだ。
 授業の前に教科書でその言葉を見つけた時、(これはやばいことになるぞ)と彼は思った。案の定、先生が「化膿菌」を紹介した時に、クラスの皆がうれしそうに加納君の方を振り向いた。加納君は何事もなかったように笑顔を作っていたけれど、心の中は非常に傷ついていた。
 自分の名前に「菌」を付けて呼ばれることほど悲しいことはない。いじめの常とう手段である。いじめる方はあまり悪意を感じていないことがまた厄介である。
 加納君の一縷の望みは「もうすぐ横須賀に転校する」ということだった。しばらくの間我慢し、数か月後、加納君は私たちの望洋小学校4年1組に転校してきた。
 転校の日、担任のS先生が皆の前で加納君を紹介すると、さっそく休み時間には数人の男子が加納君の周りに集まってきた。
「僕は米本って言うんだ。ヨネって呼ばれてる。こっちは井上君、イノッピって呼ばれてるよ」
 明るく積極的な米本君は、加納君にそう自己紹介し、最後に
「ところで加納君は、川崎の小学校で何て呼ばれてたの?」
と聞いた。
 加納君は困ってしまった。何と答えようか。嘘を言うのもいけないことだし、でも正直に言ってしまったらまた「加納菌」と呼ばれてしまう。
 しばらく悩んでから意を決し、小さな声で、もごもごと
「か、かのう、きん…」
と答えた。
 加納君の白い顔はみるみる真っ赤になり、少々口も震えていた。それを見ていたヨネやイノッピは、川崎の小学校で何があったのか、全てを察したのだった。そして
「よし、じゃあ、この学校では、カノキャンて呼ぶのはどう?」
と新たな呼び名を提案した。
「うん、カノキャン、いいねぇ」
 加納君は米本君の優しさと機転が、涙が出るほどうれしかった。
 それからは加納君の名前に「菌」を付けて呼ぶ子は誰もいなかったし、いつまでも「カノキャン」と呼ばれるようになったのだった。

 大人になってから、久しぶりに同窓会で加納君に会った時、一人の女子が
「そういえば、カノキャンっていう呼び名は、どうして付いたの?」
と突然聞いた。そこでカノキャンは、私たちに川崎の小学校の話やヨネが名付けてくれた話を聞かせてくれた。
 私も全く知らない話だった。切ないけれど、ちょっと感動する友情物語を、ぜひ書き残しておきたいと思った次第である。
(この話を書くことは加納君本人から快諾をいただいています。若干脚色はありますが、事実に基づいています)
 
 
 


2019年4月24日水曜日

15.ちっちゃんと歌ったGメン76

工作の時間に人形劇の人形を作りました。
中央がちっちゃん。

 望洋小学校に転校してから、一番長く一緒の時間を過ごしたのは、ちっちゃんこと荻野愛美さん(仮名)だった。彼女は私と同じマンション群に住んでいて、登下校も必ず毎日一緒だった。
 以前にも書いたが、彼女はクラスでも一番小さかったので、「ちっちゃん」と呼ばれていた。小学校3年まで住んでいた横浜の小学校でも、ちっちゃんと呼ばれていたらしい。
 横浜出身のちっちゃんは、よく会話の語尾に「~じゃん」を使っていた。錦糸町から引っ越してきた私にとって、最初それは驚きだった(今では私も普通に使っているが)。
 望洋小学校の生徒は、同じ横須賀市内から引っ越してきた子も多かった。その子たち、特に男の子たちは会話の語尾に「~だべ」を多用していた。東京から引っ越してきた私にとって、「だべ」は「じゃん」以上に衝撃的だった。何だかひどく田舎者になった気がして、
(絶対、だべ、は使わないぞ!)
 と心の中で誓っていた。今では元SMAPの中居くん(藤沢出身)が「だべ」を全国区にしてくれた。隔世の感がある。
 ちっちゃんは活発な女の子で、陸上、ボール競技など、全ての体操競技が得意だった。私が大の苦手だった器械体操なども得意だった。そういえば、あの頃、まだ望洋小学校には体育館がなく、1つの教室に体操マットを敷いて器械体操の授業をやっていたことを思い出す。体育館が完成したのはいつのことだったろう。
ちっちゃんは音楽も得意で、今でいう「絶対音感」を持っていた。全ての曲をドレミファで歌うことができたし、車のクラクションなどもドレミで表現できた。
 その頃、よく私たちはテレビ番組の主題歌を替え歌にして、登下校中に一緒に歌っていた。特にお気に入りだったのは「Gメン75」だった。
 「Gメン75」は、たしかTBS系で、土曜日の夜9時からやっていた番組である。丹波哲郎がボスだった。
 小4の頃の私は、毎日9時には眠くなって寝てしまう生活だった。Gメン75がある日は頑張って起きて見ていたことを思い出す。
 ちっちゃんも私と同様、Gメン75の放映を楽しみにしていた。そして私たちはいつからか、マコちゃんなどクラスの数人をメンバーにして「Gメン76」という架空の物語を作り上げるようになっていた。
 ちゃんと「Gメン76」のテーマ曲も作った。本家の番組では「追憶」というエンディング曲があり、歌詞は「♪いつか来た道、あの街角・・・」という感じだったが、「Gメン76」のテーマ曲は
「♪いつか来た学校、あの望洋小学校・・・」という感じだった。
 私たちは登下校の途中で、よく「Gメン76」の歌を歌っていた。まだ子供で、本当に他愛のない、かわいらしい時代だったと思う。
 二人とも、あまり勉強には興味がなく、いつも元気に、毎日楽しく暮らしていた。
 ちっちゃんは今も元気で、一番頑張っているのは子どもの教育だと思う。子どもが小学校の頃からお受験なども頑張っていた。私たちが小学校の頃、楽しくお気楽な日々を過ごしていたことは、きっと子どもには内緒にしているに違いない(笑)。

2019年4月3日水曜日

14.Pパン=PTA推奨パンツ?


 

 望洋小学校は全員が転校生だったので、みんなの体操着もまちまちだった。前の小学校の校章がプリントされた体操着を着ている子も多かった。それでもみんな気にせず、誰かを仲間外れにするわけでもなく、3年生まで着ていた体操着をそのまま着ていた。
 その頃、特徴があったのは女子の体操着である。ボトムのデザインが様々だった。ちょうちんブルマー(昭和!)の子や、男子と同じような形のショートパンツで色が紺や黒だったりするものを履いている子もいた。
 私が履いていたのはPパンだった。Pパンという名称が正しいのかどうか、念のため検索をしてみたら、正式名称はPTA推奨パンツで、「横須賀だけで通用する名称」と書かれたサイトをいくつか発見した。
 たしか東京に住んでいた時からPパンと呼んでいたような気もするが定かではない。
 それになぜ「PTAが推奨」なのだろう。推測するに、ふだんスカートの下などに、これを履くことが推奨されていたのではないだろうか。私も母から必ずPパンを下に履くように言われていたことを思い出す。
 これから友人たちにも聞いて確かめてみたいと思っている。 

36.【最終回】小学校を卒業、そして・・・

 日光修学旅行が終わった頃、卒業制作の話が高梨先生からあった。 「何か6年1組として記念になるものを作って、小学校の中に残しましょう」  花壇を作るとか、遊び道具を作るとか、いくつか案があったと思うが、話し合いの結果、「トーテムポール」を作ることになった。1組と...